異世界の狙撃手
キ七四
第一章 知らない世界
第零話 異世界と鬼
住宅街の静かな交差点を渡るとそこは異世界であった。
青信号を渡たろうと踏み出した時、確かに空は夜の闇で覆われていたはずのに、いま目の前に広がっている空は、どこかノスタルジーを感じさせるような赤紫色をしていた。
「どこ…だ…?」
まず、状況が分からなかった。いったいどうしたのだろうと。自分は感情の起伏が乏しい方ではないと思うが、この時ばかりは、慌てることさえもできず、ただ呆然と立ち尽くしてしまった。
そのまま30秒が過ぎようとしたとき、ようやく脳が息を吹き返したように思考を再開させた。
とは言ったものの、到底理解可能な状況でないため、とりあえず来た道を戻ることにした。
―道を間違ったんだよな。
センター試験と一カ月後に控え、学校でも、塾でも、勉強尽くしで少し疲れがたまっていたのだ。塾からの帰り、駅から自宅までたった二つ交差点を渡れば着く道のりを、精神的疲労から注意力が散漫となり間違ってしまったのだ。
そう、思うことにした。
だから、振り返って来た道を戻る。そうすれば家に帰れる。
なんて、振り返る前から、自分でもそんな簡単にいかないような気はしていたが、振り返ってしまったとき、あまりに現実離れしている風景をみて、ある意味、感動さえしてしまった。
振り返った先に見えるのは、テレビや映画で見たような古いヨーロッパの街並み。遠くの方に大きな風車がいくつも見える。そこはたぶん、平穏な時なら、それこそ夕焼けの空とあいまって人々をノスタルジーというか、センチメンタルな気分にさせていたであろう。
しかし、残念なことに、一目見てこの町に非常事態が起きていることを気づかされた。
黒い煙が、町のいたる所からもくもくと立ち上り、大きな通りには打ち壊された家の残骸、踏みつぶされた野菜、そして赤く染まった人間であったであろう物がそこら中に散乱していた。
意外と落ち着いてはいたが、どうしたものか。再びショート寸前になっていた脳に気合を入れ、必死に状況の解決を図ろうとした。
が、わからない。
いきなりこんな状況にあって、自分が本当は混乱しているのか、冷静でいるのかすらよくわからなかった。
だから、大きく深呼吸をした。12月の夜の空気とは到底思えない、湿気を含んだ初夏を思わせる空気で肺をいっぱいに膨らませ、口から一気に空気の塊を吐く。
―とりあえず、どこかに連絡を取ろう。
少しだけクリアになった思考でそれを思いついた。
学ランのポケットから、スマホを取り出し、警察か母親か、一瞬迷ったが、結局アドレス帳にある連絡先から「母さん」を選択した。
繋がらないのではないかと、悪い予感がしたが、幸い電話はすぐにつながった。
「…もしもし、えっと、母さん」
「…じゅん…どう…。…よ…きこえ…い。」
電波の状況が悪いのか、通話に雑音が混じる。
「その、実は、たぶん…道に迷って」
とにかく、おかしなことになったとを説明しようと思ったが、うまく言葉にならなかった。
「ちょ…、……たの?」
「いや、…家の近所に、オランダ村とかってあったかなって…」
「オランダ?」
風車が見えたからなんとなくオランダ村と言ったが、そもそもベッドタウンのど真ん中にそんなものあるわけがない。
テンパってる。
我ながらおかしなことを言っているなと思った時、正面に見える通りの向こう側から、大勢の人たちが出てきた。
一目見て外国の人だと思った。着ている服がなんとなく日本人っぽくなく、肌の色もだいぶ濃く見えた。とりあえず話を聞かないと、と思い近づこうと踏み出した。しかし、踏み出したのと同時に、奇妙な人と目があった。
いや、人ではなく鬼か。
身長は隣を俯いて歩いている人間達よりも頭一つ分以上大きく、ボロボロの服のいたる所から赤い肌が見えていている。そして何より、二本の角がある。遠目からでもはっきりわかるそれは、鬼を鬼たらしめる象徴であった。
しばらくの間だったか、もしくは一瞬だったかもしれないが、その鬼と見つめあっていた。
まあ、とりあえず逃げることにした。見るからにやばい。
「もしもーし、…てる?」
「悪い、またかける」
そう言って通話を切ると、耳に当てていたことをすっかり忘れていたスマホをポケットの中にねじ込むと、鬼たちが来た方から遠ざかるように走った。
背後から鬼のものと思われる怒声が聞こえる。走りながら振り向くと、さっきは気づかなかった緑色の肌の子供ぐらいの大きさの鬼が数匹、こちらに向かって猛ダッシュしてくるのが見えた。
