FILLER
桐野アオ
なんて優雅な1日の始まり
1、2、3、4、5、6。6枚。総じて6万円。
指先で乾いた札を弾く。悪くない。口角が痛いほどに上がってしまいそうになるのを堪えた私はあぐらをかいていた足を正して、もう一度枚数を数え直した。金額に間違いがないと分かれば、早くも用済みとなった財布をシーツの上に投げ捨ててしまった。ベッドサイドの沈んだ明かりのもとでは有名なブランドのロゴさえも褪せて安っぽく見えたが、最悪なセンスの割に中身は潤っていた。
咥えていた煙草を離して、灰をベッド下に落とせば短い悲鳴が上がる。大袈裟な奴だと鼻で嘲笑う。自分より年下の女に縛られて転がされているなんて、恥ずかしいとか情けないとかないのだろうか。
耳を澄まさなくても聞こえてくる震え混じりの息遣いが耳障りだ。いらいらして、靴裏で男の後頭部を軽く押さえつけて黙らせた。これではまるで虎の毛皮を被った小型犬だ。図体だけはご立派な男だったから小型犬ほど可愛くもないが、こんな貧弱な者どもがどうしてこの地区で畏敬の目で見られているのか理解できない。
さて、用は済んだ。
厄介な事が起こる前に部屋を出よう。
ベッドから脚を降ろす。もう一度財布を拾って口を開けたが、邪魔になるだけでたいした額にもならない小銭は置いていくことにした。床に転がる他の財布と一緒に、片手に持っていた財布を放り捨てる。
今回の戦利品は30万円弱の現金。寂れたホテルに運ばれてから、私が返り討ちにした相手からぶん取った金だった。人数が少ないから金額の小規模さには諦めがつく。とはいえ、ひとりくらいはクレジットカードくらい持ち歩いてくれれば良かったのに。リスクのわりに釣り合っていない。
ふと視線に顔を向けたら、自分で用意していたらしいビニール紐に胴を巻かれている男が、潤んだ目で顔を上げていた。そんな顔をされても、こっちだって生活がかかっているんだから仕方ない。金は命だ。生活を潤わせて、安心に導いてくれる。金が多くて困ることはない。全員の財布を空にしたのも、金に対しては絶対に妥協しないというマイルールに従ったまでだ。
そのとき、ごく自然に、男の視線が私の目から顎を伝い落ちた。私は自分が下着を堂々と曝け出していたことに気付いたが、今更恥ずかしいと感じる心は欠片もなくて、それよりもこの状況におかされてもなお己の欲に忠実な男にあきれてしまった。ため息を吐いて、床に投げ出されていたブラウスに袖を通す。
「じゃあ、おつかれ」
まだ何か言いたそうに眉尻を垂らしている男をまたいで、ベッドから離れた。
刈り取られた雑草のように床で折り重なって倒れている男たちを避けて、部屋のドアへと向かった。いちいち人を避ける動作が面倒くさくて、足を上げたり跨いだりするたびに舌打ちが溢れていた。踏み付けても良かったけれど、うっかり足を滑らせたくもなかった。あと、極力触りたくない。
手で握り締めていた札を、自分の小さな鞄へ雑に押し込んで、腕時計に視線を移す。
早朝だ。昨晩から何も食べていないことを思い出したら空腹感が胃を締めてきた。遅い夕食はどこで済まそうか。遅すぎて夕食というよりは早すぎる朝食になってしまうけれど。とりあえず今は疲れたから、甘いものを無限に食べたい気分でもあった。
「ケーキとか。かなあ」
「悪魔が」
仕事の達成感に立ち尽くしていたら、余韻を打ち砕くように言葉が吐かれた。
目を見開いて振り返れば、バスルームのドアに寄りかかってへたりこんでいた男が、苦々しげな笑みをたずさえていた。卑しい目を細めて、湧き上がる笑いを喉奥で殺している気配がする。小刻みに肩を震わせていた。そんな態度とは不釣り合いに、男のこめかみからは薄い色の血が流れている。私が隠し持っていた剃刀の切れ味を表していた。剃刀メーカーのCMにでも出演すれば、私が奪った額以上の金はそこそこ貰えるんじゃないのか。もしも男の顔が今よりも数倍良かったらの話だけど。
「ハデにやりやがって。次会ったらその顔面の皮膚引き剥がしてやる」
その顔面で、この台詞。安い脅し文句に興醒めだ。口を半開きにしていたらあくびが出た。頰を叩いて眠気を払った私は、頭を緩やかに傾ける。煽りのつもりだった。ついでに言えば、この絶妙に狙った角度は、自分の顔が最も良く映える角度だと心得ていた。自撮りをアホみたいに繰り返して満足していた日々の成果だった。
「なに? 悪魔?」
男の目線が返事するように下へと落ちたので、素直に自分の足元を見下ろした。確かに、私が履いているパンプスは黒い。だが、これだけで悪魔と思い付いたのなら想像力があまりにも乏しい。
「これで悪魔? 天使でよくない?」
「どこがだよ。魔女だ。この疫病神。聞いてた通りロクな女じゃない」
「疫病神? 神なの? 魔女なの?」
「『人でなし』だよ」
なるほどと呟いて、薄汚れた男から一歩だけ身を引く。お好きなものをどうぞ、と言われているようだった。しかし気分は悪い。
さてどうしてやろうか。
咥えていた煙草の煙を、真下でうずくまっている男に向かって吐きかけてしばし頭を巡らせる。煙が照明と絡んで、視界に一瞬だけ霞がかかる。そこで思いついた。チェリーブラウンカラーに染めた自分の髪を軽く引っ張りながら、男に歩み寄る。
短くなった煙草を口から抜き取って、その先端に灯るオレンジ色を眺めていた。
「金に困ってんなら雇ってやったのに。娼婦なんてデタラメじゃなくて、最初から素直に言えばいいだろ」
