エスケープ・インテグラル

ゴルゴ竹中

第0話その1 家出


 風をこんなにも心地いいと思えたのはいつぶりだろうか。


 気持ちの良い晴天が心中を慰め、雑草が互いに擦れ合う音は静寂に若干のスパイスを与えている。


 目の前では川が荒波一つ立てず、ゆったりとした時間の中で流れていた。


 水の上には少し藻が浮いたり、砂が混じっていたりして綺麗な河川だとは言えないのかもしれないが、その汚い部分こそが僕を飽きさせず、普段よりも鮮明に眼球に入り込んでくるのだ。


 手元を見ると一匹の蟻が餌を探し求め手の甲によじ登ってきていた


 僕はあまり虫が好きじゃない。いつもなら振り払ってその場を立ち去っているだろう。


 ただ、今日だけはそんな嫌悪感は湧き出てこず、むしろその蟻の一挙一動をじっと観察していた。蟻も僕の視線に気づいたのかこちらを上体を起こしこちらを見つめ返す。



 僕は今、確かに自然を感じていた。



 『自由』、この言葉をたった20年の人生の中で意識したことは一度も無かった。


 僕はこれまであまり自我を自覚して生きてこなかった。小、中、そして高と特に不満もなく過ごしてきた自分にとって、これまで歩んできた道について考え自らを見つめ直すことに大した意味を見いだせなかったのだ。


 そんなことを今思うのは、僕が自分と向き合っているからではないだろう。

 今までの自分から逃げ出したいだけだと言う方が正しいかもしれない。

 ただ、今の僕には素直にそれを認めることはできなかった。




 このままずっと……ずっとこうしていたい……




 僕が家出を決行してから五日が経っていた。今頃、親は僕のことを探してくれているのだろうか。あるいは、警察が……いや、それはないか。僕はもう20歳、大人だ。いつまでも学生気分でいてはならない。


 この家出を決意したきっかけは特段何も無かった。

 ただ、僕は近頃自分がすることの全てを鮮明に感じるようになったのだ。


 今まで何も考えてこなかったわけではない。テストで難しい問題が出れば、答えはなんだろうと真剣に悩むし、決断を迫られたときは自分なりの答えを出してきたつもりだ。

 その中で、自分の行って きた行為が自覚を持ってしていたかと言われれば、それに対しては曖昧にしか答えることができない。


 理由は当然、ただ成り行きのまま生きてきたから、それしかないのだろう。そういう意味で言えば、先ほどの発言は嘘になる。これまでの人生からの脱却、これが答えになるだろう。


 僕は息を深くまで吸う。出し切るまで吐く。これを何度と繰り返した。


 結局のところ、僕は何がしたかったのだろうか。関西の地元を抜け、関東近辺まで有り金はたいて来たものの、得たものといえば心地よい空気と『家出』という一般的には良くないことに対する言い訳だけだった。




「ほんと馬鹿らしいことをしてしまったなぁ」

 後悔は先に立たないのだ。所持金は見なくても分かる。見慣れたコインが4,5枚入っているだけ。

 そう、帰り道はこの計画を始動した時点で閉ざされている。

 

 完全に思考の停止した僕は川の流れをみつめるのを止め、周りの生い茂る雑草達を目でなぞり始めた。

 ぐるぐる、ぐるぐると焦点をどこにも合わせず、緑色の部分だけを目で追うと、緑の連続した絨毯に派手な色が混じっていることに気付いた。


 反射的にその物体が何なのかを理解しようと、僕の体は引き寄せられていく。

 

 手に取ると、それは土まみれになって汚れた豚の貯金箱だった。さっき遠目で見たときは目に優しくないピンクが邪魔のように思えたが、手元にあるこれは実にみすぼらしく、みっともない物体であった。


 ふと、停止していた思考が戻ってきた。

 この品、割と何かが入っているくらいの重量がある。

 例えば、この中にいくらか金銭が入っていたら実家まで帰れるのではないだろうか?  そんな期待とも絶望とも言える未来を妄想しつつ、そっとそれを上下に揺らした。


……何も変わらない静寂が続く。音は鳴らなかった。


 感じる重さだけで判断すれば何か入っていてもおかしくはないのだが、結果が出た以上、もうそのことはどうでも良かった。僕自身としては少し安堵しているようでもあり、やっぱりそういうことなんだな、と改めて自分を理解してしまった。



「……あ、もしかして誰かいるのか?」


 ぼそぼそとかすかな声が手元から聞こえた気がした。気のせいかと思い無視したが、声は再び問いかけてきた。


「え、聞こえてるよな、おーい、おーい」


 さっきよりはっきりとしている。太い大人の声だ。3,40代だろうか。まさか自分に言われているとは思っていなかったが、一応周りを見渡した。辺りは人一人として見当たらないただの河川敷である。


「こっちだよ、こっち。見えてはいるよな?」


 勘違いだと思い込んでいたが、この声は僕の掌、手の上に乗って いるこの物体から聞こえてきている。



「まさか……喋っているのはこれか?」


 その貯金箱を手元で回し、どこから音が聞こえているのか調べてみたが、それらしき穴は見当たらなかった。


「そうだ、私は君に問いかけている」


 唐突な返事についそれを落としそうになった。

「しかし、助かった。このまま誰にも見つからなかったら、どうしようかと不安になっていたところだからな」


「は、はぁ」

 なんのことかは分からないが、なぜか感謝されているらしい。

「……意外と驚かないんだな。君は貯金箱に話しかけられてんだぞ、少しは驚かんか?」


「まあまあ驚いてはいますよ」

 驚いていないことは無い。ただ、この貯金箱が喋ろうが喋らまいが僕の人生には何の影響も与えはしない。関心度は帰りの心配以下だ。

 

 やはりこういう所が駄目なのかもしれない。

 他人に興味がなく、自分のことですら興味が無かったのが今までの自分。まあ今は自分に対して興味が持ててるだけましなように思える。



「ところで、今は何月何日の何時何分だ?」


 僕は腕時計をちらっと見て答えた。

「えっとぉ、7月1日の12時32分くらいですけど」


「そうか、良かった。間に合ったぞ」


「何が良かったんですか?」

 とりあえず尋ねてみた。やはり僕ももっと他のことに興味を持たなければならない。


「そうだな、まだ時間はある。一つ面白いものを見せてあげよう。今君はいくらぐらいお金を持っている?」

 

 状況をよく理解していなかったが、何か面白いものが見れるのかなと漠然と思い財布を取り出す。

「4,50円くらいです」


「よし、じゃあ今から言うことをよく聞いてくれ。君はまず地面に落ちている手頃な石を拾う。次に、それをどこか適当な場所に投げる。その後、さっき出してもらった金を私の中に入れる。やることはこれだけだ。よーし、やってみよう!」


 彼は、それは偉く張りきっているようなテンションだった。

 だが、僕はそんなに乗り気ではなかった。

 そもそもよく分からない。言う通りにしたらどうなるのかも分からなく怪しい。


「……」

 一瞬、それについて尋ねようかなとも思ったが、その後のことを言われなかったことが僕の好奇心を少しでも湧き出させ ているように思えたので、あえて聞かず言う通りにすることにした。


 やれやれと体を起こし、石がありそうな川の付近に近づく。石はいくらでも落ちている。僕は投げやすそうな小さめの石を拾った。


「おい、一つ言い忘れていたが、石を投げた後すぐにお金を入れてくれ。すぐにな。じゃないと意味がなくなるんだ」


「なんでですか?」


「後で分かるよ」



 意図はさっぱり読めなかったが、言う通りにするために貯金箱をその場に置いて、財布から十円玉を5枚を取り出して貯金箱の隣に置いた。





 僕は石を持ったまま振りかぶり、誰もいない川の向こう岸めがけて投石する。これまで大して運動してこなかった僕の細い腕ではたった数十メートル先の対岸にも到達しなかった。


「くそっ!」

 ガックリして膝から崩れ落ちそうになった。自分の運動神経の無さに心底がっかりしてまう。

 結局こういうことなのだ。今まで何も積み上げてこなかった自分はこんなことすらできやしない。頭の中は悲観的な思考が渦巻いていた。



「おい、早くお金をいれろ!」


 はっと思い出した。こんなことに一喜一憂している場合じゃない。目的を完全に忘れていた。

 僕はすぐに置いたお金を手に取り貯金箱に入れようとする。焦って手際が悪くなってしまったがなんとかお金を中に入れた。


 その時だった。

 突然目の前が真っ暗になる。

 いや、ただ目をつぶっていただけのようだ。そっと目を開くとさっきと変わらぬ場所に立っていた。


「あれ、さっきしゃがんだはずなのに……」

 僕はなぜか立っていた。

 ふと握ってある手を開くと、そこには見覚えのある石がある。

「こ、これは今さっき僕が投げた石だ、間違いない」

 その石を舐め回すように確認した。サイズや形はどうみてもさっき僕が投げたはずの石にしか見えなかった。

 

 何が起こっているのかが分からない。理解できたのはこの状況が先ほど数秒前に僕がいた状況とまるっきり同じであるということだけだった。



「どうだ、驚いただろ」

 地面から自信気な声が聞こえた。

 

 このとき疑問が浮かんだ。下を見下ろすと確かに先ほどと同様、貯金箱は置いてある。

 しかし、僕が準備しておいたはずのお金は跡形もなく消え去っていたのだ。


「お、おい。僕のお金は? 大切な残金、50円はどこいったんだよ!」


 慌てて自分の体中を弄り、辺りも入念に探したがどこにも見当たらなかった。


「お金ならどこ探してもないぞ」

 僕は、貯金箱を掴み持ち上げ必死に話しかけた。


「あれは僕の全財産なんだぞ。ど うしてくれるんだ!」


「悪い悪い、先に行っておくべきだったな。だが、分かっただろ。これが私が見せたかったものだ。お前は今確かに時間を逆行したのだ」


「時間を逆行?」


「要するにテープを巻き戻すような感覚だ、俺の能力を使えば過去に戻ることができる。早送りはできないけどな」


「まさか、そんなことが本当に……」


「ただ、こんな便利な能力だ。デメリットもある。それがさっきお前が入れてくれた500円。俺は入れてくれたお金の分だけ時間を戻すことができる。厳密にルールを説明すると、1円につき1秒だ」


「1円につき1秒か」


「つまりさっきは50円だったから50秒時間が戻った。1時間なら3600円、1日なら86万4千円だ」


「なんだそのぼったくりバーみたいな値段設定は」


「それは仕方がない。時間を戻せるんだからな。それなりの対価は払って当然だろ」


 素直にその言葉を信じることはできないが、それは実際に体感してしまったことだ。今は受けいれざるを得ない。



「も一つ質問だが、君は今いくつだ?」


「な、何の話ですか?」


「何歳だ、と聞いているんだ」


「はたちです」


「二十歳……ぎりぎりと言ったところか。今は人を選んでいる場合でもないしな」


「もっと若い方が良かったんですか?」


「いや、その“逆”だ」


 彼の言葉の意図はいまいち理解できなかった。



「これも運命なのだろう。君にひとつお願いがしたい」


 このとき、彼の話し方から何か良からぬことが起こる予感がした。厄介ごとに巻き込まれそうなそんな嫌な予感が。




「君には今から10年、時を遡ってもらう」





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