27-2



 マーマロッテが入っている箱の前で泣いたり泣き止んだりを一時間ほど繰り返していると、気を遣ってくれたのかレインが夕食を持ってきてくれた。

 食欲は当然のごとくなかった。だがせっかくの善意を無下にしたくもなかったので、とにかく腹に詰め込んだ。

 味を楽しむ気持ちはあっても身体が思うように反応しない。それでも空腹が満たされるにつれ、気分は幾分か晴れやかになっていった。



 過去を悔やんでいても誰かが幸せになるわけじゃない。

 今は前を向いて、できることをやっていかないと。



 これから先も長い間眠り続けるマーマロッテを近くで感じながら、一人で暮らしていくことになる自分の生活を想像してみた。


 彼女と未来を繋ぐ子供達が幸せに生きていける世界。

 そのためにやっておかなければならない準備は山のようにある。

 とにかく、自分のことは後回しにして環境作りに全力を注ごう。


 頭の中で慎重に整理している俺と地下三階の青白い部屋が、ほのかに揺れる暖気と緩やかに流れる時間によって全身を預けたくなる和みとして循環されていく……



 そこはまるで、母胎に入っていた時の普遍的な安心感に似た……命の意味を知っていた頃の遠い昔を遡った先に存在するかつての自分と再会したような……そんな不思議な記憶によって引き起こされた……高揚感で満たされた空間だった。


「なんだろう。……この光景、前にも見た覚えがある」

「あら奇遇ね。私も今同じことを考えていたわ」


「一瞬、自分が誰なのか分からなくなった……」

「もしかしたら、これは星の夢なのかもしれないわね」


「ああ、俺もそんな気がしていた」

「ところで、この子のことで私から提案があるんだけれど聞きたくない?」


 レインの話を素直に聞くことにした。

 そして彼女は、慎重に言葉を選びながらその内容を説明してくれた。


「どういうことだ? つまり、十年も待たなくていいということなのか?」

「ええ、そうよ」

「そんなことができるのかよ……」


 とても信じられる内容ではない。

 だが、仮面を取った彼女の顔は真剣な表情を最後まで崩さなかった。



 その奇抜な提案は、俺達の未来にとって重要な分岐点となる。



「で、どうかしら? 私はとても良い方法だと思うけれど」

「今ここで、答えを出さないと駄目なのか?」

「できるだけ早いほうがいいわ。なんだったら、今夜ここに泊まって考えてみなさい。あの部屋貸してあげるから」


「ああ。それじゃあ、甘えさせてもらおうかな」

「明日には、出せそう?」

「分からない。でも努力はしてみる」

「じっくり考えなさい。これはあなた達二人の問題なのだから」




 地上三階にあるマーマロッテの部屋で一晩を過ごすことになった。

 一人で部屋の中に入るなり、彼女の歩んだ人生が心地よい匂いとなって俺を迎え入れてくれる。

 照明の当て方は教わっていたがあえて暗いまま寝台に腰掛けた。

 彼女をより身近に感じるにはそのほうが適していると思ったからだった。


「……俺が望む未来、か」


 レインの提案になかなか答えを出せずに考えあぐねていると、扉の向こう側からなにかを叩く音がした。

 開けた先には、アザミの姿があった。


「あの、少しだけお話しませんか?」


 彼女を部屋に通した。明かりを点けようと手をかけたら遠慮気味にそれはしなくてもいいと言ってきたのでそのとおりにする。

 椅子が一つしかなかったのでアザミにそれを譲って自分は寝台に腰掛ける。

 ところが彼女はそれだと話しづらいからと言って、俺の横に座った。


「あの子の話を少しだけさせてください」


 アザミは少し遠くの床を見つめながらマーマロッテと過ごした思い出を語りはじめた。本人から聞いていたことや初めて聞いたことなどを彼女なりの気持ちを交えながら話してくれた。

 マーマロッテがこの人に愛されていたことを知るには十分な内容だった。


「実は私にも一人、子供がいたんです……」


 そのことを話したくてここに来たのだとすぐに分かった。

 きっとそれは、俺だけに向けられる話だということも、その顔に書いていた。


「その子は、ある男の策略によって作られました。名前は『アレフ』。私達は人類の進化のためと銘打たれたその男の計画に巻き込まれたのです。当時から無力だった私は、男に抵抗することもできず相手との子供を宿しました。そして、子供は無事に産まれます。ですがその子は出生直後から普通ではありませんでした。『異常な治癒能力と環境適応能力』が身体に宿っていたのです。私はその子を自分の子だと簡単に認めることができず、男のことがどうしても許せなくて、その憎しみを子供へと向けてしまいました」


 アザミの声は今にも消え入りそうなほどか細く、小さい。


「それでもそいつは、あんたの本当の子供だったんだろ?」

「はい。あの頃の私はどうかしていました。子供を愛することよりも、男のことを憎んでいた気持ちが強かったのです。今になって思えば間違いだったと後悔しています。かけがえのない我が子を捨ててしまったことはこの身が滅んでもなお、償いきれない罪として私を蝕んでいくのです」


「悪いのはあんた一人だけじゃない。そこまで背負い込む必要はないさ」

「あなたに言ってもらえることがなによりの救いです。ですが、やはり罪は罪。私はこの命を賭して償わなければなりません」


「……いや、それは違う」

「え?」

「あんたはマーマロッテに二人分の愛情を注いでくれた。それだけで、もう罪滅ぼしになっている。それに、捨てられたその子は辛い人生を送ってきたかもしれないけれど、きっと母親の愛をしっかり感じ取っていると、……俺は思うよ」



 アザミの顔を見つめた。

 彼女もまた、微笑みながら俺を見つめてくれる。



 マーマロッテはこの笑顔を見て育った。

 だから、俺達の笑顔はよく似ていたんだ。



「……メイル、様」

「自分の息子なんだろ? 様はいらないよ」

「あの、メイル……」


「ありがとうな、母さん。あんたが考えてつけてくれたその名前、ずっと大切にしていくからさ、母親として立派に生きたことにもっと自信を持って、幸せになってくれよ」

「……今まで一人ぼっちにさせてしまって、ごめんなさい」

「俺も、辛い人生を送らせてしまって、ごめんな」



 アザミを抱きしめた腕に、人生分の母への思いを注いだ。

 震える肩から弱々しい彼女の心の声が鳴り響いて、生まれたばかりの記憶が蘇ってくる。



 この人は俺のために痛み、苦しみ、孤独を耐え抜いてきた。

 だから、俺にはその恩を返す義務がある。

 そして『彼女達』の心を一日でも早く明るくするためにもマーマロッテを手放しておくことはできないし、たぶん、耐えてはいけないことなんだ……



「あの、レシュア様の件ですが、私からもよろしくお願いします」

「レインから聞いていたのか?」

「いいえ。あの提案は私が考えたのです。『本人』とも話し合ってそのほうがあなた達のためになるかと思って……」

「ということは、過去にも誰かが同じ経験をしていて、今回も必ず成功すると言い切れるものなんだな?」

「はい。私とルウス様、そしてレイン様とヴェイン様も数え切れないほど経験しています。なので、レシュア様も問題なく送られます。そのための準備も『あの時』に終わらせておりますし……」


「なにもかも綿密に練られていたというわけか。とにかく、今夜じっくり考えさせてもらうから、回答は少し待ってくれ」

「私達やレシュア様ではなく、あなた自身の正直な気持ちを貫いて欲しいです。どちらを選んだとしても、あの子はきっと変わらない思いを持ってあなたのところに飛び込んでいくでしょうから」



 アザミが自室に戻った後も俺は一人で考え続けた。

 本当に必要なのは時間なのか、それとも、カタチなのか……



 どちらが正しい答えなのかを一晩で導き出すことはできない。

 でも、自分が求めているものはただ一つ。

 『彼女』が側にいてくれるなら、なにがあっても、きっと……



 そして俺は、誰かのためでもあり自分のためでもある重大な決断を、力強く輝いていた星々が消えた天空を前にして、固く誓うことができた。




 翌朝、レインのいる地下二階に下りて昨日の提案を受けることを伝える。

 すると彼女は、ならば会わせたい人がいると言って俺を地上二階に行かせた。


 前を歩く彼女は一度だけ振り向いて、仮面をつけていた頃のなにかよからぬことを考えているいやらしい顔をした。


 王女の間と呼ばれる部屋の扉を叩くように言われてそうすると、ほどなくして重厚な入り口が開いた。


「はじめまして。ステファナといいます。どうぞ、おあがりください」


 目の前に立っていたのは幼い頃のマーマロッテと姿かたちがそっくりな黒髪の少女だった。


 部屋の奥に通されて、足音の違和感に気づき後ろ振り返ってみる。

 するといつの間にかレインの姿は消えていて、扉は完全に閉じられていた。


「あなたがお姉ちゃんを守ってくれた方ですか。とてもお優しい顔立ちをされていますね」


 見た目からは想像もつかない話し方に気圧されそうになる。

 声だけを聞けばマーマロッテよりかなり年上の人に感じてしまうだろう。


「お話は母様から聞かせてもらいました。よろしいですよ。是非協力させてください」

「……あ、あの」

「なんでしょう」

「本当に、それでいいのか?」

「はい」

「だって、いつになるか分からないんだぞ」

「あれは趣味みたいなものですから。お姉ちゃんのことを思えば大したことはありません」


「嘘じゃ、ないんだな?」

「元気になってもらうまで、お渡しするだけです。しかるべき時が来たら返していただきます」


「……分かった。じゃあ、それまでは大切に預からせてもらうよ」

「お姉ちゃん、結構無茶をする人ですから、しっかり言っておいてくださいね」

「言っても聞かないのがあいつの悪いところだからな。まあ、その辺は俺がなんとかするら心配はいらない」


 ステファナが笑った。

 その顔も、とてもよく似ていた。

 まるで時間が逆行したかのような輝きが目の前でほころぶ。


「それでは早速、準備にかからせてもらいますので」


 俺の脇を抜けて扉に向かおうする彼女の手を、咄嗟に掴んでしまった。

 こちらを見上げる眼差しは、動揺する気配を全く見せていない。


「いつかまた礼を言いたいのだが、会えるか?」

「ええ。先ほども申しましたとおり、お伺いした際にお話ができるかと思います」

「そうじゃなくてさ、その、もっとあとのことだよ」

「でしたら、ご連絡ください。あなたは私の『家族』なのですから、必要とあればなんなりと」


「その言葉、なんかいいな」

「ただし、私が来てもお姉ちゃんと間違えて抱きつかないことをお約束していただくことが条件です。よろしいですか?」

「た、たぶん、大丈夫だ。あいつのことは誰よりもよく知っているから」


 ステファナがマーマロッテを思う時の顔は、子供の頃の記憶にはない深みのある笑みをしていた。じっと見つめていると、本当に間違えてしまいそうなほど吸い込まれそうになる。


