書けるわけがない

吟野慶隆

書けるわけがない

 ん。あ。ん。ん。ん。ぐ。ご。が。く。が。あ。ぐ。く。く。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。う。ぎ。つ。ぐ。んん。ぐぐぐ。ああ。ああ。ぬ。ううう。くく。ん。ぐぐっぐぐぐぐぐ。づ。づづ。く。が。んん。ん。ん。ぎ。がぐ。ん。ぐぐ。ああ。ううう。ぐぐぐ。づづづづづ。ぐぐ。ぐ。は。はあ。はあふっ。はあふっはあふっはあふっはあふっはあふっ。ふう。はあ。ふうっふっ。はあ。う。ぐ。すうはあ。すうはあ。すうはあ。すうはあ。すうはあ。ひい。ひい。ひはあ。うぐう。ふう。ふう。ふがっ。ん。ふう。ふうはあひい。ぐぐぐ。ぬう。ぬうう。ぬううっぬううっぬううう。いっいっい。いづ。ん。ん。い。いつ。いついつ。ん。ん。い。あ。い。いつ。ん。すう。はあふっ。いいつ。ん。ぐ。痛。痛。痛。痛い。痛い。う。ぐ。くそ。くそくそくそくそくそくそ。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。痛い。痛。痛。痛。痛。痛。ぐ。ああ。んん。ちくしょう。くそ。くそ。ちくしょう。痛い。ぐ。ん。ん。痛。痛いったらありゃしな。う。ああ。んん。ぐぐぐっぐ。ふう。はあ。すう。すう。すう。はあ。ふううっ。はあ。くそ。ちくしょう。痛い。痛い。痛。痛すぎる。ああ。くそ。ああ。ん。痛い。痛い。あぐ。痛。ん。んん。くそ。くそくそ。ちくしょう。ううちくしょう。ぬう。ぬううっぬううううっぬうう。ぬう。くそ。ぐ。ん。もう。むぐ。い。が。ぐ。ぐ。はあ。はあ。ぐ。ぬう。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。痛。ぐ。ちくしょう痛い。うう。の野郎。あの野郎。あの野郎。がって。刺しやがって。あの野郎刺しやがって。大工の野郎。ああ。くそ。ちくしょう。刺しやがって大工の野郎ちくしょうが。腹が。痛。刺され。血塗れで。シャツもズボンもおそらくポケットの中の携帯電話も。くそ。あの野郎急に激昂しやがって。最初に怒ったのはこっちなのに。今日が貸した金の返済期日だから家に呼んだらあの野郎。こっちだっていろいろ切羽詰まって。待てるわけないだろ一週間も。くそ。こんなことなら包丁なんか。ふだん中食か外食ばかりで炊事なんてめったに。のに。フローリング冷たいなちくしょうが。うう。うう。起き上がれない。横たわった体を持ち上げようとしても体の下にある腕にも上にある腕にもろくに力が。ん。ああ。くそ。俺はこのまま死んでしまうのか。昔とんでもない怪我を負い九死に一生を得たことがあるがその時よりはるかに出血も痛みも絶望感もひどい。じゃあやっぱり俺はこのまま死んでしまうんだろうなあ。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう。くそ。こうなったら。書いてやる。犯人。あいつの。大工の。大工整慈という名前を。書き残して。いわゆるダイイングメッセージを。うぐ。くそ。とりあえず。この。どばどばと腹から。血溜まりに指を浸して。当然だが体の上にあるほうの腕しか動かせな。う。粘り気があってくそ。しかし今は仕方ない。よし。よし。後は書くだけ。後は書くだけだ。大工と。まずはまずは大の一画目。横棒を。く。くそ。くそくそくそ。手が震えて。小刻みにちくしょう。落ち着け。落ち着けよおい。ぐ。く。く。く。く。く。く。ふう。よし。何とかましにはなったな。比較的まともに書けるこれで。横棒。すうっと。すう。く。ちくしょう。血が足りない。手につけた血が書いている途中で尽きてしまう。もっとしっかりべったりつけなければ。