第38話 銀髪の老人

 謀反騒ぎは膠着状態にあるのか、州境の警備はそのままに、ただし瑞慶府からの状況も聞こえてこぬまま、二旬ばかりが経った。

 

 宝余の班はといえば、明州を出るまでは万事順調であったが、例の謀反騒ぎで徐州との州境が封鎖されていることがわかり、州境を一日のうちに越えてしまおうと考えていた班の目論見は外れた。差し当たり、今日はどこかに宿を借りねばならない。


 州境近くの益精鎮の人間に尋ねると、五里ほど先の山中に、大人数相手でも宿の提供をしてくれる家があるとのことで、一行はそこまでとぼとぼと歩いた。辺りはすっかり暗くなっていた。早く宿を決めねば危ない。


 山道を登って行くとやや開けた場所があり、段々になった果樹畑の真ん中に、古いが大きな屋敷が見え、おとないを入れると出てきたのは三十くらいの農夫らしき男と、六十過ぎの老人であった。男は銅色の肌をした人のよさそうな顔をしていたが、老人のほうはといえば、銀色の髪を持ち、気難しさをかもし出していた。


 その二人に副班主の旋一が宿の交渉を行っていると、しばらくして突然に老人が何事かをわめき始めた。この老人の話す言葉は座の人間で解する者は全くおらず、それはどうも土地の言葉らしかった。

「彼は一体どうしたのだ?」

 忠賢が旋一に尋ね、さらに旋一が男に尋ねた。いわく、自分達はラゴ族の人間で、この老人は自分の父だが、家長の自分を差し置いて話を進めているのが彼の気に喰わぬのだ、と。ラゴ族は女官である海星の出身部族で、もともと烏翠北方の山岳地帯を本拠としているが、烏翠の開国に従い山を降りた子孫もわずかだが存在する。彼等はラゴ族としての自覚を維持しながらも、烏翠の国人とも混血しながらこの地域に集住していた。一家もその一員であろう。


「気にくわぬか――そうか、それは確かにな」

 忠賢は頷き、

「それは無礼をした。どうか、心を鎮めて我等に宿を貸してくれぬか?」

 ねんごろに老人に語りかけ、そしてまた長い交渉となる。今度はラゴ族の息子を介し、さらに父親に逐一訳さなくてはならない。息子の烏翠語自体が随分怪しいので、一座の者は不安な面持ちで交渉を見守るほかはなかった。

「だいじょうぶかな」

「大丈夫じゃないよ、あんなに大声でしゃべっているじゃあないか、あの爺さんは耳が遠いんだよ。いちいちあの息子が訳しているが、ちゃんと伝わって入るのかもわからんし」

「よりによってラゴ族に宿を頼んだとはな」

「おい、贅沢いうなよ。こちらはこれだけの大人数なんだ、とめてもらう相手をいちいち選んでいられるかい」

 烏翠に服属する民とはいえ、ラゴ族の気性の激しさ、扱いにくさは烏翠ではよく知られている。宝余が思い返すに、海星も温厚に見えて、自分ではもとは激しやすい性格だと評していた。彼女は囲みの後ろの方へいて、首を伸ばして交渉の様子を見てみようとした。

 そのとき。

 老人がふと話をやめ、班員たちのほうをまじまじと見た。そして、今度は一点を指さしながら、すさまじい剣幕で何かをまくし立てている。一同それには度肝を抜かれたが、彼の指す方向に目をやらずにはいられなかった。彼らの目線が一点に集中した。その先には――。

「わ、…私?」

 宝余は声がうわずった。しかし、間違いはない。宝余が無言のまま、自分で自分を指さして確認すると、老人の声は一層ひどくなった。どうやら、間違いはなさそうだった。老人は何事かを叫んでいるようだった。

 ――どうして?

 息子が困ったような顔をして旋一に耳打ちした。旋一は頷くと、人を掻き分けて宝余の前に立つ。彼は厳しい顔をしていた。

「…あの老人は、そなたがいる限りここには誰も泊めないといっている」

「えっ……」

 どこをどうしたらそのような話になるのか、宝余は訳がわからなかった。

「ただ、もしそなたが房内ではなく、内門と外門の間にある納屋でやすむのであればよい、とのことだ」

「…なぜですか?それは私が、座のなかでも低い序列のゆえですか?」

「知らぬ、老人も理由を言わぬのだ。だが…」

 旋一は苦虫を噛み潰したような顔をしている。皆の視線も痛いほどに感じられた。

 忠賢は首を振った。

「副班、もう良い。寝食分け隔て無くするのがわれらの掟、ここは駄目だ。出よう」

「しかし班主、いまから他の場所を探すのも難しいと思われますが。よそならともかく、ここは山賊の跋扈する危険な場所。野宿をすれば命にもかかわります。ここは一つ、慣例を曲げてでも…」

 宝余を見る皆も、その表情にはあからさまに険があり、言われぬ言葉を宝余は聞いていた。

 ――こいつのために、俺達まで野宿なのか?

 ――まったく、とんだ拾い物だぜ。

「だが、一人でも外になど眠らせるわけにはいかぬ」

 忠賢は食い下がる。

 すると、問答を遮る声が飛んだ。

「それにはおよびません。私は門の外に行きます。それでいいでしょう」

 声の主、すなわち宝余は人の輪をかきわけ、みなの前に出た。

「…宝余、それはいかん」

「私はかまいません。副班のおっしゃるとおり、こんな時分に外に出るのは危険です」

 班主は沈黙を守った。宝余の言葉を息子が老人に伝えると、老人は頷き、門内に入るよう手招きした。みなはやれやれという表情で移動をはじめる。忠賢は宝余に自分の衾を渡してやり、皆が門内に移動する間、二人は無言のまま互いに顔をあわせて突っ立っていった。そんな二人は、紅鸞が氷のような視線を送ってきていることなど気づきもしない。

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