―やばいっ。
肩に担いでいたバッグを投げ捨て全力疾走した。途中でポケットからスマホが零れ落ちてしまったが、拾っている暇はない。
部活を引退してからまともに運動してこなかったが、数か月のブランクを感じさせないほど速く走れたような気がする。
子鬼に追いつかれる気配は、今のところない。とは言っても、いつまでも走るわけにはいかない。
―いったんどこかに隠れよう。
土地勘なんて全くないが、このまま走り続けるのは無理だし、適当な脇道に入り、身を隠せる場所を探さなければ。
それが間違いだったということには、すぐに気づいた。
脇道に入った途端、腹部に強烈な衝撃が走る。。
「あぁ…がっ…」
声にならない悲鳴をあげて、その場にうずくまる。先回りされていたのか、それとも偶然か、正面にいた子鬼に短い棍棒のようなもので、ど突かれてしまった。
痛みが回復しないが、それでも何とか立ち上がろうと、生まれたの小鹿のように頑張っていると、正面にいた青色の子鬼に引き倒されて、後ろ手に縛りあげられた。何とか抵抗して、抜け出そうとしたが、あとから追いついてきた子鬼たちにさんざん殴られた挙句、無理やりさっき大鬼のところまで連行された。
まじかで見ると、大鬼は圧迫感がすごい。背も高いが、筋骨隆々で、人間の骨ぐらい片手で余裕でへし折れるんじゃないかと思えるほどだ。
その大鬼は、5秒ほど、なんだか不思議そうにじろじろと見てきたが、すぐに興味がなくなったのか、野太い声で子鬼に何か指示を出し、新たな獲物を哀れな人間達の隊列に加えさせた。
そこからが長かった。
実際には、一週間かかったかどうか、といったところだろうが、スマホは逃げているときにどこかに落として無くしてしまったし、去年の誕生日に母親からもらった腕時計は、子鬼との乱闘の際に壊れてしまっていたので、時間の確認のしようがなかった。
ともかく、あの町で鬼に捕まってから、丸一日歩かされ、海に出たと思ったら、ボロい帆船にすし詰めにされて三回寝たら、降ろされて、そこからさらに一日半歩かされた。その間、水分補給は泥沼の水と、鬼たちがたまに小さな樽から浴びせかけるくさい水だけだったし、食べ物は投げつけるように渡される硬くて味のない豆だけだった。
どこかで逃げ出せないものかと思いもしたが、そんな体力と気力がなくどうしよもなかった。
そうして、づるづると鬼達に引き摺られるようにして到着したのは、所謂採掘場というものだった。そこにはすでに大勢の人がいて、奴隷として働かされているようだった。連行されている間、このまま住処に連れていかれて、家畜にされて、最後には喰われるんじゃないかと戦々恐々としていたが、とりあえずは安心した。
しかし、日々の作業は重労働で、日が昇ると同時に鬼たちにたたき起こされて、一日分の食料として、水の入った小さな竹の水筒と、蒸したジャガイモのようなものを2個受け取り、日が沈むまで暑くじめじめした坑道で、岩を砕いたり、砕いた岩を運んだり、運んだ岩の中から黒い小さな結晶を探したり、文字通り奴隷のように働かされた。
来る日も来る日も、重労働をさせられすっかり参ってしまっていたが。それでもなんとか心が折れずにいられたのは、ワッズというらしい中学生ぐらいの見た目の少年のお陰だった。
鬼たちに捕まってすぐに気が付いたことだが、同じく奴隷として捕まった人たちには日本語が全く通用しなかった。拙い英語で話しかけても、これも、おそらく俺の英語力の問題ではなく、普通に相手が理解できていなかった。もちろん、相手が使っている言葉も文字も聞いたことも、見たこともないもので、お手上げ状態だった。
いきなり変な場所に迷い込んで、鬼に捕まって、さらには誰ともコミニケーションが取れないとなると、これはいよいよもう駄目だと、心が折れそうになった時、先に採掘場に連れてこられていた少年が話しかけてきた。
「ニホンゴ、ニホンゴ、コンニチワ」
「えっ、ああ、こんにちは…」
発音はおかしいが確かに日本語だった。どうやら、作業をしながらぶつぶつ言っていた独り言を聞いて、話しかけてきたらしい。
「えっと、君、日本語わかるの?」
「スコシ、シタ、ベキョ」
浅黒い肌に、ちりちりの天然パーマの彼の名前はワッズと言うらしい。青年とはまだまだ呼べない容姿で、どこか幼さが残っていた。