うう。く。よし。これくらいかな。では改めて。すう。すう。よし。書けた。次は二画目。左へ払わなければ。左へ。左。左。よし。よし。次は三画目。一画目と二画目の交点から右下へ。よし。う。く。く。く。くそ。貧血か頭というか体全体がぐらっと。そりゃあ現在進行形で腹からどばどば垂れ流しているもんなあ。うう。ふう。あっ。しまった払いの途中で折れ曲がり余計な縦棒を引いて。一画目を突き抜けてちくしょう。今ならまだ戻せるか今なら。ああ。左に動いて横棒に。く。く。引き戻さなければ。く。く。く。ふう。ふう。何とか。何とか戻せたがけっきょくまた縦棒が引かれてしまって。くそ。これじゃ大には見え。先入観があれば辛うじてひどく下手な書きかけの因に見えるくらいの。くそ。ちくしょう。書き直しだちくしょう。気を取り直せ。気を取り直せ。う。よし。一画目。今度は慎重に慎重に。よし。二画目。いけるいけるぞ今度は。よし残すところは三画目の。あ。ああっ。しまった。何てことだ。大工には兄が二人いて俺はそいつらとも親しい。ということは。大工という苗字を書き残したところで容疑者は三人にしか絞れない。それじゃ意味ないじゃないか。わざわざダイイングメッセージを残すからには犯人を一人に特定できるだけのことを書かなければ。う。ちくしょうくそ。それなら整慈と書けばいいだろう俺の知り合いにそんな名前の奴は大工一人しかいないし。では。ぐ。痛。では改めて一画目。横棒。ぐ。くそ。よし。次は二画目。縦棒。よし。三画目。四画目。慣れてきたのかだんだんすらすらと書けるようになってきたな。いやしかしすらすらというわけでも。動かしては止め動かしては止めの繰り返しなんだから。五画目。縦棒。ああ。くそ。何であいつの名前を表す漢字はこんなに画数が多いんだちくしょう。これじゃあすべて書き終えるのにどれだけ時間がかかることか。いや。待てよ。そうだ。別に漢字でなくてもいいじゃないか。平仮名でせいじとか片仮名でセイジとかローマ字でSE。SE。ええと。ああくそ。整慈をローマ字で書いたらどんなスペルだったっけ。SE。SE。もう。SEしか分からん。あまりに腹が痛すぎて日本語をローマ字で表すことすら。う。ぐく。まあいい別にローマ字で書く必要もない平仮名か片仮名で十分だ。どっちも同じくらいの本数の線で書けるしどっちで書いても同じだろう。よし。平仮名にしよう。平仮名で書こう平仮名で。うん。せいじ。せ。せ。あ。待てよ。まさかとは思うがあいつここに戻ってはこないだろうな。いやいや犯人なら現場から一刻も離れたいはず。いやいやいやいや犯人は現場に戻ってくるとも。くそ。戻ってこられたら当然ダイイングメッセージなんか消されるに決まって。どうしたらいいんだ。どうしたら。そうだ。暗号。暗号みたいにして残しておいたら。一見したところ大工の名前とはかけ離れているようなメッセージにすれば。あいつは見逃すか気づいたとしても解けないため放っておくかして代わりに警察が解き逮捕してくれるという可能性がなきにしも。よし。暗号。暗号を考えろ暗号を。暗号。暗号。ああ。ちくしょう。思いつかない。思いつかないちくしょう。そもそもこんな腹を刺され死が近づいているという状況の中簡単には解けないような暗号なんてああ痛い痛い痛ちくしょう痛い。くそ。仕方ない。暗号は諦めよう。あいつが戻ってこないことを。来たとしてもダイイングメッセージを消さないことを祈るしか。ちくしょう。早く書かなければせいじと。せ。せ。せ。せ。せ。せ。一筆目。横棒。横棒。二筆目。縦に。今度は縦に縦棒縦に。よし。ああ。ちくしょうくそ。足りない。薄い。薄くなってきている血溜まりの血が。そりゃこんなにダイイングメッセージを何回も書いては止め書いては止めしているんだからくそちくしょうがくそ。