新聞投稿欄・水曜日は未成年の声

野口歩

私の将来の夢

 私は自分の名前が嫌いです。


 こんなことを言うと、周りの大人は、いや友達だって「親が一生懸命考えてつけたくれた名前なのだからそんなことを言うもんじゃない」と言うけれど、親の一生懸命なんか、子供には関係ない。それに「一生懸命」という点でさらにがっかりするではないか。余計に悲しくなります。だって、うちの親は一生懸命考えてこの程度、おつむのほどが分かってしまう。それでも本人たちが自分の馬鹿を背負うのなら、私だって文句は言わない。時々、恥ずかしい親だなあと思うくらいだが、本人たちがそれで幸せなら私だって差し出がましいことは言わない。


 問題は、私が割を食っているということ、彼らとは別人格の私が彼らの馬鹿を背負って苦労しなければならぬ。こんなに理不尽な話はない。理不尽といえば、世間もそうだ。名前は本人ではなく親がつけるものという当たり前のことをどうして世の大人たちはすぐに忘れてしまうのか。健忘症ではあるまいか。それとも、世の大人たちは私が期待しているほど賢くないのか。彼らは私の名前を見て、プロフィールを見て笑うのだ。私はその度に、顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちになる。そして絶望的な気持ちになる。そのうち友達も、知恵をつけた彼らも私のことを笑うようになるからだ。


 両親は私の気持ちをちっとも理解してくれない。

 「弥生」なんて名前をつけたら、どのクラスに入っても同じ名前の子がいたよと言う。私はありきたりでちっともかまわなかったのに、彼らはありきたりは嫌だという。本人がよいと言っているのだから、嫌もなにもなかろうに。そんなことを言う彼らはやっぱり頭が悪いのだと思う。頭が悪いくせに、人と違うことをしたがる理由が私には分からない。馬鹿を露呈しているだけだということに気付かず、「個性的だ」と鼻高々の両親が残念でたまらない。自覚のない馬鹿ほど迷惑なものはないのだ。馬鹿なんだから馬鹿なりに、ありきたりでも、人と同じでも、間違いのないものを選んでほしかった。それとも馬鹿だから、娘の一生がかかっているということにすら気付かなかったのだろうか。

「弥生がだめなら、桜は?桃子は?」と私がいうと、「花は散るからだめだ」という。それに花の名前は「花を売る、春を売る」を連想するから女の子につけるもんじゃない、と。


 花の名前がだめだと母に教えたのは母の父親、私にとっては祖父だ。彼には名付けには一家言ある。曰く、名前は記号、識別番号と同じである、だから、

・読み方がわからない

・性別がわからない

 このような名前はだめだという。名前の用をなしていないから。私もその通りだと思う。祖父は賢い人だったから、名前の役割をきちんと両親に教えてくれたのだ。そのくせ祖父は自分の娘は「佳子」という名前にした。だが、これも祖父はいつも一歩も二歩も先を考えている証拠だ。祖父は、娘が大学生になったとき、「けいこさんは」と言ってかけてきた馬鹿な男どもからの電話をことごとく切ったという。門前払いなのだ、「佳子」を「けいこ」と読むような教養のない男は。私の両親とは、頭の出来が違う。どうして母はあんなに賢い父親を持って、あんなに頭が悪いのだろう。

 さらに、祖父は「明美」と「緑」は絶対につけてはだめだと言っていたらしい。このあたりは、お気に入りの「明美ちゃん」や「緑ちゃん」がいたからだと睨んでいるが、確かめる術はない。祖父はもう鬼籍に入っているし、祖母は私の大切な資金源です。


 娘の目からみても、私の母は明らかなファザコンです。だからというわけではないのかもしれないけど、父方の祖父を、口では「お父さま」なんて言っていたけど、心の中では馬鹿にしていた。それが私には手にとるようにわかる。

 母が馬鹿にしているのはおじいちゃんだけでない。田舎者で、農家というほどの田畑もなく(だけど、これは母にとってはむしろありがたかった)、百姓家の父の実家を母は腹の中で笑っている。

 母は同じように、おじいちゃんの名前も馬鹿にしている。

 私の父方の祖父は「五美」といいます。名前は「かずみ」、「五」は普通、「かず」とは読まないけれど、おじいちゃんは「五美」と書いて「かずみ」。おじいちゃんの名前はひいおじいちゃんの勘違いか無教養かで、「五」を「かず」と読ませてしまったのだろうと母親は考えているのだ。

