第8話 祈りの闇
辺り一面に闇だけが広がった。狭い納戸だと思っていたのに、途端に途方もなく広い闇に覆われているような寒気を覚えた。
急いで開けようとした。けれど戸の内側には取っ手がなかった。外側からしか開閉できないようになっているようだった。
閉じ込められた。
背筋が寒くなった。
なぜ佳也子の言うことに従ってしまったのだろう。なぜ、素直に従い、拒むことも疑うこともせず、ここまで来てしまったのだろう。
部屋は、真っ暗だった。
空気がかび臭い。大きく息を吸えば埃をも吸い込んで反射的に咳き込んだ。
一歩後ろに下がった途端何かにぶつかった。けれど何にぶつかったのかも分からない。
手探りで左右を確かめようとする。自分が両腕を広げれば荷物と荷物に触れられるほどの幅しかないことが分かる。しかしそれだけだ。
触覚しか当てにできない。
暗い。真っ暗だ。闇が広がっている。何も見えない。
窓がない。納戸だから当たり前だ。
灯りがない。むやみやたらに壁を触って探してみたがどこにもそれらしきものが見つからない。
暗い。
何も見えない。
視界のすべてが奪われた。
正面が戸であることは確かだ。
肩から戸にぶつかってみた。
戸はまったく動かない。
何度も何度も体当たりを繰り返した。
戸は、それでも、まったく動かない。
自分の息が次第に荒くなってくるのを感じる。
何も見えない。
何も聞こえない。
「佳也子!」
戸を力いっぱい叩いた。
「佳也子、佳也子」
戸は軋みすらしなかった。
「佳也子、開けろ」
戸が開く気配はなかった。
「開けてくれ」
戸を殴り続ける。
「開けて、頼む、開けてほしい」
何度も戸を殴り続ける。拳の方が軋み出す。けれど不思議と痛みは感じない。ただ手の感覚が次第に麻痺していく。遠のいていく。
何もかもが遠のいていく。
「佳也子!」
声がかすれる。喉が渇いていたことを思い出す。思い出したくなかった。
汗をかいている。
寒いのに暑い。
納戸の空気が自分を熱源に温まっているのだろうか。それとももともと空気がこもりやすいのだろうか。
息苦しい。
「頼む! 出してくれ!」
拳が震え始める。自分の意思とは関係なく動き始める。
止めてはいけない気がした。
止まった時が自分の最後であるような気がした。
最期であるような気がした。
このままでは――考えたくない。
どうしたらいいのか分からなかった。とにかく出してほしかった。
「ごめんなさい」
佳也子の笑顔の意味を、なぜ、もっとよく考えなかったのだろう。
佳也子は怒っていたのだ。
自分が佳也子に無断で家を出て薫の家に二泊もしたことが、佳也子は気に入らなかったのだ。
佳也子の怒りがとうとう頂点に達して、あの笑みが生まれたのだ。
早く佳也子の機嫌を取らなければならない。
「俺が悪かった! いくらでも謝るから」
手だけではない。もう手首から肘の辺りまでも感覚がない。
何とか戸に爪を立てる。
「お願い、頼むから、佳也子」
爪から強烈な痛みが走って目が覚めるばかりで何にもならない。
戸に耳をつけてみた。
やはり、何の音も聞こえない。
戸が厚過ぎるのか、そこに誰もいないのか――いずれにせよ、向こうの音が聞こえないということは、こちらの音も聞こえないということではないのか。
自分がここにいることを、佳也子以外、誰も知らない。
「佳也子……!」
佳也子以外は、誰も、開けられない。
「佳也子、佳也子……、佳也子」
他に、誰も、いない。
その場に膝をついた。
自分は大罪を犯した。
この家のものでありながら、佳也子に背いた。
佳也子の真の怒りを引きずり出してしまった。
「俺が、悪かった、から……」
音がかすれる。声が出なくなってくる。
叫び過ぎた。もともと乾いていた喉が、さらに乾いていく。
渇いた。
水が飲みたい。
ここにはない。
「……う」
ここにあるのは、闇だけだ。
床に横たえて、どれくらい経っただろう。今が昼なのか夜なのかも、祐には分からない。寒いのか暑いのかも分からなくなった。
相変わらず、戸の向こうからは何の音も聞こえない。助けを呼ぼうにもそこを誰かが通っているのか分からない。こんな母屋の隅になど、こんな小さな納戸になど、誰も用がないかもしれない。
喉が渇いた。
喉が乾いた。
全身が乾き始めた。
これ以上声を出すのは躊躇われた。万が一誰かの声が聞こえた時に声を上げるには、もう、最後の力しか残っていないような気がした。温存しておかなければならない。
暗い。真っ暗だ。闇しかない。
自分はここに、一人で、独りだ。
そんなことはない、と自分に言い聞かせる。
シャツの下に隠れた、胸元の十字架を握り締める。
自分が如何に耐えたか、神はご覧じている。きっと助けてくださる。
自分が今までどれほど佳也子の癇癪に耐えたか、自分が今までどれほど佳也子の悪戯に耐えたか、自分が今までどれほど佳也子の理不尽に耐えたか、自分が今までどれほど佳也子の不合理に耐えたか、神はすべてご存知だ。
今度こそ、助けてくださる。
自分は毎日祈っていたのだ。
自分は毎日、耐えて、耐えて、そして、祈っていたのだ。
神は乗り越えられぬ試練をお与えにならない。この試練もまた何とかなる。
どれほどの時が経ぎただろう。
もはや声は出せそうになかった。
思考が奪われていく。考えられなくなる。
わずかに身じろぎした時、腰の辺りに痛みを感じた。
鈍痛を取り除くため手を伸ばすと、そこに携帯電話が入っていた。
祐は目が覚めるのを覚えた。
なぜもっと早く気付かなかったのだろう。携帯電話を使えば外部と連絡が取れるではないか。
上半身を起こした。自分にまだそんな力が残っているとは思っていなかった。
神はまだ自分を見捨てていない。
携帯電話を開いた。
希望が見える。
その、はずだった。
圏外になっていた。
屋敷はもともと電波が悪いのだ。部屋によってはメールも電話もできないところがある。まして分厚い壁に囲まれた納戸ならなおさら――
望みを絶たれかけたが、祐は考え直した。
携帯電話の灯りがあれば、辺りの状況を見ることができる。
戸の開け方も分かるかもしれない。
周囲はやはり箱だらけで、どれが何なのかまったく分からなかった。迂闊に開けてこれ以上動ける空間を狭めるわけにはいかなかった。
戸の方へ携帯電話を向けようとして、また、全身の毛穴から汗が噴き出るのを感じた。
明滅し始めた。
充電が切れかかっている。
薫の家を出る少し前、聡一のメールを受信した段階ですでに残り一〇パーセントを切っていたことをようやく思い出した。
充電器を持っていなかった自分自身に対して激しい怒りと憎しみを覚えた。自分の腿を思い切り殴った。拳の骨が軋むばかりで何にもならなかった。
戸を見ることは叶わなかった。
携帯電話の電源が自動的に落ちた。
辺りが再び闇に呑まれた。
「天のお父様」
もはや、声になっているのかも、自分では分からなかった。
「主イエス」
床に横たえたまま、何もできなかった。
「聖霊」
十字架を、握り締める。
何の役にも立たない。
声は誰にも届かない。
誰の声も聞こえない。
自分は今まで何のために祈ってきたのだろうと思った。
あんなに祈り続けてきたのに、誰の声も聞こえない。
自分は何か罪を犯したのだろうか。否、罪人も救われるのではなかったか。
食事に呼ばれることはない。
空腹であるかどうかも分からない。
自分は今、飢えているのだろうか。渇きさえ遠退いた今、何を感じているのだろうか。
神の御許に逝くのだろうか。
結局、お助けにはならないのだろうか。
このまま干からびて死ぬ。
自分は何を信じて生きてきたのだろう。
神など本当にいるのだろうか。
自分が間違っていたのだろうか。
ここには闇しかない。
光など一条も差さない。
自分は、何を、信じて、生きてきたのだろう。
祐の意識が、闇の中に沈んだ。
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