ワッズと話すようになって自分の置かれた状況が分かった。とは、いかなかったけれど、それでも、ある程度の情報は得られたし、何より心細さがいくらか和らいだ。
ワッズの話では、あの角の生えた連中は見た目通りで『鬼』と言うらしい。『鬼』っていうのはもちろん日本語での呼び名で、ワッズや他の奴隷の人たちの母語ではアマネサクと呼ばれている。まあ、『鬼』って言ってもいろいろ種類がいるらしくて、それぞれ呼び名があるみたいだったが、ワッズもそこまで詳しくはないようだった。
ともかく、ワッズにはいろんなことを聞いた。子供でも聞かないような当たり前ことばかり聞いた。だからか、いくつか年が離れているにもかかわらず、すっかり舐められてしまった感があった。でも、それでも知らなければいけないことが沢山あった。
ここはどこで、何年の何月で、『鬼』という連中は何者で、ワッズ達のことや、何故日本語が存在してているのか、とにかくわからないことだらけだから、何から何まで聞いて、自分なりに状況を理解しようとした。
さすがに、自分は異世界から来たので帰る方法が知りたい、とか、いくら本当のことだって言っても、そんなことを人に聞くのはあまりにもおかしいように思ったので、聞くことはなかった。
「それじゃ、俺があの町で捕まったのは『火の2月15日』ってわけか」
「ソウ、キット」
この世界では、いや、世界共通かはわからないが、『六大』という概念的な何かがあって、暦もそれに合わせて『水、火、風、山、雷、悪』の月がある。そして、それどれ、最初の30日間を1月、次の31日間を2月としているらしい。あと、40年に一度、悪の2月が無くなるらしいが、要は天体の周期と暦のズレの修正を行っているわけだから、実質的に元の世界との差はないようだ。
最も、元の世界では12月だったのに、こっちでは風の2月、季節的には現実世界における6月にあたる月だから完全にリンクしているわけではなさそうだった。
まあ、気候に関しては、土地によって大きく違うし、同じ12月だったとしても日本とオーストラリアでは真逆の季節になるから、なんのあてにもならないけれど。とにかく、採掘場では、まるで日本の梅雨の時期のように雨か曇りの日が多く、うっとうしいぐらいの湿度を感じさせていた。
「ジュンヤ、シンキョ、イキタイ?」
『シンキョ』と言うのは、出会ってからすぐにワッズが頻りに言っていた言葉だ。話を聞くにどこかの町の名前らしい。その、『シンキョ』と言うところには、『ジュガダン』という軍隊があって、ワッズはそこに入隊するのが夢だと言っていた。
「シンキョってとこでは、日本語が通じるんだよなぁ」
「ソウ、ジュガダン、ニホンゴ、ハナス」
認めざるを得ないが、というのも今更感があるが、俺が異世界にるということは、まぎれもない事実だ。しかし、横断歩道を渡っていただけの俺が、特別だということは考えづらい。とういことは、他にもこっちの世界に来ている人はいるはずだ。多分。
日本では、年に8万人ほどの行方不明者がいるとネットで見たことがある。その中の何人かはこの世界に来ていて、そうした人たちが『シンキョ』という町で暮らしているということならば、異世界でも日本語が通じる道理がある。
この世界に来ていきなり奴隷にされたが、ワッズとの出会いと他にも日本人がいるかもしれないということで、未来への希望が持てた。
とにかく、まずは鬼から逃げるため、脱走を考えた。しかし、先に脱走しようとして捕まった男が、顔が変形するぐらいボコボコにされて、次の日の朝、寝床の前にさらし首にされたのを見て、すっかり怖気づいてしまった。
それでも何か手段無いのかと、ワッズといろいろ話しあったが、そもそもここがどこなのか、ワッズもわからなかったし、ほかの大人たちも確かなことはわかっていなかった。しかし、ある程度の予想と言うか、噂話程度の情報はあった。
「大人の話では、クンネ・ポロモシリに連れてこられたんじゃないか、ってことなんだよな。」
「キット。、クンネ・ポロモシリ、アマネサク、シハイシタ、ムカシ、ズット」
クンネ・ポロモシリって言うのが、大きな島か大陸なのかはわからないが、そこは何百年も昔に鬼たちに奪われた土地らしい。ということは、ここから逃げ出してもそこら中、鬼たちの縄張りというわけだから、救いようがない。が、ひとつ良い情報があるとすれば、『シンキョ』がクンネ・ポロモシリにあるということだろう。
