第7章 大班主

第42話 武官と公主

 翌朝、班は先発隊をもう一度やって州境を偵察に行かせたところ、徐州は一時的に封鎖を解いていた。実のところ、徐州は瑞慶府に近いこともあって人々の州境の出入りが多く、徴税する通行税の総額も馬鹿にならないうえ、瑞慶府からは特に大きな動きが報じられないことから、かねてより通行税の上前をはねて懐を肥やしている州知事以下が図って、上からの命令を無視し勝手に州境を開けてしまったらしい。


「徐州の知事さまの貪官たんかんぶりは我等もよく泣かされたものだが、今度ばかりは助かった。何せ、党派の対立などおかまいなしに、ただただ金だけをかき集めているお方だからな」


 そう言って、忠賢は州境で提示した鑑札を懐にしまった。呆れるほど相場より高い通行税を払い、州境を越えると班の一行はほっとした様子だったが、ただ一人宝余は眉根を寄せて唇を引き結び、黙々と歩いていた。

 ――先王の代ならいざ知らず、そんな貪官が今まで放置されているとは、一体どうなっているのかしら。大旗だいきの施政は、地方にまではまだ及ばないとでもいうのだろうか?


「――そなた、王の傍らに侍す宰領のように、気難しい顔をして歩いておるな。ふふ、身分賤しい者が、まさか天下国家の心配か?」


 宝余はいきなり声をかけられて飛び上がった。聞きなれぬ、しわがれた声に振り返ると、褐衣かついの上から午黄ごおう色の布を肩に巻いた小柄な老人が、路傍よりこちらを見ていた。一人旅の者だろうか。布の鮮やかな色彩に引き付けられ、宝余は老人の眼の鋭さをつい見逃してしまった。


 どちら様で――宝余が問う前に、先頭を歩いていた忠賢がこちらに走ってくるのが見えた。彼は老人の前に出て、深々と額づく。他の者達も忠賢にならったので、宝余も慌てて身を地に沈めた。もの問いたげに愛姐を見ると、彼女は顔をこちらに寄せて囁いた。

「大班主さまさー。私達すべての遊芸人の長であるお方さね」

 忠賢が立ち上がると、またぞろぞろと皆がそれに倣う。

「大班主よ、我が班にご光臨を賜り光栄です。いずこより来られて、いずこに行かれますか」

「――このところ、烏翠の上空で大きな気が炎を上げたり、とぐろを巻いていたり、不審な動きがある。しばらくそなた達と同道するぞ――よいな」

 果たして答えになっているのかいないのか、白髪の老人は謎めいた言葉を発したのち、担いでいた七尺ほどの細長い荷を副班主に預け、また忠賢が恭しく差し出した両腕に肩の布を畳んで置いた。旗手の一人があの立派な空竿を持って駆け寄ってくる。

「大班主が天子さまから賜りし有り難き御印みしるし、我が班に掲げさせていただきますれば」


 そして大班主の旗が竿に結び付けられ、高々と掲げられる。午黄色の旗が誇らしげに蒼天を泳ぐのを見て、宝余はようやく理解した。あの竿は、大班主の旗のみを掲げるために存在しているのだ。どうりで、今まで道中で行き会った他の戯班も、いずれも同じような空の竿を持っていたわけだ。この旗が翻ると、現在その班に大班主がいることを示す、というわけだった。


 徐州の州治に至るまで、沿道の鎮で芸を演じながら戯班はゆっくりと行程を進めた。夏も終わりに近づき、城市の人々が早い冬支度に圧迫される前の、束の間の解放とゆとりだった。人々は良い季節が過ぎ行くのを惜しむように、戯班の芸に見入り、芝居に歓声を送るのだった。


「――さて、皆さま!我等が班主は見目好し、芸良し、腕も立つということで、勿体なくも貴顕の皆さまから街の方々に至るまでご愛顧を賜っておりますが、もう一つの秘された芸をご存じでしょうか?」


 口上に合わせて進み出たのは、烏翠の武官の服に似せた衣装を着た忠賢、そして公主の華やかな恰好をした宝余であった。


「ごろうじろ、ここにおりますのは、悪神に憑りつかれたやんごとなき姫君にございます。悪神を追い出すため、烏翠いちの武術の達人が、秘術を使い戦いまするが、その術や如何に?」


 公主に扮した宝余は優雅に膝を折って観客に一礼すると、戸板の前に立ち、両腕を水平の高さにまであげた。

「烏神様より賜ったこの短剣で、悪神を脅しつけて退散させようという武人、万一間違えば公主様のお命にもかかわりますが――」

 忠賢は短剣を構えて頷き、宝余もわずかに頷き返した。一瞬、その場には静寂が満ちる。


 ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ。ひゅっ。


 武人の手から続けざまに短剣が放たれ、宝余の頭上、両頬の側、そして両脇の下すれすれに短剣が突き立った。わっと歓声が上がり、微動だにしなかった宝余と、姫に毛一筋ほども傷をつけなかった忠賢に惜しみない歓声と拍手が送られる。


「…かくて公主の御身からは悪神が退散し、父王さまは公主をこの勇気ある武人に降嫁させ、お二人は末永く睦まじくお暮しになりました。この烏翠の昔語りの一つにて――」

 忠賢と宝余が並んで一礼すると、おひねりがあちこちから飛んでくる。ほっとした顔つきの宝余が班主を見やると、相手が優しい眼差しで微笑んでいた。


 

 徐州府での上得意は、魏兆ぎちょうという名の文官であったが、先王の代の政争と粛清に倦み疲れたため、年若くして職を辞し、いまは郷里の徐州でもっぱら読書三昧、著述三昧の日を送っていた。

 彼は温厚な人柄で近在の人々からも敬愛を集め、魏もまたその信望に答え、年に一度、忠賢の班を雇って自邸の正門を舞台に見立てて芝居を演じさせ、酒食をも出して民草とともに楽しむのを常としていた。


「…やや?」

 班の皆は互いに顔を見合わせた。府の南西にある魏の邸に近づくと、門には白の垂れ幕が掲げられ、しかも扉は固く閉ざされていた。


「…運が悪いことに、お邸のどなたかが亡くなられたのかな」

 忠賢が眉をひそめた。

「それにしても変ではないか?弔問客の姿も見えないし、扉も閉めっきりだし。この門の葬儀のしつらえからしたら、弔問の太鼓すら出ていないのも解せない―」

 いつもはこうしたことは素知らぬ顔で、自分の顔を鏡で点検するのに余念がない藍芝も、今回ばかりは怪訝な顔になった。

「それ以前に、何だか荒れている感じがしない?あんなに寂れた御門前だったかしら」


 とりあえず事情を尋ねてみよう――忠賢が脇門を叩くと、なかから老爺ろうやが顔を覗かせた。

「あ、あんた達――」

 そして、しっしっと追い払う仕草をした。

「いまこのお邸は大変なんだ、来ちゃならんよ。さあ、行った行った。いま旦那様は芝居どころじゃあないんだよ」

 忠賢は今まさに閉められようとしている扉を押さえ、

「何があったのだ?去れと言われれば我等はおとなしく去るしかないが、長年のご厚誼を賜った御方ゆえ……」


「爺、もういいのだよ。中に入れてあげなさい」

 老爺がはっとして身を退けると、背後には邸の当主が泣き笑いのような顔をして立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る