愛と遺骸と
うなかん
序章
第1話
押し入れを開けた。いつも通り先輩がいる。華奢な体躯を大きな椅子へ預け、ただだだ静かに眠っていた。何度対面しても思う。硝子のように綺麗だ。
先輩の襟元を整える。ふと手が止まった。この目を射るもの、垂らされた黒髪から覗く鎖骨。背徳感。褪せた心でもそれは感じる。それでも倫理は押し退けて、先輩の鎖骨に親指をそっと押し当てる。こんなの許されないだろうな。でも先輩なら許してくれるんだろうな。それはこんなことをする理由ではないけれど。頭の中でひとりごちながら鎖骨をなぞる。固い。鎖骨だから当たり前か。だけど冷たい。このことはなんとしようか。
考えたところでどうにもならないので行動を起こすとしよう。椅子の脇に置かれた小さな台、そしてその上の香炉と香一式を椅子の手前に置く。押し入れを開けて先輩と向き合うことは、この香を焚くことと連結され一つのルーチンとなっている。本当に何かを考え始めるとするなら、それはきっとこの作業を済ませてからだ。
窓を開ける。夏の風が去っていく。炭を手に取ってライターで火をつける。そして火がおこるまで少し待つのだが、先輩になんと挨拶しようか考える程度の暇はある。考えついたら炭を香炉の灰に
再び待つ。何を待つかといえば他でもない先輩である。この時間はいつも奇妙だ、そして同じく胸が踊る。俺と全く同じシチュエーションを経験したことがある奴など他にいないだろう。それは後にも先にも。いや、後のことなど分からない。考えてみれば先のことも分からない。今しかないのだ、俺には。そこで思考にブレーキがかかる。考えることの勢いを削がれ、なんともなしに視線が落ちる。目に写る香炉の文字『
ぴくり、と肘掛けの上で先輩の指が跳ねる。来たのだ、先輩が。毎度この瞬間は喜ばしい。台をもとあった場所に寄せ、先輩の小さく冷ややかな手をとる。待っていた。待ち人の来たる喜びの中、ふと先輩の冷たさへと意識が向いた。冷たい。冷たいな。それが未だにどこか寂しくて、せめて温もりが手渡せるものであったなら、と思った。もしそうであれば、先輩に俺の温もりを渡して、そして先輩のものとなった温もりを俺が受け取ろう。しかし実際はといえば、手に宿るものは手渡せない。歯がゆい。そもそも先輩にはその宿るべきものが宿っていない。手を少し強く握った。せめて熱は伝わるだろうか。
するとどうやら何らかのものは伝わったらしく、先輩は俺の手から腕を引いた。そしてなおも瞳は閉じたままに、肘から先を起こしてぱっと開いた手のひらを向けた。俺がそれに応えて指を絡めると、先輩も同じくぎゅっと握ってくれる。それは氷に包まれるようだった。
「冷たいでしょう」
透き通って落ち着いた声が空気を撫でる。俺の頭の中を読み上げるような、そんな調子だった。
「言っておくけれど、それは」
目が、開かれる。
「あなたが暖かいからだから」
ふと、香の香りで我に帰った。
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