FANTALZIER PICTRE

久遠マリ

【お題:青空、氷、竜】




【お題:青空、氷、竜】



 朝靄に霞む碧緑の森、驚くべきことに、湖の岸辺に氷が張った。

 彼は朝日の如き金色の目でその一瞬を見る、顔も首も微動だにさせない。ただ瞳孔だけがきらり、と岸辺の影に向いた。人だ、それも、漆黒の髪に何処か沈んだ鳶色の目。人間――にしてはがっしりとした体躯に背の高い男――は、じっと此方を見つめている。しかし、彼にとっては小さき者に過ぎない。

「……時が来た、湖の守護者よ」

 鳶色の視線が此方を真っ直ぐ見詰めてくる。その目つきはまるで悲しみの淵を探しているようだった。そんな表情に何だか見覚えがあったが、彼は動かなかった。

「……我が目的の為に協力を申請する、エンスプリトス」

 彼の名はエンスプリトスといった。この美しく広い鏡のような湖は彼の心地好い住処だ、午睡をむさぼる岸辺に風が吹けばさらさらと水が撫でられる音を奏で、木漏れ日のあたたかさと木々のざわめきは素晴らしい子守唄となる。森のありとあらゆる動物達は、眠る彼が無害だとよく知っていて、空を映す湖面のように蒼い彼の鱗にくっついた色々なものを掃除しにやってくる。湖の底に水の力を含んだものが流れていて、鱗に付着するのだ。生き物達にとっては身を守る大切なものとなる。

 ああ、ラル・ラ・イーの者だなあ、と、エンスプリトスは考えた。黒髪に鳶色の目、彼が覚えているのは美し継承者の男、トレアン・レフィエール。他の種族からはドラゴン使いと称された彼らの姿を見たのは700年程も前だっただろうか、詳しくは長すぎて覚えていないが、亜人一族と穏便に袂を分かつ決断を下してからそれほどの時が経っていたのだ……何処かへと去った継承者、竜の姿を持つ者に、竜を呼ぶエルフの笛を渡して。

 だがしかし、目の前のこの男は力を持つ者ではない。現に、手の平の上には真っ二つに割れた石ころが乗っかっている――これが氷の正体だ。何のつもりだろうか。

 彼は、唸り声を出した。

「……お前さん、違うな。ラル・ラ・イーの竜ではない」

「そうだ、妻だった。彼女は死んだ」

 男はまるで先程使った魔石の力のような、とても冷えた声でそう答えた。ラル・ラ・イーの竜、黒髪に鳶色の目を持つ者の一族のうちにひとり存在する、自然界において6つに大きく分けられる力全てを使うことの出来る者――その力を抱く竜の血を引く人。そうか、それで彼の目は仄暗い色なのか、とエンスプリトスは思った。

「……子は?」

「……今年で、16に。妻はシヴォンの港街で人間に殺された。臨月だった。死ぬ間際には会った、会って、笛を託された。息子は死んだ妻の腹から、友人の手で助け出された。俺は警団の連中や犯人の青年達とやり合っていて、戻ってきたら、近付いたら息子も危険になると言われ、戸口で追い返された。それが最良の選択だったと思っている」

 男は抑揚のない声でそこまでを言った。よく見るとこの小さき者の髪には白いものが既に混じりつつある。目元には小皺が。

 彼は一切の感情を表に出さず、また問うた。

「何処にいる、そしてその16年の間お前さんは何をしていた、息子を探さなかったのか」

「……行方は未だ知らない、これからまた探すつもりだ……それに当たって、この笛の力を行使させて頂くことにする、エンスプリトス」

「私の力がなくともお前さん1人で十分ではないか、名もなき者よ。魔石の扱い方は知っているようだが……しかし、ここで使う必要があったか、ん?」

 彼はそこで初めて、長い首を動かした。ぎらつく鋭い歯が並ぶ大きな口を一杯に開けて、朝の欠伸を、ひとつ。

「……アルベルト・リーベルという。呼びかけただけでは目すら開いてくれないということは噂で聞いていたからな」

「……ほう、リーベル……」

 男が名乗った単語に、彼は欠伸を中断して目を瞠った。700年程前、それ以上に昔からあった栄えある武人の家系だった。アルベルトは顔を上げ、請うた。それまで氷のようだった声が、一気に熱を帯びた。

「……助けてくれ、エンスプリトス。何度も鞭打たれ追放され、息子の足取りも掴めない。永く続く継承者の末裔が――息子が、消えてしまう」

 しかし彼は厳かに首を振る。たかが1人の死だ。

「消えたら消えた、それまでだろう。継承者の末裔が失われたとて世界は廻り続けるのだ、リーベルの子よ。お前さんが悔しかろうと悲しかろうと怒ろうと、何をしようと、世界は在るべき方へと廻る。その終わりまで廻り続ける」

 彼の目の前で小さき者が唇を噛んだ。

「生まれた刹那さえも知らぬ己の子に、今更お前さんが何をしてやれるのだ、ん? 若しかしたらその子は本当の親を知らぬかもしれぬ。お前さんが彼の下に現れることで、幸せに暮らしていたやもしれぬ、彼の生活が一瞬にして壊れてしまうやもしれぬ」

 更に畳みかければ、彼は握る手に力を入れて、俯いた。が、言葉を紡いだ声は、小さいながらもはっきりしていた。

「……探してきた、俺の息子だ。狂おしいほど愛した妻――エリアティークとの、子だ」

 アルベルトが顔を上げた。その鳶色の瞳に強く宿るのは、決意。

「そして、大陸を揺るがす運命の子だ。我が一族の終末が近い、ドラゴン一族の終末も近いのだろう?」

 エンスプリトスには心当たりがあった。湖は、様々な人型種族が集まる魔法学院に近く、教鞭をとるエルフや亜人、人間がよく訪れる。訪れ、まどろむ竜が無害なのを知っていて、学院の外の共和国や王国についての話を一方的に喋っていくのだ。彼は善き聴き手であった。ドラゴン一族が、肉を喰らう種族は狩られ、草を食む種族は縄に繋がれ使役されている話も聴いていた。数百年もしないうちに、その血が絶えるであろうことは明白だった。

 しかし、それも未来であるならば受け入れるしかないのだ。どんな種族であろうと死に絶えるのだ。早かれ遅かれ。

 だが、彼自身の意志がリーベルの息子の意志にそぐわなくても、他のドラゴンが皆翼を広げてしまえば、彼が動くよりも混乱をもたらすやもしれない。そして彼も、永く続くことを望んでいた。半永久的な平穏に至る道の途中に嵐が待ち受けている事はわかっていた。だから、彼は威厳を以て、言った。

「……笛は、持っているのか」

 アルベルトは、エルフィネレリアの霊樹の枝から削り出された美しい泡沫文様の施されている笛を取り出した。

 彼は、朝日が金色に輝く空を見上げる。西は深く、青く、その色が凪いだ湖面に落ちて、始まりの時を告げている。この一対の翼で再び空へと羽ばたく時が来たのだ。

魔石の力で張った氷が溶け出して、冷たい水が鱗の隙間を刺した。剣のようだった。



『朝、始まりの羽音を聴いて』

新シルダ歴916年、7月/大陸、レファントの森の湖にて

2012.10.28


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