第40話 深夜の密語

 深更、すでに風はやんでいた。夏とはいえこの地は冷え込みが厳しく、星々は大気に震えて瞬きを強めている。

 ――。

 宝余は眠りつつも、眉をしかめて寝返りをうった。

 ――誰。

 誰かが呼んでいる。

 ――風の音?

 今度こそはっと目が覚めた。宙に浮いていた自分の知覚が戻ってくるまで、少し時間が掛かった。室内はすっかり冷え込んでいるのに、背中はぐっしょりと汗をかいている。やっとのことで身を起こした宝余はそのまま硬直した。


「…誰」

 足元に誰かがいる。


 衾を両手でぎゅっと掴む。恐怖で口もきけなくなった彼女であるが、よくよく目を凝らし、それが誰であるかを知ってますます口が利けなくなった。

 足元に蹲った相手は一旦姿勢を起こし、また平伏した。顔を俯けたまま、細い声で何かをしゃべる。


「おやすみ中、お邪魔をいたしまして申し訳ございませぬ――先ほどは大変失礼いたしました。あなた様を門外に追い出したのは、決して悪意があったわけではありません」

「……あなたは」

 やっとのことで声を絞り出す。

「先ほどお目にかかりました、私はラゴ族のオドアグ、烏翠での名は趙楽と申します」


 彼は宝余に向かってまくしたてた、耳の遠い老人であった。その口調は静かで穏やかで、先ほど宝余に食ってかかった人間と同じとは到底思えなかった。宝余はしばらくぽかんとしていたが、はっと我に帰り、咳き込んでいった。


「ご老人、姿勢を正してくださるように。……教えてください、なぜ私だったのですか?門内に私を泊めず、ここに追い出したのは理由あってのことですか?」

 この人はいまさら何をいいにきたのだろう――。

「はい、人に聞かれては困ることをお話ししなくてはなりませんでしたので、ご無礼を承知であのようにいたしました次第。大変にご不快な思いをさせてしまい、申しわけありません。……あなたは烏翠のお方ではありませんな?」

「ええ」

 一瞬、宝余は相手に事実を話してよいものか迷ったが、なんとなくこの男には話しておくべきのように思った。

「ご推察のとおり、私は涼の生まれです。事情があって、今はこの国におりますが――」

 さらに突っ込んで聞かれることを宝余は覚悟していたが、老人はそれ以上何も聞かなかった。そこで宝余ははっとした。老人は確か耳が遠く、言葉も通じないはずなのだ。なのに、小声で話す宝余の言葉はきちんと通じている。

「ふふふ、本当は私の耳はよく聞こえますし、烏翠の言葉も話せるのですよ」

 老人は微笑した。

「それはそうと――私の用向きを申し上げねば」

 彼はやおら立ち上がり、丁寧に宝余に最も重い拝礼をした。宝余は眉をひそめて老人を見守る。

「ご老人、私は――」

「このような礼を受ける立場ではないと?違いましょう。あなたこそ、烏翠で、いえ天下で最もこの礼を受けるにふさわしいお方――」

 宝余は呆然として、目の前の老人を見つめた。気難しそうだった彼の眉間はやわらぎ、瞳には敬愛が宿っている。

「なぜ私の……私の素性をご存じなのですか?」

 老人は遥かを見る眼になった。

「遠い昔の話になりますが――我が家はラゴ族ながら、初代は開国の君が烏翠にいらしたときに一の随従を務めました。烏神からその功をよみされてか、祖先は、時の流れのわずかな先を見通す力、知らされずとも相手の素性を知る力を授かりました。ただし、代を経るうちに力は薄れ、今は一族でも私のみがこの力を使うことができ、息子にはこの万分の一も伝わりませんでした。しかも、このような辺境ではこれまで力を発揮することはほとんどなく、あなたを拝見したときに正直言って驚いた。思ってもみなかったのです。まさか、わが寿命が尽きる前に――わが力を天にお返しする前に、役に立つ日が来るとは」

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