出血量も段々と少なくなってきていて。そのうえ何だか血の粘り気も強くなってきているような。くそ。どうすれば。どうやって血を確保すれば。傷口からは未だに少量ながらも出血しているがつまりどろどろした液体の血が。く。痛い。痛いが仕方ない。絶対に包丁に触れないよう気を。気をつけて血を手に塗りたくって傷口周辺の。う。うう。ぬうう。よし。そうっと。そうっと。そうっと近づけてそうっと。そう。う。ぐ。ぐぐ。が。ん。ん。んんっんっんっんんんっんんっん。んん。ご。ぎ。ぬ。ぬう。ぬぬぬ。ぬんぬぬん。が。ぐ。う。ぬぐう。しまったしまったしまったくそ。あれだけ気気気気気をつけていたのにちくしょう痛いちくしょう。またしても貧血か何かでふらっとうう。が。ぐう。痛。痛い痛い痛い痛。ぐふ。うぐうぐぐ。痛痛痛い痛痛痛痛いいぐう。いっいっ。ぐぐ。素。素。素晴らしかった。素晴らしかったなあ中学の修学旅行で訪れた景勝地。あの時大人になったらもう一度ここに来ようと誓ったがこれから死ぬということは行けそうにない。あの景色は本当に素晴らしいものだったんだが。というか確実に行けない。行くことができない。ケ。ケ。ケーキ美味しかったなあ。ケーキなら基本どんなものでも美味しいんだが特に駅前にある洋菓子屋で発売されているチョコレートケーキ。何ていう名前だったかな。四角いチョコレートケーキで上面にはさらに小さなブロック状のチョコレートが数個置かれていてそのうえチョコレートソースが上からかけてあるというまさにチョコレート尽くしのケーキ。フランス語だかオランダ語だか分からないが小難しい西洋風の名前がついていたはずなんだが。しかしここで死ぬためもう食べることはできない。そ。そうか死ぬのであれば今まで必死に貯蓄してきた金はすべて無駄俺にとって無駄になってしまうのか。将来浪費するつもりで浪費する当てもなく貯めていたんだがなあ。天国に持って行けるわけもないし。というか俺は天国に行けるのか。まあ別に地獄へ突き落とされるほど極悪非道な所業に及んだ覚えはないから地獄に行くとは思えないが。いやそもそもあの世というものがはたして存在するのかどうか。存在しなかった場合俺は死んだらどこに行くのかなあ。上手い具合に輪廻転生できればいいんだがそれだって実証されているわけでは。それにしても死ぬ前に色々やりたかったなあ未練が多すぎる。一昨日近所の書店で購入した推理小説も読み切れていない。雑誌の読者プレゼントに応募したがそれの結果も分からない。今度発売される俺の好きな歌手の新曲も手に入れること聴くことすらできない。そういえばそれはいつ発売だったっけ。確か今日からちょうど十日後だったかな。予約しなきゃなあ。何しろ数年間の充電を経ての発売なんだから一ファンとしてはどうしても入手したい。近所のCDショップで予約しよう。他にも最近はやりたいことが目白押しで嬉しい忙しさだ。今度駅前の洋菓子屋でよく注文しているケーキを購入するつもりだし。いやまあ言うほど忙しいわけでもないが。他にもケーキ購入とは別の日だが俺の好きな歌手の新曲が発売されるのでCDショップで予約しなければならない。ええといつだっけ近日中なのは覚えているんだが肝心な発売日が思い出せない。あれそもそも発売は近日中だったか。ううん一箇月先のような気もするし明後日くらいのような気もするしむしろ今日のような気もする。いやさすがに今日発売ということはないかなあ。まあいいや明日にでも予約しに行けば。予約するためだけに行くのも何だしついでに何か買おうかな。しかし最近は値上がりが激しいし。CDだけに限らず様々なものの価格が急に上がっている。まあ別に買わなくてもどうということはないのだからどうでもいいのだが。