ショウフという言葉につられて顔を上げる。男が切れた唇を蠢かして言ったとき、彼は戸惑いの混ざったような薄笑いを浮かべていた。
この、上から捩じ伏せてくるような圧が入った態度はもちろん。今の発言も、表情をひっくるめて気に食わなかった。そもそも、自らのだらしのない欲望を『そういう職業』の奴らに受け止めてもらっているくせに偉ぶるのは恥ずかしくないのか。
金に困っている私に似た奴らは、私のように力でナントカする手段が取れなければ『そう』するしか稼ぎどころがない。しかし立派な職業であることはたしかで、見くびられる覚えはない。
「なあ、俺らのグループに入れば、こんなことしなくても面倒くらいはみてやるよ」
「ムリ。その態度もムリ。他にもあるけど」
「はあ?」
「私ひとりにここまでされるような組織に入りたいなんて思うわけないじゃん。あんたらに身を任せるとか、家のドアと窓全開にして素っ裸で寝るのと同じくらい危ないってことが分かったことだし、なおさらね」
「このクソ女が」
「魔女じゃなかったの?」
男の脚を跨いで、彼の正面となる場所で屈んだ。彼の、汗と血で気持ち悪く濡れたシャツを引っ張って、無理矢理開けさせた襟元の隙間を覗き込む。貧相な身体が薄暗い部屋の中でもよく見えた。嬉しくもないサービスショットにシラける。鼻で笑った私は、持っていた煙草をその隙間へ放り込んだ。体を跳ねさせて呻き声をあげていた。先ほどまでの余裕綽々とした態度から一変して騒々しい。
煙草は吸い込まれるようにして、男の服の中へ潜り込んだけれど、やっておいてあまり面白みを感じなかった。どこか冷めた自分に気づいてから、無理に上げていた口角に気づかされて、無愛想な顔で背を向けた。
必死に胸を掻きむしっている男を置いて部屋から出る。
悲鳴は何も興奮させない。ただ、うるさいだけだった。
私ではなく、野郎が部屋で騒ぎすぎたせいで、ホテルの従業員に不審な目を向けられるかもしれない。それだけが気掛かりだった。
あくまでも自然体で、周囲の視線を気にしないように。指先から足先まで、自分の振る舞いに気を付けながら、通り抜ける風のようにさりげなくホテルを抜け出すつもりだった
残念ながら、ドアを開けて部屋を出た瞬間に、そのプランは崩れ去ってしまった。
廊下の壁際に、制服の上から背中を引き裂かれた従業員が倒れていた。向かいの壁には塗料をぶちまけたような濃厚な赤が痕を引いていて、スプラッター映画の撮影現場にでも踏み込んでしまったような酷い惨状が私を迎えていた。現実で目にするそれは品がなかった。
腰が引けて、思わずドアに背を付けて自分の体を抱きしめてしまう。廊下の端まで目を凝らすと、他にも倒れている従業員がいた。3人だ。それが揃って、背中やうなじあたりにナイフの刃先が潜り込んでいた。いい加減な調子で釘を刺したような仕業に見えてくる。
しかし、私の部屋の前の従業員だけ、別の人間が殺したような惨たらしさがあった。ナイフが刺さっているとかじゃなくて、背中が魚のように切り開かれていた。実はジッパーがあって、誤って開けてしまった、みたいな。不謹慎だけど、そんなイメージが頭を過ぎった。
壁に付いた赤い手形が生々しくて、気付けば鳥肌を立てて見入っている自分がいた。
「……、」
おろおろと目を伏せて、心を落ち着かせた。品がないなあ、なんてしきりに評論家のような感想を抱いてみる。その時、隣の客室のドアが開いた。
唐突すぎて短く息を飲んだ私はその場で動けなくなった。せり上がった悲鳴は、無理矢理飲み込んだ。そこまで驚くことでもなかったが、出てきた男の腕や服が血に濡れていたのを見て、その場に崩れ落ちそうになった。腰をわずかに落とした私は、ドアレバーに背中を押し付ける。そんな格好で、男を横目で眺めた。彼の体、もしくは辺りから漂うこってりとした血生臭さに胸がつかえそうになる。
男視線が交わったのはその時だ。先ほどの、自分よりもはるかに落ち着いた色の眼差しが、私と、その足元で転がっている従業員の死体をなぞる。それから見る間に男の顔は青ざめていくと。
「——う、あ! 僕じゃないです! 僕じゃ、違いますからね!」
と言って、さっと両手を挙げた。別に私は銃を向けているわけでもなくて、男を疑っているわけでもないのに。こっちが恐縮してしまいたくなるくらい、顔を悲しそうに歪めた。
でも、私の目の前で手のひらを開いた瞬間、男の両手からは音を立てて落とされるものがあった。柄の部分まで血塗れの刃物。それも2本。片手に1本ずつ持っていたのか? 呆然としてしまって、うまく頭が回らない。場を繋ぐように、男と刃物を交互に見返した。
「僕じゃないんです……信じてくれませんか?」
状況から考えれば無理な話だ、しかし。
「…………ケーキとか、そういうの奢ってくれるんなら、……信じてあげるよ?」
お得意の営業スマイルで、男に向かって可愛らしく首を傾げてみせた。即席でチープな愛想を精一杯振りまいて、一時凌ぎのつもりで『敵じゃない』とアピールすることにした。ついでにタダで飯を食らうチャンスを伺っていた。自分を含めてここには歪んだ人しかいないなと頭を抱えたくなる。そんな朝だった。
FILLER 桐野アオ @kirino_ao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。FILLERの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます