最初の恋のはじめ方~禍福はあざなえるゲノムのごとし~

牧ノ原大地

第1話 ウィンター・イズ・ノット・オーバー

 小原慎之介にとっての長い一日は、彼の部屋にけたたましく鳴り響いたアイドルの歌声から始まった。

 フルーツポンチと呼ばれるその五人組のグループは、慎之介の今イチオシのアイドルだった。それぞれにモチーフとなる果物が設定されており、中でも慎之介はぶどう担当の二階堂カスミの熱烈なファンだった。

(目覚まし時計のアラームをこの曲にしたのは間違いだったな)

 ベッドの中の朦朧とした意識の中で慎之介は後悔していた。眠たい朝に起こされるイライラが、そのままその曲の主であるアイドルグループに対するそれに変わってしまいそうだったからだ。

 一刻も早く起きねば、と慎之介が自らを奮い立たせたものは、しかしながら、大好きなアイドルをそのまま好きでい続けなければという使命感だけではなかった。今日八月七日は慎之介の二十歳の誕生日だったのだ。そして彼にとって、いや、この国の国民にとって、二十歳の誕生日を迎えるということは、二十年間生きた証以上の、特別な意味があったのだ。


 慎之介は布団を跳ね除け、分厚い皮下脂肪の下の腹筋を使って一気に上体を起こした。時刻は午前八時を過ぎたばかりだった。目覚めは悪くない。慎之介はパジャマのまま一階の洗面所に向かい、ひげ剃りと洗面を済ませた。その後朝食にありつこうとダイニングキッチンに向かうと、妹の加奈子がトーストを頬張っている最中だった。

「どうした、今日は早いな」

「それはこっちのセリフだよ。夏休みは毎日吹奏楽の練習があるんだから。暇な大学生と一緒にしないでよね」

「失敬な。論文執筆に家計を支えるためのアルバイト、懇願されての各種運動部の助っ人など、僕ほど多忙を極める大学生はいないぞ」「深夜アニメ観るかアイドル追っかけるしかすること無いくせに。そんなんじゃ相手の女の人にも愛想つかされちゃうよ」

 そう言いながら加奈子はトーストの最後のひとかけらを口の中に放り込むと、席を立って出ていった。加奈子の最後のセリフから、中学から始めた吹奏楽に青春の全てを捧げている彼女の頭の中にも、一応兄の誕生日はインプットされていたことが分かり、憎まれ口も可愛く思えた。

 トースターに食パンを放り込みスイッチを入れると、リビングから母の声がした。

「あんた今日誕生日よね。いよいよね」

「そうだね。ま、なるようになるよ。ケ・セラ・セラ、さ」

「何カッコつけてるのよ。朝ごはん食べたら、早く行ってらっしゃい」

 言われなくてもそのつもりだった。そのために、いつもより二時間は早くアラームを設定していたのだから。中学を過ぎた頃から家族に誕生日を祝ってもらうことなどなくなった慎之介にとって、二十歳の誕生日だと言うのに妹からも母からも祝福の一言すら無いことなど気にならなかった。何より二十歳の誕生日には他ならぬ日本国から、素敵なプレゼントが贈られる決まりになっているのだ。


 朝食を済ませ、この日のために新調した黒のポロシャツに袖を通すと、彼はさっそうと自宅を出て、市役所に向かった。歩き出して数分で、真夏の太陽の日差しをこれでもかと吸収する漆黒のポロシャツをチョイスした己の思慮の浅さを嘆いたが、それ以上に浮き立つ彼の心がその嘆きもはるか遠方へと吹き飛ばした。

 住宅街をしばらく歩くと市のシンボルでもある大きな噴水のある公園が見えてきた。子供連れの夫婦や、サッカーに興じる小学生たちを横目で眺めながら惚けた足取りで歩んでいた慎之介は、突然左肩に感じた小さな衝撃で我に返った。慎之介の歩みが遅すぎたためか、同じ方向に進む通行人とぶつかったようだった。

 「すみません」

 慎之介よりも一回りは小柄なその女の子はそう言うと、足早に走り去っていった。自分より僅かに年下であろうその女の子はこの暑さにも関わらずベレー帽を頭に乗せ、小さな顔とはアンバランスな大きなサングラスをかけていた。彼女の走り去る方向を眺めながら歩みを再開すると、先ほどぶつかった衝撃からか、彼女の鞄から小さなぬいぐるみのストラップが落ちるのが見えた。よほど急いでいたのか、落としたストラップに気づく気配は全くなかったので、慎之介はそれを拾い上げて大声で彼女を呼び止めた。

「あの、落としましたよ!」

 慎之介の呼び声に気づいた彼女は「あ」と声を出すと、はにかみながら慎之介の元に駆け寄った。

「すみません、ありがとうございます。これ私のお守りなので、なくさなくて良かったです」

 イヌなのかクマなのかはたまたタヌキなのか分からないそのストラップを受け取った彼女は深々と何度もお辞儀をした後、慌ただしくその場から走り去った。

 彼女の澄んだよく通る声はとても心地よく、また、どこか聞き覚えのある声であったが、慎之介の気持ちは早くも市役所へと切り替わっていた。

「ちょっと良いことしたし、今日は良い結果が待っているかも」

 慎之介の市役所への足取りは一層軽やかなものとなった。


 市役所に到着した慎之介は、初めて訪れるその場所が予想以上に広いことに戸惑いを覚えた。何課に行くべきかまで調べておけば良かったと後悔しかけたが、所内を見渡すとすぐに「遺伝子診断希望の方はこちら」とデカデカと印字された看板を見つけることができた。その看板の下にはすでに若い男女が行列をなしており、慎之介はその最後尾に並んだ。

 ウィンター・イズ・オーバー、スプリング・ハズ・カム。中学英語で習ったあの例文はまさにこの時のためにあったのだと一人で妙に得心をしながら、慎之介は順番を待ちわびていた。手応えのあったテストの返却日のような、緊張とそれ以上の期待とが入り混じった高揚感があった。いよいよだ、彼女いない歴イコール年齢のこの僕にも、ついに春が来るのだ。科学と法律という最強の二枚看板のバックアップを受けながら。ありがとう・ライフサイエンス、ありがとう・日本国憲法。

 行列の進行を待っている間、慎之介はこれから出会うことになるであろう未来の伴侶に思いを馳せた。朝ごはんはパン派だと言いな。和食は塩分濃度が高いから健康にも良くないし。それよりも、やっぱり結婚したらフルーツポンチのファンは引退しないといけないのかなぁ。その辺りも寛容な子だったらいいなぁ。まあ心配しなくても、遺伝子的にバッチリな相性の子なわけだから、全てうまくいくさ。

 そんな他愛もない妄想で時間を潰していると、すぐに慎之介に順番が回って来た。窓口に端座する女性型ロボットの指示に従って眼球を専用機器のレンズに向けると、網膜認証で小原慎之介本人であることが確認された。

「遺伝子診断を開始します。よろしいですか」

 人間と区別しやすいようあえて片言に設定された機械的な発音で、ロボットが質問をした。慎之介は「はい」とだけ答え結果が出るのを待った。

「小原慎之介さんのお相手は……」

 結果が出たようだった。慎之介はゴクリと唾を飲み込んだ。

「おりません。ゼロ人です」

はい?

「詳細はこちらの用紙を御覧ください。次にお待ちのかたどうぞ」

 金髪のヤンキー風の男性に「邪魔だからどけよ」と突き飛ばされるまでの間、慎之介はそこを一歩も動くことができなかった。

 ゼロ人……。

 詳細はこちらと言われて渡された用紙にも、同様の記載があるのみだった。

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