食材も値上がりしているがふだん食事は中食や外食ばかりだから俺にはあまり関係ない。もっともそれに伴って中食や外食の値段までもが上がったらさすがに関係あるが。まあ天国に行ってしまえば金の遣り繰りなど必要なくなるな。あれ。何で天国のことなんか考えるんだろう。天国がどうかしたのか。どうでもいいだろうそんなあの世のことは。それより最近は少し財布事情が厳しいからなあ。何人かの知り合いに金を貸したまま返してもらってないし。そうだ確か今度大工に貸した金の返済期日だった。幾ら貸してたっけまあいいや幾らにしろこれで財布事情が少しは改善される。大工を呼ばないと。ええといつだっけ。いつだっけその肝心の返済期日は。いつだっけ。はっ。な。な。何を。何を。考えているんだ俺は。何を考えているんだ俺は。今は現実逃避などしている場合では。くそ。くそくそくそくそくそ。ちくしょう。早くダイイングメッセージの続きを。絶命する前に。せいじと書かなければ。何とか血溜まりもわずかながら濃くなって粘り気も弱く。では。では。せの二筆目の続きを。縦。縦縦縦縦縦縦。よし。三筆目。縦棒からの横棒でL字に。縦棒。すうっと。よしそこで止まって。次は横棒。横。横。よし。できた。やっと書けたせと。二文字目はいだ。一筆目。止まって。撥ねて。二筆目。よし。これでいはできた。さすがにもう慣れてきてゆっくりではあるが線の途中で止まらず書くことが。最後はじだ。一筆目。く。カーブがいささか角張ってしまったが仕方ない。あとは濁点だけだ。二筆目。三筆目。よし。完成だ。よしよしよしよしよしよし。できた。やった。よし。あっ。ん。く。またか。また貧血か。くそ。あ。う。痛。くそ。顔面を床に打ちつけてしまった。まあ腹の痛みよりはましだが。う。早く顔を上げなければ。しかしダイイングメッセージを書き終わったという達成感それによる書くことからの解放感からか力が。ぬ。ぐぐぐぐぐ。はあ。やっと上がっ。ん。あ。う。く。ぬ。え。ぐ。ぎ。が。ご。へ。ぬ。ん。ぐ。う。う。嘘だろ。嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ。メッセージが。メッセージがぐちゃぐちゃに。顔面を打ったのと上げる時に手をついたのがちょうどメッセージの真上で。ああ。メッセージが。メッセージがちくしょう。これじゃあこれじゃあ読めやしない。因のような大も書きかけの大も整も書き終えたせいじも。全部広く薄く伸びてしまって。くそ。くそ。ああ。くそ。駄目だ。幾ら先入観を持っていてもとうてい読むことは。うう。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう。せっかく。せっかく書いたのに。せっかく死ぬまでの貴重な残り時間をダイイングメッセージに費やしたのにちくしょう。全部無駄になってしまった全部無駄に。くそ。あっ。くそ。どうして気づかなかったんだろう。こんなものを長々と書き残している余裕があるなら救急車なり警察なり助けを呼べば。電話はポケットの中にあるんだから。ああ。最初からそれに気づいていればこんなものを書かずにさっさと助けを呼んでいたのに。こんなものを書くのに費やした時間から見てももしかしたら助かっていたかもしれない。こんなこんなけっきょく役に立たなかったものをこんな。くそちくしょうくそちくしょう。どうしよう。どうしよう今からでも呼。いや。もう。遅。すで。死。そこ。だ。だいたい。だいたいな。人。これ。死。時。ダイ。ジ。んて。書。書。書。書。書。


   〈了〉

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