エルカの囁き
久遠マリ
春の匂
わかれ
開け放たれた木枠の窓から、すうっと冷たい夜の高原の風が吹き込んでくる。いつも振り返ってお帰り、を言ってくれる白髪頭の優しい祖父は、仕事をしている机の上に突っ伏して、口元を緩めたまま目を閉じていた。
「じいちゃん……?」
手元には掘りかけの小さなエルカの木で出来た壁飾り。雪解け水が小川を流れる今の季節になると草原の至る所に可愛らしい空色の花を咲かせる、アイリアという植物の花の模様があしらってあった。きっと、街の何処かの小さな娘にでもやるつもりでいるのだろう。
「風邪ひくよ、起きて」
エルカの囁き―春の匂―
エルカとアイリアがとりわけ大好きだった祖父が死んだ。
僕が帰ってきた時には、もう既に冷たくなっていた。まだ寒さも抜け切らないこんな春先に窓なんか開けたりするからだ。幾ら目が良くたって体調も良くたって、幾らその日の昼が暖かかったって……
「いつまで経っても無理しやがって、親父の奴」
のびやかに育つエルカの木で出来た棺が土に埋まっていくのを見ながら、町の役所から仕事着のまま駆けつけてきた父は、夕日よりも真っ赤になった目を隠そうともせずに言った。
一昨日、僕はあの後高原ジカよりも速く、町にあるもう一つの家まで走り、ちょうど高原野菜とミルクのスープを煮込んでいた母に向かって叫んだ。母はおたまを取り落とし、次いで唇を震わせ大粒の涙をこぼした。それを放っておくのもどうかと思ったが、僕はまた大急ぎで役所の父の元へ向かい、残りの仕事を片付けている途中のその背中に向かって祖父が死んだことを伝えたのだ。
鳥の声は、低地の町よりも少し遅い高原の春を歌っている。鼻をすする音が四方八方から聞こえ、僕はただそこに木のごとく突っ立っていた。エルカみたいにのびやかで自由な木ではない、冬に耐えられず立ち枯れたそれだ。
アイリアの花で一杯になった祖父は柔らかに微笑んでいた。その幸せな表情のままやがてこの大地と森の中に還っていくのだろう。ほんの少しだけ、羨ましかった。
僕は二十歳になったばかりだ。
高原の町で父と母と一緒に暮らしていて、十六歳で大工として町のとある現場で働き始めた。しかし、同じ時期に大工となった幼馴染みや他の仲間達に何故か冷たくあしらわれ、やがて無視されるようになって、仕舞には仕事も回して貰えなくなり外で木材の上に座り続ける日が続き、給料泥棒と罵られ解雇された。
何が悪かったのかは全くわからない。ひどいことをした覚えもないし、誰かに逆らった覚えもない。ただ精を込めて木に触れ、その切られたての香りを楽しみながら組んでいただけだった。昔から、家族で祖父の家に遊びに行っていた小さな頃から木が好きだったからだ。
でも、もうその現場にも、あの仕事仲間達の中にも戻りたくない。それどころか、もう何処にも行きたくなかった。仲の良かった筈の幼馴染みまでが、僕の知らない人になってしまった。
どうやったって、付いてしまった僕の傷は癒されない。
職を失くし、全てを話した僕に、父は町の外れの大きな家に一人住む祖父の所へ行ってはどうか、と提案した。父は祖父の木彫り職人の仕事がどうしても女々しいと感じられて好きになれなかったからここに来た、と告白したが、まあ今となってはそう思ったことをとても後悔している、なんてことを恥ずかしそうに付け足した。
小さい頃、物心つく前から家族でしょっちゅう訪れていた場所だ。僕は、あたたかく迎え入れてくれたその祖父の家で、木の香りと共に十八歳の新しい生活を始めた。お前もやってみるか、なんて言葉と一緒に彫刻刀と木片を渡された時は戸惑って胸がざわめいたが、にっこりと微笑んだ祖父の、昼下がりの太陽の光みたいなあたたかさに何処か安心感を覚え、気付いたらそれを受け取っていた。
朝早く起きて、朝食を交代で作って、近くを散歩して、洗濯して、昼食をとって、昼寝をして、彫って。夕食も交代で作って、また彫って、それからベッドに潜り込む。
野菜をたまに収穫して大きな台車に入れて運んだり、家の中で一緒に住んでいる白と黒の毛並みの大きな犬のミミを連れて森へ狩りに行ったり、削りかすと板で鳥の巣箱を作ったり、祖父の奏でる笛の音を聴いたり、蝶が羽化するところも見たりした。
祖父のノミや彫刻刀使いをじっくり観察し、僕はたまにエルカの木切れで何かしら彫った。それは高原ジカだったり鷹だったり、ミミだったり蝶だったりした。春になると、野の花を沢山彫った。時折、山と空と雲にも挑戦した。歪な形になってしまっても、彫っている時は夢中だった。たまに食事を抜いて、祖父に心配されたり笑われたりした。
そんなお前はクロヴィス――木彫りの仕事を継がなかった父だ――にそっくりで大好きだよ、と、ある時祖父は優しく言って僕の頭を撫で、抱き締めてくれた。年老いた者とは思えないくらい力強い腕と分厚い胸に、僕が声を上げて泣いたのは言うまでもない。
エルカにようにのびやかで、背が高くて安心感を与えてくれるその人はもういない。
「お前があの家に残りたいなら残ってもいいぞ、デリク」
父は、森のような瞳を僕に向けてそう言った。
僕も正直言って町に戻りたくなかった。しかし、いずれ心の何処かで折り合いをつけてあそこに行かなければならない。今の僕はただ逃げているだけだ。
「うん……でも、もう少ししたら戻るかもしれない」
「無理しなくていいのよ、デリク」
母も、僕を気遣うように言った、帰ろうとする大勢の人々がじろじろとこちらを見ながら去っていく、皆あの小さな町からの客だから、仕事もろくにせずこんな所に住んでいる僕を知っていて視線を向けてくるのだろう。
……僕は元々悪くないのに。
「大丈夫、無理はしてないから」
努めて明るい声を出し、僕は両親に笑いかけた。大丈夫、きっと少しはましになっているだろう。そう念じながら開けた道の方へ、吹く風を見送って町の方に目をやった。
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