 だけど、それはまったくもって違います。

 私は墓掃除に行ったときに気付きました。おじいちゃんには夭折した兄がいたのです。兄の名前は「一郎」だった。墓石によると、おじいちゃんのお兄ちゃんは三歳で他界した。病気だったのか、事故だったのか、昔のことだから、小さいうちに死んでしまう子は多かったのだろう。だから、ひいおじいちゃんはおじいちゃんに「五美」とつけたのだ。女の子の名前にして、男の子をさらおうとする神様の目を欺く。「五」としたのは上に三人の姉がいたから、でも男の子はおじいちゃん一人で、家の跡継だから読みは「かず」にした。

 普通でない読み方の名前だと、わずらわしいことももちろんあります。

 未だにNTTも電気も水道も新聞も、おじいちゃんの名義になっていたりいなかったりする我が家(こんなところも私の両親はいい加減なのです)では、NTTや電力会社に電話をかけると推理合戦です。まず契約人の名義で二択、父親なのかおじいちゃんなのかで悩みます。父の名前を告げると、オペレーターのお姉さんが「違います」と言います。チャンスはあと一回。三回間違えると、「おかけ直しください」と切られてしまいます。なので、ここからは慎重に。おじいちゃん名義だけど、さてさて「かずみ」で登録されているのか「いつみ」なのか。おそるおそる「かずみ……ですか」

「いえ、違います」

「あっ、待って待って、切らないで。数字の五と美しいでかずみと読むんです」

 今までで一番驚いたのは、「ごみ」と登録されていたこと。人の名前を何だと思っているのだろうか。

 母方の祖父が言う「読み方が分からない名前はだめだ」は、たしかにその通りだ。でも、おじいちゃんのそのまたお父ちゃんが練りに練った名前だから、私はおじいちゃんがとてもうらやましい。


 親だから、我が子の名前だから、名前一つつけるのも悩むのだろう。犬猫のようにはつけられない。

 従妹(佳子の娘だ)が生まれたときには、「ひかる」とつけようとして祖父の「待った」がかかった。「ひかる」では男か女か分からんというのが理由。では、「のぞみ」はどうだ、と叔母が言うと、「新幹線でもあるまいし」と言って却下。「さくら」は花の名前だからだめ、「つばさ」も以下上と同じ、結局私と六つ離れた従妹の名前「みずほ」に決まった。まさか、数年後、同じ名前の新幹線が登場するとは。さすがの祖父もそこまでは予想できなかった。


 その点、私の兄の名前は間違いがない。今のところ、けちもついていない。

 姓が三文字だから、名前は一文字の方がよかろう、書いたときの見栄えがよいし、試験のときのハンデにもならない。名前は一生ついて回るものだし、人生には試験が幾度もあるし、跡継ぎの兄はそれらの試験をことごとくパスしてもらわなければならない。我々がつける名前が大切な跡継ぎの足を引っ張るようなことは断じてしてはならないと、それはもう両親おじいちゃんおばあちゃんそろって、真剣に検討したそうだ。母方の祖父母にとっても兄は初孫、途中から彼らも加わって侃々諤々の議論が繰り広げられたらしい。その結果、決まった兄の名前は「広」、この一文字を決めるまでに、なぜ二週間もかかるのかは分からないが、たしかに間違いのない名前である。さすが、大の大人六人、膝をつき合わせて話し合っただけのことはある。

 それに引き換え、下の子で年子でしかも女の私の名前、四人の祖父母もさして興味がなかった。


 子供にとって、難しい顔をして大人たちが真剣に話し合っている光景を見るのは新鮮だ。だから、従妹の名前が決まった後、私の名付けのときのことを母に訊いてみた。私の名前をつけるときも、皆で話し合ったの?と。このとき、私はまだ自分が背負った十字架の重さを知らなかったから、無邪気なものだった。

 まず候補に挙がったのが「美雪」だった。産まれたときの私は、それはそれは雪のように白い赤ちゃんだったし、それに、私が産まれた日はその冬最後の雪が降っていたそうだ。私が住む地域では、季節外れの雪だった。だが、祖父は「雪は消えるからだめだ、早死にしたらどうする」と言って却下した。この後、この赤ちゃんに恥ずかしさのあまり、本人が消えてしまいたくなるような名前がつけられるとは、祖父も想像だにしなかったのだろう。 

