イルカの夢
モチヅキ イチ
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「ママ、ねえママ」
どこからか、息子の声が聞こえてきた。夕飯の片付けも済んで湯船にゆっくりと浸かっていた私は「どうしたの?」と声をかけるけども、息子の返答はない。
私は風呂から急いで上がりパジャマに着替えると、リビングへ向かう。窓が開いているのに気づき、庭を見ると息子が呆然と立っていた。
「どうしたのよ、返事くらいしなさいよ」
息子はじっと空を指さしたので、私は顔を上げた。
国道から離れ穏やか海沿いに広がるこの港町は、夜になるととても静かだ。明かりも家々の窓から申し訳なく零れるほどしかなく、辺りは真っ暗になる。そのおかげで、晴れた日には星空が一段とよく見えた。都会で生まれ育った私にとってその景色は、いつ見ても言葉を失ってしまうほどだ。
今日は雲一つない上に、満月であった。星も一つ一つがいつも以上に大きく見える。だけども息子が空を指さしたのは、そこに浮かぶ何かの群れであった。
月の光で輝く“それ”を私は最初、大きな鳥かと思った。だけども違うわね、鳥のシルエットはあんなんじゃない。ならば飛行機? それにしては違和感があるし、やはり鳥の群れのように沢山あるそれを飛行機とは思えなかった。
「ママ、イルカって空をとぶんだねぇ」
息子の言葉で“それ”がイルカだと分かった。なるほど、イルカか。胴体がまん丸く、翼らしきものはない。前はくちばしのように尖っているけども、尾ひれは波打つように大きく動いている。確かにイルカであった。
それは何匹も、群れを成して星空の海を泳いでいる。波のないはずの星空が波打っているように見えて、見ていて気持ちよさそうだ。
星空にも流れがあるんだろうか、イルカは私たちの視界を横切るように南から北へ向かっている。月の光を反射させるその体は、透明できらきらしたコートを羽織っているようであった。
その光景に、私たちは目を奪われていた。
「……そうね。イルカだって、飛びたいときは飛ぶものなのね」
これが私にとって、彼らとの初めての出会いである。
私はミズノエリ。夫と息子、三人で暮らしている。昔は都会で働いていたけど、結婚してからは夫の地元であるこの町に引っ越してきた。
人口は少ないし、小さなスーパーが町に一つしかないという不便なところ。だけども私はどちらかというと知らない人と接しない方が好きなので、この暮らしの方が性に合っていた。
息子が学校に行っている間、私は暇があればカメラを持ってバスや電車で遠くへ赴き、思うがままに写真を撮っている。主に風景の写真で、その写真の中に私の写っているのはほとんどない。私や夫、息子が写っている写真はまた別にとっておいて、これらは私の趣味の写真としてまとめていた。
そんな趣味のおかげなのか、私は素敵な景色を見ると心のシャッターを切ることができるようになった。そうして撮られた景色は、私の心の中で色あせることなく鮮明に残り続けている。そう、昨夜のあのイルカの景色だってその一つだ。
だけども、写真を撮らなかったのには少し後悔している。だってあんな珍しい光景、夫にも見せてあげたかったもの。まったく、どうして昨日に限って残業なんかしちゃうのかしら。
きっともう、あんな景色は見られないだろうなと、私はリビングで意味もなくカメラを持ってぼーっとお昼を過ごしていた。
とんとん。
玄関からドアをノックする音が聞こえてきた。私は頭の中で散らかっている考えごとを急いで頭の隅っこに寄せておくと、玄関へ向かった。
「ちょっと待ってくださいね、今開けます」
ドア越しに向かってそう言うと、向こうからとても明るく元気な声が返ってきた。
「こんにちは、わたくしジェックと申します。実はここのお嬢様に折り入って御相談があるのですが……ミズノエリさまはいらっしゃいますでしょうか?」
声の感じから、青年かしら。しかしまるで、外国人みたいな名前ね。
外国人だとして、そんな人がいったいどうしてここに? なんで私に用が? そもそも私って、お嬢様って柄じゃないわよ。整理のつかなかった頭は、また別のことでごっちゃりと散らかり始めた。
不審に思いながらも、私は扉を開けた。すると、その散らかっていた頭の中は綺麗さっぱり吹き飛んでしまう、そんな光景が目の前に立っているのだ。
「どうも初めまして、改めてご挨拶を。わたくし、ジェックと申します。以後お見知りおきを」
なんともご丁寧な挨拶をする“それ”は、私の考えうる来客のどの姿にも当てはまらなかった。日本人でなければ、外国人でもない。ましてやおそらく、人でもない。それは灰色よりの青い肌をしていて、私よりも一回り縦にも横にも大きい、イルカだった。
肌はまるできめ細やかな水に覆われているようにてかてかと光り、尾をぐいっと曲げて大きなひれで器用に立っている。人間らしさといえばその立っている様子と、イルカにしては不釣り合いな頭に乗せていた帽子くらいだ。
「貴方が、ミズノエリさまでしょうか?」
イルカの表情が“困り顔”みたいになったのが分かった。実際イルカの表情がどんなものか知らないので、それが本当に困り顔なのかは分からないけども。
「は、はい……なんのご用でしょう?」
しかしいきなりのイルカの来訪となると、私も動揺が隠せない。これがもしただの外国人であれば、まだ安心はできただろう。こんな誰もいない中で、あの大きな口で私をとって食おうとしてきたら、どうしよう。
「やはりそうでしたか。いやいや、エリさま、昨夜は我々の泳ぐ姿をご覧になりましたでしょう。それで折り入ってお話があるのですが……」
イルカのジェックは、そのままの明るいテンポで次へ次へと話を進めていくのだった。
単刀直入に言えば、ジェックは私にイルカ専門のカウンセラーになってほしいというのだ。
しかしあまりに突然の話に、私は戸惑うしかない。だってイルカと話をしたことなんて、一度もないのだから。何より私は、カウンセラーなんかしたことがないんだ。
「いいんですよ、エリさまは話を聞いていただくだけで。専門家とお話を聞いてもらえた、それだけで我々イルカは安心するのです」
「いえだからその、私は専門家なんかじゃないんですよ。カウンセラーなんて、ドがつくほどの素人です」
「それでも大丈夫ですよ、専門的な話はしなくてもいいんです。さっきも言ったように、お話を聞いてもらえるだけで安心します」
どうやら話を聞くと、こうしてイルカと接するのは、夜空を泳ぐイルカを見たものでないといけないらしい。本当は専門家に頼むのが一番なのだろうけど、そうしたイルカを見る人間というのは今やほとんどいないらしい。
「専門的な知識がなくても、難しいことはございません。エリさまはここへやってきたイルカの話を聞きながら、適当に相づちを打ってもらうだけでいいのです。イルカと人間は住む世界が違います。話に食い違いがあってもイルカたちはそれを分かってますし、分からないところは適当に流していいんです」
「でも……」
不安げな私をよそに、ジェックというイルカはもう半ば決まったように話を進めていく。
だけどもその話をするジェックの顔は“真剣な顔”を見せている。イルカたちにとって、よほど深刻な問題なんだろうか。
そしてそれが、夜空を泳ぐイルカを見た私にしかできないことだとすれば。なんだか断るのも、申し訳ないわね。
「……本当に、話を聞くだけいいのね?」
私は渋々承諾をすると、ジェックは快い笑顔らしき顔を見せてくれた。
しかしこの話、夫にすればいったいどのように言われるのだろう。そんなでたらめな仕事をやって大丈夫なのかと、色々と言われるかもしれない。
その日の夕方、夫と息子三人で食卓を囲っているときにその話をすると、夫はなんとも調子の良さそうな声で返した。
「へえ、いいんじゃないの。イルカがここへ来るんなら、家にいなくちゃいけないんだろう。写真を撮りにどこかへ行かれるよりは安心だよ」
そういえば夫は、私の放浪ぐせをあまりよく思ってなかったのよね。別にこの仕事をやれば昼間に遠くへ出かけなくなるってわけじゃないけど、その頻度はきっと下がる。夫にとっては、それが安心だったんだ。