なんで鬼の縄張りに人間の町があるのか、ワッズの話からはよくわからなかった。けど、大きな軍隊を持っているんだから、クンネ・ポロモシリ最後の防衛線か、もしくは領土奪還の前線基地のようなものなんじゃないかと、理解した。
要は、脱走するなら『シンキョ』を目指せばいいということなのだ。だが、仮にここがクンネ・ポロモシリだとしても、『シンキョ』までどれぐらいの距離があるのかも分からない。
そんな風に、何もできないまま、ただ流されるまま何とか重労働をしていたが、次から次に奴隷の数が減っていっていた。理由としては、鬼たちに目をつけられた人間は、鞭打ちなどの暴行を受け、ひどいときには、そのまま殺されてしまう。特にガラの悪い、この採掘場を取り仕切っている黒い一本角の大鬼に目をつけられたら、ただ事じゃすまない。
とは言っても、鬼に直接殺されたのは、ここにきてから見た限りでも20人くらいだった。その2倍、いや、3倍の死者を出しているのが衰弱だ。
理由はいろいろと考えられるが、きつい重労働に加えて、栄養不足や、精神衰弱、病気などで気力体力ともに摩耗していき、いずれ命まで擦切らしてしまう。
鬼にアドバイスする気など、毛頭ないが、せっかくの労働力を無為に消耗するのは、いかがなものかと思う。薬を出せとまでは言わないが、せめてもっと多くの食料と水、休息を与えるべきだ。ここの責任者はとびっきりのアホだな、と、最近ではなんだかよくわからない苛立ちさえ感じていた。
その苛立ちの原因は、ワッズの状態も大いに関係していた。
ワッズは、出会ってしばらくの間はその若さのお陰か、誰よりも元気な印象があった。しかし、一週間前、作業中にあの黒い一本角の鬼に頭を殴打されてから、明らかに様子がおかしかった。
殴られた理由なんてわからない。作業が終わって寝床に帰る途中でいきなり後頭部を殴られた。黒の一本角はそのまま立ち去って、それ以上のことはなかった。ワッズはしばらくうずくまっていたが、その日のうちに元の元気を取り戻していた。
しかし、日が経つにつれワッズは明らかに身体に不調をきたしていた。もともと、無理して明るくふるまっていたのもあったのだろうが、一週間もたつころには1日中青白い顔をしていた。「ゲンキ」「ダイジョウブ」と、辛そうな笑顔で言うその姿は、とても、見ていられなかった。
本当なら、すぐにでも休ませてやりたいが、鬼たちは働けなくなった者を容赦なく殺す。まともに作業ができなくなったワッズを、鬼たちに目をつけられないよう必死に庇いながら、作業をしなければならなかった。
最初の2・3日は何とかなった、しかしこんなことをもう何度も続ければ、体がもたない。と思っていると、次の日は、周りの大人も積極的に手助けしてくれた。みんな自分のことだけでも精一杯だろうに、協力してくれた。そのことだけで、なんだか救われた気持ちになったし、まだまだ頑張れると思った。
しかし、その頑張りも10日と経たずに終わりを迎えた。
ワッズが、今朝、起きた時には、冷たくなっていた。
周りの大人たちの中には、すすり泣く者、静かに涙を流している者がいたが、俺は不思議と涙は出なかった。
確かに、考えてみれば、ワッズとは出会って3カ月ぐらいの付き合いだった。
でも、だからこそなのか、こうもあっさり死んでしまったことを、今一つ受け入れられていないのかもしれない。どんな短い付き合いだったとしても、彼の存在は決して、感情を押し殺して、耐えることのできようなものではなかったはずだ。
俺はワッズの遺体を、採掘場か少し来たの森に進んだ窪地まで連れていった。その窪地には奴隷として連れてこられて、命を落とした人たちの亡骸がいくつも埋められている。鬼たちも基本的には、死体を近くに置いておきたくないのか、死者がでると、2~3人の奴隷に死体を運ばせ、ここに埋めさせた。
30分かけて人一人が十分入れるだけの穴を掘ると、そこにワッズを寝かせた。そしてワッズの首にかかっていた、木の小さな彫刻で出来たペンダントを外し自分の首にかけた。
「ワッズ、約束したもんな。シンキョに一緒に行くって。…必ず、必ず俺が連れて行くから。」
そう、静かに告げると、ワッズを埋めるよう急かしてくる、金切り声の子鬼を蹴り飛ばしたい衝動を抑えつつ、ゆっくりと土をかけた。
ワッズが死んで腹は決まった。
俺はここを脱走し『シンキョ』に向かう。
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