 では母が「聡美は?」というと、「聡くて美しいなんて、そりゃ望みすぎだ」という。この祖父の一言で私の母親はへそを曲げた。このときに限って、日頃のファザコンはなりをひそめた。私は自分の不運を呪わずにはいられない。その後、祖父に相談なしに、夫婦二人で私の名前をつけたというのだから、母親の怒りは相当のものだったのだろう。だけど、親戚が皆集まって、赤ちゃんの名前をあれこれ考える光景を見た後だったから、夫婦二人でつけたという母の話に私は少しがっかりした。

 その私のがっかりを察知したのだろう、母親はこう付け加える。

「あんたの名前はママとパパ、二人でつけたけど、名付けの本や姓名判断の本を全部読んでつけた名前なんじゃけえ、手抜きなんてことはないんだよ」

 たしかに我が家の本棚には、いまだに名付けや姓名判断の本が何冊もある。てっきり兄のときに買ったものだと思っていたが、私の名付けのときに買ったものらしい。それはそれでありがたいけれど、彼らに必要だったのは名付けの本ではなく、辞書だった。「聡くて美しい」が望みすぎだという祖父の言葉は正しかったのだ。


 私は声を大にして訴えたい。だから、二番目は嫌なのだ、と。地団太もつけてやる。同じ末っ子なら、上と二つ三つ離れたかった。年子なんてあんまりだ。ここでも私は愚かな親のせいで、割を食っている。無計画にもほどがある。


 最近はキラキラネームやDQNネームが流行で、私の友達にも「月」とかいて「ルナ」と読む子がいるし、「緑夢」で「グリム」だの「七音」で「ドレミ」だの、しまいには「騎士」と書いて「ナイト」だの、生まれる国も時代も間違えたとしか思えない名前の子もいる。クラス替えの名簿を見ても、何と読むのか分からない名前ばかりで苦笑してしまうほどだ。祖父の薫陶を受けた両親なんかは、DQNネームを頭から馬鹿にしているが、DQNネームの確信犯の珍妙な名前はユーモアだ。本人は苦労するかもしれないが、親が一生懸命考えてつけた名前なのだから、堂々と胸を張ればいい。「月」で「ルナ」だって、「騎士」で「ナイト」だって、何一つ間違えていない。


 キラキラネームもDQNネームも、それが世間の流行りなら、素直に乗っかればよい。

 常識がないのなら、常識も教養もある祖父の言う通りにするべきだ。ない頭をこねくり回すくらいなら、何万人といる弥生ちゃんの親と同じように、我が子にも「弥生」とつければよかった。頭が悪いくせに、人と違うことをしようとする。人と違うことをして、それがセンスだと喜んでいる。「流行りに乗っかってキラキラネームやDQNネームをつけたりしないぞ」と周りを見下して、「今時、こんな古風な名前をつけるなんて、僕たちも変わり者の夫婦だね」なんて夫婦で悦に入って……本当に馬鹿じゃなかろうか。自分たちと同じことをする人がいないのは、自分たちが間違っているからなんて、思いもしない。

 馬鹿ほど「変わり者」だの「個性的だの」と言われて喜ぶのだ。人並にできない人を、オブラートに包むとき、「変わり者・個性的」と言うことに気付いていない。

 名付けだの画数だの姓名判断だの、そんなものを調べる前にどうして、一度辞書をひいてくれなかったのか。そう思って本棚を見ると、広辞苑はおろか、国語辞典さえなかった。

 このとき、私は自分の親は馬鹿なのだと確信しました。


 周りの大人は、自分の親に向かって馬鹿だなんて、そんなことを言うもんじゃないというけれど、あいつらに馬鹿な親に振り回される子供の気持ちが分かるものか。誰も私の気持ちは分からない。自分は賢い、他人とは違うのだと思い込んでいる馬鹿ほど迷惑でおそろしいものはない。そのおそろしさを知らない奴らの言うことなんて、私は屁とも思わない。


 私は自分の名前が嫌いです。


 両親が一生懸命考えてつけた名前であろうと、好きになることはありません。自分の名前を口にするとき、書くとき、呼ばれるとき「馬鹿」のプレートを胸からぶら下げて歩いている気分です。それもこれも全部、馬鹿な親のせいです。自分の馬鹿や愚かなこと、それによって受ける不利益や代償は自分達で背負うべきなのだ。馬鹿親の子だからといって、名づけに全く関与していない私が馬鹿呼ばわりされなければならない。子供は親を選べない。「馬鹿だ」と指さされて笑われるべきなのは私ではなく、あの二人だ。だから私は大人になったら、改名します。


 自分の名前を変えること、それが私の将来の夢です。


(西第二小学校6年生 三田村小春)

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