「ちょっとだけ不安だったけど、実際に会ってみてほっとしたよ……」

「そう思ってくれると、とても励みになる」


「私にも、あなたのような人が見つかればいいな……」

「困ったらいつでも相談に乗る。……俺達は家族なんだから」


「それでおあいこ、だね」

「ああ、おあいこだ」


「……じゃ、またね。お兄ちゃん」

「ありがとう、ステファナ」




 小さな協力者と別れた俺は城の正門前に立って外の景色を眺めた。

 森の木々はすっかり枯れてしまい、物悲しい色を染めた大地がどこまでも広がっている。

 それは人の人生と同じように今を耐えている、しかし美しい景色だった。


「……雪が、降りそうな天気ね」


 戦いを終えた一人の女戦士が静かに語りかけてくる。

 彼女は城の人間に相応しい衣装を纏い、一人の大人の女性として立っていた。


「寒くなるだろうな、今年は」

「一緒に乗り越えていきましょうね」

「頼りにしてるぜ。元女王陛下」

「その言い方はよしてよ。今までどおり、レインでいいわ」


 綺麗に結ばれた彼女の髪は一纏めに持ち上がっていて、その特徴的な丸顔をこちらの視線に向けていた。


「新しい時代がはじまるんだな」

「この風景はどう変化していくのでしょうね」

「今ある自然がなくなっても俺達には永久に変わらない心がある。きっと大丈夫さ」


「帰るの? あそこに」

「あいつの居場所を作っておきたいんだ。今度こそ約束を果たしてやるために」

「未来を、よろしくね」

「ああ。任せておけ。そしてあんたの『願い』も、俺達の世界できっと叶えてみせる」


「メイル、あなた……」

「会いたいんだろ? 大切な人に」

「ええ。早く会いたいわ」


「信じ続ければ、必ず会えるさ」

「そうね。諦めてしまってはいけないわね」


 レインはじっと、遠い空の向こうを眺めていた。

 俺達には届かない『遥か先の明日』を思い描いているような、そんな切ない微笑が彼女の胸の内から溢れ出てきている。


「あいつを産んでくれて、心から感謝しているよ」

「私のほうこそ。あの子を守り続けてくれて、ありがとう」

「これからどうするんだ? 城に残るのか?」

「まだ決めかねているけれど、後任が出てくるまではそうしようと思っている」

「後任? マレイザ女王はどうしたんだ?」

「……城を出たわ。ルウスと二人でね」


「なんだか、込み入った事情がありそうだな」

「彼らには彼らの物語がある。だから、そっと見守ってあげましょう」


「みんなで作り上げていく世界、どうなるか楽しみだ」

「ところであなた、あの子にお別れの挨拶はしてきたの?」

「いや、していない。これは別れではないから、その必要はないよ」

「伝えておきたいことがあれば受けつけるけれど、なにかある?」

「そうだな……」



 俺はレインにとても『大切な伝言』を残した。

 この世界でたった一人しかいない人のために伝えられる、たった一つの思いをその言葉に込めて……



「それじゃ、よろしく頼むな」

「たまには様子を見に来るのよ。あの子、寂しがりやなんだから」

「頻繁に顔を見せに行くと調子に乗るだろうから、控えめに来させてもらうよ」

「あら、なんとまあお幸せな人達ですこと」

「茶化すなよ。恥ずかしいじゃないか」


「でもね、メイル」

「なんだよ」

「あなた達は、これからなのだからね」

「分かっている。そのためにここを出るんだ」


「……頑張ってね」

「……あんたもな。身体は大事にしろよ」

「……ええ」

「……それじゃあ、行くよ」

「……またね、メイル」

「……またな、レイン」



 俺達はその場で手を振って別れた。

 歩きはじめても彼女の声が耳に入ってくる。

 遠くなっても、小さくなって聞こえなくなるまで、彼女は叫び続けていた。



 でも俺は、後ろを振り向かない。



 前方に広がる道なき道の先に、愛する人と望んだ光の差す未来が待っていた。

 マーマロッテと共に歩む新しい世界が、その先にあることを信じていたから。



 俺は、あいつとみんなを照らし続ける大きな光になりたい。

 だから、もう二度と過去を振り返ったりはしない。



 笑顔の未来へと踏み出した長い旅が、今、はじまりを迎えた。

 無限の中から姿を見せた時の流れが、俺達を吸い寄せていく。



 空を見上げた。

 一面が灰色に染まっていた。



 冷たい風が頬を撫でては去っていく。

 冬はまだ、到来を告げたばかりだった。



「先に、帰ってるよ」



 俺は彼女の春がこの寒空の向こうにあることを信じて、明日への家路を急いだ。


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