第8話 慈聖殿の主人

 宝余がうつらうつらしていると、やがて鳥の声が聞こえ始めた。やがて帳の向こう側に人影が立ち、無言でこちらの寝息をうかがっているかのようだ。

 ――お帰りなのかしら。

 一晩中、どこに行っていたかもわからぬが、王は宝余に一指も触れずに初夜を過ごしたことになる。また一つ、帳の向こうに人影が立ち、今度は宝余に向かって起床を呼びかけてきた。

「長旅と婚儀でお疲れでしょうが…」

 ――そうだ。

 今日は朝餉の前に、後宮の東側にある太妃殿――国君の母上のもとへ、王妃がはじめて伺候することになっていた。宝余は鴛鴦えんおうの縫い取りがされたふすまから滑り出て、帳をかき分けて立った。

 そこには昨日の女官長と、他の女官とは異なる雰囲気を持つ二十歳過ぎの副女官長、いくたりかの女官が着替えと洗面用具を捧げて侍っていた。


 ――あの方はどこに行かれたのかしら。


 宝余は、初夜の契りも済ませぬまま王妃として扱われることに戸惑いを覚えつつも、女官達の手を借り薄く化粧を顔に施し、衣装を身にまとう。朝の茶を喫したところで、ようやく夫が現れた。すでに着替えを済ませたらしく、平静さを崩さぬ国君からどのような言葉が発せられるのか、宝余はその須臾しゅゆの間が数刻にも感じられた。

「昨夜はよく眠れたか」

「大旗のおかげをもちまして」

 本当は、昨夜はほぼ寝られず、明け方にまどろんだだけである。しかし国君はそれを聞くと冷たい表情をわずかにやわらげ、先頭に立って歩きはじめた。


 いかにも女達の住まう後宮であるらしく、外朝の堯政殿のいかめしさとは異なり、美しく繊細な欄干の彫刻がそこかしこに見られた。涼国の絢爛たる後宮と比べると小規模で地味であったが、建物といい庭といい、小奇麗でよく整えられている。ただし、彼女は自身が主人となった後宮よりも、これから会う姑のほうに気を取られていた。

 ――どのようなお方だろうか。国君と似たご容貌か、同じような御性格か。


 慈聖殿じせいでんと称する殿舎が太妃の居所で、現王の代になってから大きく改修されたという。王妃の正殿である坤寧殿よりもやや狭いが華麗さはこちらのほう上で、新しいの柱の塗りも青鷺あおさぎの紋章が刺繍された日よけの張も、鮮やかに宝余の眼を刺す。

 ――きっとこの殿舎と同じく、華やかな方なのだろう。

 そう宝余は推測した。殿の階を上がると、太妃付きの女官が王と王妃の入来を告げ、二人は招じ入れられた。

 殿内の中央には御簾が下がっており、なかの様子は見えない。おそらく宝座が置かれ、太妃が座しているのだろう。左右の獅子の香炉からは、朝にはいささか甘くて強すぎる香の煙がゆっくりと立ち上り、さらにその脇には女官達が居流れている。夫妻は御簾の前まで進み出ると、深く拝礼をした。


「太妃さまの次子にして烏翠の国君、顕錬けんれんが王妃冊封と朝のご挨拶を申し上げます。涼国の第九公主がいま我がしつに入り、私とともに末永くあなた様にお仕え申し上げます。何とぞ我等にお言葉を賜らんことを」

「……」

 通例、ここで太妃からの賀詞が述べられるはずだのだが、返ってくるのは沈黙ばかりなので、仕方なく宝余も続けて、顔を伏せたまま言上した。


「烏翠の王妃として、初めて太妃さまに起居を伺います。私は国母として烏翠を守り宗廟そうびょうに仕え、民草を慈しみ国君の傍らに侍し、子として太妃さまをかしづいてまいります。どうか末永くご教導賜りますようお願い申し上げますとともに、太妃さまの御長寿を日々念じて…」

「やめよ」


 宝余の言葉を遮る声が御簾のうちから発せられ、彼女ははっとして身を固くした。するすると御簾の巻き上がる音が聞こえ、顕錬が顔を上げる気配を見せたので、宝余もまた姿勢を直す。


 目の前に、その人は立っていた。年は五十くらいであろうか、高く結った頭には金と翡翠の簪や歩揺ほよう(注1)が何本も差し込まれ、深い赤と黒の衣装に身を包み、太妃はこちらを見下ろしていた。加齢の衰えを感じさせぬ白磁の肌に眉をはっきりと描き、唇は鮮やかな朱色である。確かに住まう殿舎と同じく容貌は華やかで、牡丹のような美しさであった。そしてその面差しは、宝余の傍らの息子とよく似ていた。


「心にもない挨拶は結構。王妃よ、そなたとそなたの父の企みは分かっておる。我が国君と我が国を涼の傀儡とするつもりであろう、だが覚えておくがよい。坤寧殿の主人あるじの座はいつまでも安泰と思うでない。そなたが果たしてあの座を守り切れるかが楽しみだな、せいぜい務めるがよい」


 敵国人の王妃としての立場からある程度のことは予想していたが、宝余はあまりの言われ様に、ただ目を見開いて姑となる人を眺めるばかりであった。一方、傍らの夫はいかなる感情も見せず、平静を保っていた。

「さあ、二人とも下がるがよい。これからも、毎朝の起居は無用ぞ。朝から胸の悪くなる覚えはいたしとうないゆえ」

「それでは、太妃さまの御意を汲み申し上げ、起居は一月に一度といたしましょう。ただし、決して我等を親不孝と思し召しにならぬよう」

 顕錬は淡々とした答えのなかに一本の棘を潜ませ、宝余を促して退出した。宝余は震えながらその後について出て、殿の階の欄干に掴まり身体を支えた。動悸がまだ収まらない。


 ――お美しいが、何と怖いお方なのだろう。

 あの御簾のうちには優しさも柔らかさも存在せず、ただ恐怖と冷酷だけが支配していた。

「…大丈夫か?」

 夫は哀れむような、嘲るような何とも言えない表情で自分を見ていた。宝余は取り繕うのは無駄だと知りつつも、なお本心とは違う言葉を返さねばならない。

「――何でもありませぬ。いささか緊張したゆえ、太妃さまの御前で不調法を致しました」

「気に病むでない。私に対する母の態度も同じようなものだ。いや、さらに悪いやもしれぬ」

 ――え?

 宝余は顕錬の言葉が意外だったが、相手はそれについて何の説明も加えず、彼女の先に立って歩き出した。


***

注1「歩揺」…歩くと揺れる飾りがついた簪。

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