だけども私だって不安といっしょに、少しながら興味もあった。
大勢の人と接するのは苦手だけども、人じゃなければ安心なのよね。たとえば動物とか、そういうのに囲まれるのは好きなのよ。イルカとお話ができるなんて、そうそうないことよ。都会で働いてた頃も、そんな話は聞いたことがないもの。
そもそもイルカは何故、空を泳ぐのだろうか。私は帰ろうとするジェックを引き留めてそれを聞いたのだった。
「私たちイルカは、夢を見ます。それが遠く向こうにある場所の夢だと、そこへ星空を泳いで向かうのです。だけども夢を見るものには、心を煩っているものが多いのですよ。エリさまには、そういった方々のカウンセリングをお願いしたいのです。あぁそうだ、報酬はもちろん我々なりのもので、あなた方にとって価値のあるものをお送りします」
イルカたちにとって、夢を見ると空を泳ぐというのは同じことなのだそうだ。彼らはいったい、夢でどんな素敵な場所へ行っているのだろう。
私もそんな夢が、見られるのかしら。
―――
そしてその日の夜から、私の仕事が始まった。
夫に『イルカは他の人とは干渉してはいけない』という事情を伝えると、私に書斎を貸してくれた。掃除以外ではほとんど入らないような部屋だから、私は中々落ち着けずにいた。椅子に座り、窓からじっと星空を眺めている。
「ほんとうに、こんなところへ来るのかしら」
星空に、ちらちらと光る影が見えてくる。目を凝らしてみると、昨日と同じイルカの群れだ。
これほどまでに目立つのに、なんで私や息子しか見ていないのかしら。そんな風に思っていると、一つの影がまるで落ちる木の葉のようにふ、ふわりふわりと近いてくるのが分かる。それは窓の目の前まで来ると、前びれでこんこんと窓を叩いた。
「はいはい、今開けますわ」
私の最初のお客さんは、ジェックよりも一回り小さく色も明るめなイルカだった。
その子はメス……この場合、女の子と言った方がいいかしら。ミスリーという方で、やはり人間と会うのは初めてなのか、部屋の中に入ってももじもじと緊張した様子だった。
「まぁ、気を楽にしてもいいですよ。主人も子どももこの部屋には入らないように言ってあります。思ったことを好きなように、私にぶつけてください」
とはいえ、好きにぶつけられても答えられるか不安だったけど。そう言われてミスリーはすうはあすうはあと深呼吸をして(深呼吸をすると、イルカのお腹って面白いくらいにしぼんだり膨れたりするのね)ゆっくりと彼女なりの言葉で話してくれた。
「あの、ミスリーです、私。イルカってその、お魚を食べるんです。みんなで囲んで、追いこんでぱくぱくと。みんな、いっぱい食べます。私は小食で、だけども。痛くなっちゃうの、お腹が。みんなでも、いっぱい食べる。食べなきゃって私も、食べちゃう。どうなっちゃうか、食べなかったら。それが怖くて、私……」
話すことに馴れてないのか、彼女の言葉は思ったよりもちぐはぐだった。だけどもこれくらいなら、意味を汲み取るのは簡単だ。
なるほど、おそらく友達でお互い同じことをしていないと不安になるというやつよね。私も学生時代、そんな子が友達にいた経験があるから分かる。
その子は内気な子だけど遊びに誘うといつも来てくれる、結構つき合いの長い子だった。でも時には、明らかに寝不足で無理をしている日とかもあったりした。体調が何より大事なんだし断ってくれればよかったのだけど、彼女なりに断るのは悪いと思っていたのだろう。
そのときは私の方から誘うときに、断れるくらいのゆるい誘い方を覚えたのだけど、ミスリーの場合は立場が少し違うのよね。しかも私の間で通用したものが、イルカの世界で通用するとも限らない。
ここはジェックが言っていた通り、色々と話を聞くことに専念しましょう。
「その、仲間とはとても仲がいいのかしら?」
「みんな仲良しなの、生まれた時から」
「それじゃあ昔からお魚を食べる仲なのね」
「一緒に遊ぶの、いつもそうなの」
「みんなと一緒なら、楽しいわよねぇ」
それから私たちはミスリーのちぐはぐな台詞に馴れながら、悩みとは違う色々な話をした。他にもイルカの世界がどんなものか、私が知りたいことも。
そうしてミスリーも喋ることに馴れてきたのか、あれだけちぐはぐだった話し方もだんだんと流暢になっていく。時には私が言ったことをひとり言のようにオウム返しするときもあった。それに最初はあれだけ不安だった表情も、だんだんとやわらかく(イルカとずっと顔を合わせていると、こんなにも表情の変化が分かるようになるのね)なっていくのが分かった。
「うふふ、先生ありがとう。とっても楽になった。なんだか悩みごとも、どうにかなりそうだわ」
ミスリーは色々話して満足したようにそう言って、窓からまた星空へとふわふわ泳いでいった。途中で振り返って手を振るのだから、私もつられて小さく手を振る。
「私の方こそ、お礼が言いたいくらいだわ。沢山のお話、ありがとう」
私はミスリーが遠くの方まで行って、粒のように見えなくなるまでその姿を見届けた。
その次の日、ポストを開けてみると一つの小包があった。防水用の厚紙に包まれていて、差出人を見るとジェックの名前があった。
「イルカなりの報酬って、どんなものかしら」
開けてみると、中には四粒の真珠が入っていた。大きさが様々で、形は綺麗な球体とは言えない程度に少しだけ歪ね。だけども、どれも光を吸い込んでいるような光沢を放っている。
私は寝室から埃被っていた空の宝石箱を取り出し、その中に受け取った報酬を入れた。
最初の日のお客はミスリーだけであったが、彼女から評判が広まったのか、次の日は五匹ものイルカがやってきた。
みんな仲間内や食べ物に関する悩みばかりである。イルカの中では仲間というのがどれほど大事なものか、食べることの重要性とかイルカなりの社会性も見出せるのは楽しい。相変わらず私はうんうんと頷くことしかできないけれど、評判は悪い方へ傾くことはなかったようだ。
そういえば、中にはこんな子もいたわね。
「ぼく、デイリーと友達なんだ。だけども、デイリーの考えてること、よく分かんなくて」
「デイリー?」と私は聞き返す。友達というからきっとイルカのことだろうと思ったけども、違っていた。
「デイリーは、クジラだよ。まだ小さいんだけどね、歌声がきれいな子なんだ。一緒に“キュウル”したりして遊んでる」
キュウルというのは、イルカたちの間で流行っている遊びのことだ。急な潮の流れに乗ってスリルを楽しむんだそう。私たちで言うジェットコースターみたいなものね。イルカによっては貝殻も一緒に巻き込んで、より刺激的なこともするみたい。
イルカたちの関係を頭に入れるだけでも手いっぱいなのに、クジラまで持ち込んでくるのね。だけども私は、いつもの調子でうんうんと頷きながら聞いていた。幸いこの子はしゃべるのが得意で、私が話を引き出そうとしなくても色々と話をしてくれた。
まず、デイリーという子は女の子なのだそう。そしてデイリーの好きなもの、好きな水温、好きな声の高さ、好きな“私にはよく分からないもの”なんかを一つ一つ丁寧に教えてくれた。それを話す様子を見ていて、この子がデイリーのことが好きだっていうのが、なんとなく分かった。
海の世界では、そういうこともあるのね。でもお互い海のほ乳類だし、そういう気持ちは通じ合うのかもしれないわね。
「まぁ、今の関係は大事にした方がいいと思うわね。言葉が通じなくても、貴方は彼女の大事なこと、沢山分かっているもの。今はそれで十分よ。貴方も、一緒にいられるだけで満足なんでしょう?」
私は子どもの頃、実家で飼っていた猫のことを思い出した。ぶくぶくと太った、三毛のメス猫。鼻先に黒いぶちがあったから、ぶちって名前だったわね。ぶちとはもちろん言葉は通じなかったけども、それでも私とぶちはとっても仲良しだったわ。言葉が通じなくったって、仲良くはなれるもの。
……うん、仲良しだったと、私は思う。
「ありがと、先生。話をするとほんとうに楽になるんだねぇ。もっと気楽に、デイリーとは接してみるよ」
「えぇ、お互い幸せになるといいわね」
相談を終えたイルカはやわらかな表情で笑って、星空の海へと帰っていった。それからデイリーとは上手くっいっているのか、少し気になる。だけどもここへ来なくなったってっことは、きっと上手くいってるのよね。
次第に常連さんも増えていった。とは言っても何度もくるイルカなんて、ほとんどはもう悩みも何も抱えていないような子ばかりだけどね。みんな、ただ私とおしゃべりがしてみたいだけらしいの。でも知っているイルカだと、私も話が合わせやすくてなんだか楽しいものね。
「わたし、あのお、先生のこともよく知りたいんですよお。先生って、どんな楽しみをしているんですか?」
この子は常連の一匹、アブリというイルカだ。声はイルカの中でも高く、語尾がくるんと丸くなっているような喋り方が特徴だ。だから私も最初は女の子かと思っていたんだけど、そういうつもりで話したらやんわりと怒られたことがある。
「楽しみ? そうね……アブリくんが面白いと思うかは分からないけれど、もちろん私にもあるわよ」
そう言って私は、引き出しから自慢のアルバムを取り出した。それが何かって? もちろん写真よ。撮ったものは色々なアルバムに保管しているんだけど、引き出しに入れているものは特にお気に入り。今まで撮ってきた中でも心に残っているものを、この中にまとめてある。
それをアブリに渡すと、アルバムがよく分かんなかったみたいね。裏と表と眺めると徐に噛みつこうとした。私は慌ててそれを止めて、ページを開いてみせた。
「わあ、先生って絵が上手いんですね」
「いいえ、絵じゃないわ。ええっと……なんて言えばいいかしら」
「もしかして、カメラというやつですか?」
イルカの世界ではおそらくないだろうと思っていたカメラ、それがアブリの口から出てきて私は驚きが隠せなかった。呆気に取られ「えっ」といつもよりも高い声を上げた。それが少し恥ずかしくて、私は髪をくるくると巻いてこくりと頷いた。
どうやらアブリは一度船に近づいた時、多くの観光客にシャッターを切られたらしい。ぱちりぱちりと光が瞬き、アブリはそれがとても印象的だったそうだ。
そしてその中の観光客の一人が、その場で現像するポラロイドカメラというものを使っていて、それで存在を知ったのだという。
「私の友達はね、絵を描くんですよお。とっても上手くって、みんなの人気ものなんです」
「へえ、イルカも絵を描くのね」
「そうです。だけども私のように夢が見られなくって、とっても悔しがっているんですよお」
アブリは続けて話してくれた。その友達というのは、自分がほんとうに見たものの絵しか描けないんだという。アブリたちのように、夢で様々な夢のような景色をいくつも見ていきたいのに、それができなくて悔しいのだと。
だけども絵を描いている時は、その友達にしかできないような明るい笑顔を見せてくれるんだという。
そういえば、イルカの夢は心を煩ってる人しか見られないとか、ジェックが言っていたわね。その友達は、絵を描くことによって心が満たされているのかしら。
それからアブリとのカウンセリングは終わったのだけれど、彼が噂を流したのね。それから来るイルカたちはみんな、お話よりも私のアルバムを見たがっていたわ。夫も息子も、友達だって誰も興味を持ってくれなかったアルバムが、こんなにも注目を浴びるとなんだか嬉しいものね。
アルバムに入れてあるのは、海に住む生き物であれば到底見ることのできない、陸の写真。小さな鳥居の飾られた尖った大岩のそびえる丘や、草原の真ん中でぽつんと佇む寂れた電波塔。あんな写真やこんな写真、どれもイルカたちは目を輝かせながら見ていたわ。
「ほんとうに、イルカたちは物好きねぇ」
だけども私は、イルカたちが夢を見て出会う景色の方がどんなものか、知りたいわね。
カウンセラーを始めて、一ヶ月が経ったかしら。
その日のお昼はジェックが久々に訪ねてきた。たまたま近くを通りかかったのだそうで、いつもは送ってもらっていた“報酬”を手渡しで受け取った。
「ジェックさんは、陸にはよく上がるの?」
「いいえ、ごくまれですよ。ここは町の外れですし、他の人に出くわさずに来れるので助かります。たまたま通りかかったのは、海のルートでのことです。海では私たちにとってのお仕事がたくさんあるのですよ」
海でのお仕事、きっと私が聞いても分かるようなものじゃないわよね。そう思いながら受け取った報酬を宝石箱の中に入れた。あと数日もすれば入らないくらいにぱんぱんなそれは、箱の中できらきらと光を乱反射させていた。
「そういえばどこでも噂が流れていますよ、エリさまは訪れた客に写真を見せているそうで」
「えぇ。やっぱりイルカには珍しいのかしら」
「そりゃあ私たちの世界にはないものですからねぇ……」
そう語るジェックを見ていると、ちらりちらりと引き出しを見ている。どこか落ち着きのない様子ね。
「よかったらジェックさんも見ます?」
ジェックはカウンセリングに来る他のイルカよりも体が大きく、落ち着いていて大人びた印象がある。彼らよりはきっと大人とは思っていたけども、その言葉を聞いた時のジェックといったら、包み隠すことができないほどの無邪気さがあった。
私がアルバムを取り出すと、それを待っていたと言わんばかりにジェックは笑みを零し、わくわくするようなヒレつきでページをめくっていった。
「いやぁ、これが写真というものですか……すばらしい、絵とは違ってまるで本物だ。それに写り込んでいるもの、どれも見たことのないようなものばかり。やはり人間の住む世界というのは大変興味深いものです」
「イルカさんたちは、みんながみんな陸には上がれないのですか?」
私はずっと、気になっていたことを聞いてみた。それを聞くとジェックはアルバムを閉じ、二度三度と首を横に振るような仕草を見せた。(イルカの首ってとても太くって、首を振るって動作が分かり辛いものね)
「私みたいに歳を取れば歩ける、というわけではありません。やはり特別な職に就くものだけですよ。星空の海を泳いでも、こちらから人間には干渉しない、そういう決まりなんです。何故だから分かります?」
ジェックの問いに、私は首を横に振って答えた。
「まぁ、時が経てば貴方もいずれ分かるかもしれませんよ。貴方は、我々のことを知りましたから」
ジェックは答えにならないような言葉を残して、その日は帰っていった。
私の撮った写真のブームは過ぎ去ってしまったらしく、やってくるイルカたちは日に日に少なくなっていった。
「最初はちゃんとできるか不安だったけど、いざこうして来るイルカが減ると寂しいものね」
私はときどき星空を眺める。イルカたちは相変わらず群れを成して泳いでいるけども、その数自体が少なくなっているように思えた。
ここへやってきたイルカに聞いた話だと、今イルカたちの間では絵を描くのがブームになっているらしい。私の写真を見て、景色を形として残す魅力に目覚めたんだとか。私が発端でそのブームが広がったと聞いて、それはそれで嬉しかったけど、絵を描いたイルカたちは夢を見なくなっていったのだそう。
私のせいで、ここへ来るイルカが減ってしまったってことなのね。
みんな、実際に見た景色を描いているのかしら。それとも、誰も見たことのない景色を描いているのかしら。
ここのところ、私はカメラを持って出かけていない。それもこれも、イルカたちの話を聞いてしまったのがいけない。だってイルカたちが話すイルカの世界は、私の住む世界よりもよっぽど魅力的なんだもの。
私も夢を見て、イルカたちみたいに素敵な景色に巡り会えないものかしらね……。
そんなことを思いながら、その日の私は眠りについた。そしてその夜、私は初めてジェックの問いを理解することができた。私は、イルカたちと同じ夢を見ることができたんだ。
イルカの夢 モチヅキ イチ @mochiduki_1
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