第5章 懺悔
第9話 明るい廊下
廊下は白く明るかった。
病棟の最上階は個室の病室しかないためか、人けはほとんどなかった。
ただ、長椅子に聡一一人が座っていた。
影が近付いてくるのに気づいて、聡一が顔を上げる。
そこに立っていたのは、彫像を思わせるほど端正な顔立ちの青年であった。東洋人にしては色素の薄い栗色の瞳と彫りの深い顔立ちが、彼に年齢を推測させない何かを付加している。失われた表情も相まって、見る者に彼が十七歳の高校生であることを想像させない。
「藤曲、薫君か」
静かな声で問い掛けた聡一に、青年――薫が「はい」と答えた。
「驚いた。随分、大人びたな」
「最後にお会いしたのは中等部の卒業式ですから」
「そうか。男の子の成長には驚かされる」
「あっと言う間だ」と言いながら、聡一が俯く。
「うちの祐も、か。いつの間にか、随分背が伸びて、肩の辺りも少々逞しくなった。もう少しゆっくりでいいと思うのだが、親のエゴだな。自分が高校生だった頃はもっと早く大人になりたいと思っていたものだ」
薫は半ば無視するかの如く「容態は」と割って入った。
「意識はまだ戻らない。医者が言うには、後は本人の回復力次第だそうだ」
「何があったんです」
薫の声に抑揚はない。
聡一が一人指を組み、そこに自らの額を押し当てる。
「私の留守の間、佳也子が納戸に閉じ込めていたのだそうだ。二十四時間以上、真夏の密閉空間に飲まず食わずで監禁されていたことになる。要は熱中症だが――私の戻りがあともう少し遅かったら、命はなかっただろう」
「熱中症では蛋白質が熱のあまり凝固するそうですよ。部活動中の高校生が毎年亡くなっているという報道はご存知ないですか」
「――……知っている」
「いくら祐が二階から飛び降りてもほぼ無傷の超合金製でも、脳味噌が凝固したら死にます」
聡一は、頭を抱え込んだ。
「佳也子を監督し切れなかった私の罪だ」
「ええ。僕もそう思います」
薫の声や視線はなおも冷ややかだ。
「なぜ僕に連絡を?」
「祐の携帯電話の電源を入れたら、君からのメールと電話着信が一斉に届いたのでな。祐を心配してくれているのだろうと思った」
「祐の携帯電話まで管理しているんですか」
「いや、救急隊を待っている間に、祐が携帯電話を握り締めていることに気づいたんだ。電池が切れているようだったから代わりに充電した。普段からそのようなことをしているわけではない。ただ今回に限って――最悪の場合は、特に親しい子には優先的に連絡を取らなければならないだろうと思ったこともある」
「最悪の場合ですか」
薫が初めて、眉根を寄せた。
「母と話しました」
「君と、君のお母さんが、かな」
「我が家には余裕があります。祖父母の遺産や僕の実父からの養育費などで生活は充分過ぎるほど潤っています。それこそ、母が働かなくても、僕を私立高校の寮に入れることができるくらいには。今住んでいるマンションの部屋も祐が掃除してくれたおかげで余ることが分かった。今ならば祐一人くらい受け入れることができます」
薫が、「生活が落ち着いてから訴える支度を始めても遅くはない」と語る。
「祐はまだ十六ですから充分法が保護してくれます。母が後見を務めることになると思いますが、母はいくらでも戦うつもりで動くと言いました」
「いくら祐でも」と、薫が初めて、声に感情を滲ませた。
「殺されかけてでも、馬鹿正直に貴方たちへの隷従を続けるとは思えない。いえ、万が一頷かなくても、僕が説得してみせます。いい加減目を覚ますようにと――これは、人権侵害であり、虐待だ、と。早く、認識するように、と」
聡一がふたたび、顔を上げた。その目が大きく見開かれていた。
「待ってくれ」
「祐の意識が戻るまでは待ちますよ。当人と話をしないことには。彼は頑固ですから」
「そうではなくて――」
聡一は、「そうではなくて」と繰り返してから、項垂れた。
「いや。そうだな。祐の意識が、回復すれば。祐と、話を、することが、できれば。祐と、話を――話を、しなければ……」
うわ言のように繰り返す。
廊下は静かで、二人の話す声もまったく反響しなかった。照明で充分な明るさが確保されている。空調のために空気も涼やかだ。
「――話を」
聡一が、俯いたまま、口を開く。
「話を、聞いてくれないか」
薫が表情を一切動かすことなく、「何のです」と問う。
「君に、聞いてもらいたい話がある。今まで、誰にも話してこなかったことだ。今の今まで、十四年もの間――いや。三十年以上にもわたる長い間、一度も。佳也子はもちろん、妻にも、話さなかったことだ」
「それをなぜ、今、僕に」
「分からない」
再度指を組み、額を押し付けることで頭を支える。
「誰かに聞いてほしかったのかもしれない。だが、話せなかった。祐がこんなことになるまで、私は誰にも明かせなかった。だが、今ならば――ようやく、君という、信頼に足る人間が現れた。そう、思えたのかもしれない」
薫は一瞬頬の肉を動かした。けれど、何も、言わなかった。ただ、仁王立ちのまま聡一を見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます