弟として産まれた時点ですでに負け組でした
紀堂紗葉
三人の姉
『あまーいチョコ』
『ポテチ的なやつ』
『梅干し』
これらは、おれがさっき夕食の買い出しに出ようとしたとき、まるでサンドバックを殴るように胸に押しつけられた、もとい、殴りつけられた一枚の広告の裏紙に書いてあったものである。いつものことだが、あいつらははっきりと品名を書かない。頼むだけ頼んでおいて俺にそれっぽいものを自由に買わせて、もしそれが不味かったらおれのせいにして罵声を浴びせるというお菓子を食べながらのストレス発散を目論んでいるのだ。 たとえ買ってきて文句を言われたことのない代物を次の時に買ったとしても、「違うのが食べてみたかった」とか「今日はこの気分じゃない」とか、その時の感情に任せて心的配慮のかけらもないセリフを平然と吐いてくる。たまったものではない。
押しつけられているのはお菓子の買い出しだけでは、もちろんない。夕食の買い出しだって好きで来ているわけではない。料理という家事の中でも主役級の仕事を押しつけられているから仕方なくやっているだけだ。その他にも、部屋の掃除、洗濯など、あいつらは何から何まで自分ではやらないのだ。下にやらせれば良いという上下関係の基本的理念を遺憾なく行使してくる。あいつらはいつもそうだ。うちの三姉妹は……。
これまでの経験から、これなら間違いない、文句の一つも出ないであろうお菓子等を買った。『あまーいチョコ』は、甘さに甘さを重ねたようなホワイトチョコ。『ポテチ的なやつ』は、あくまで「的」なので、それはつまり、ポテチを望んでいるわけではないというところに気がつかなければ罵声を浴びるのは決定的だ。罵声で済めばいいが、そこから罰ゲームとかペナルティとして蓄積していくのはなんとしても避けたい。何をさせられるかわかったものではない。あいつらの年相応の好奇心は天井知らずなのだから。結局、類似品の少し芋が固めのやつを買った。『梅干し』は、はちみつ入りのもので確定で問題ない。もう何回もこれを買ってきて好評をいただいている。
これまでの内容からわかるとおり、おれは三人の姉から毎日こき使われている。両親は職業柄家にいることが少なく、子供達だけで家事を行うことが当たり前になっている。もちろん、おつかいと夕飯の買い出しだけがそれにあたるわけではない。あいつらは基本、なにもしない。これから家に帰ったらすぐ夕飯の準備をしなければならない。風呂掃除はすでに終わっている。たぶん、誰かがすでに入っているだろう。その後、夕飯の片付けをして、洗濯機をまわし、外に干す。陽が沈もうがそんなのは関係ない。気にしている時間がない。部屋に干すよりは乾きやすいはずだ。すでに乾いている服はアイロンがけし(基本的に全部)、たたんでそれぞれの簞笥にしまう。またその仕舞い方も三者三様で、下着を積み上げるパターンだったり、色分けしたりと注文がなにかと多いのだ。虹色に並べられた時は気持ちがいいと思ってしまっている自分の心には、気づかないふりをしている。自分の勉強だってろくにできないこの状況に、あいつらの世話で自分の人生が終わっていく気がしてならない。
なぜ、産まれた時間が違うというだけで、その後の人生の待遇がこんなにも違うのだろうか。重要なのは序列ではなく、個人の尊重だ。個人が個人として生きていける、個性を制限されることなく発揮できるという倫理観こそが、この社会をより良くしていくのではないか。立場上の力関係で能力があるものが埋もれていては、宝の持ち腐れと言わざるを得ない。おれのように上下関係に思ったように生きられない人は大勢いるはずだ。今日こそ、そんな現状を打破すべく、産まれたときからおれを縛り付けている三重の鎖を断ち切って見せる!
おれは断固とした決意を持って、玄関の鍵を開けた。
ドアを開けるや否や、その隙間からすっと腕が伸びてきた。
「うわっ」
びっくりして少し後ろによろけてしまった。出てきた手をみると、まるで何かをわしづかみするようにわしゃわしゃと握ったり閉じたりを繰り返している。
「はやく」
「え、なにが?」
わけがわからず、どうしていいのか立ち止まっていると、苛立ちを含んだ声が聞こえた。
「お菓子に決まってんでしょ、お菓子!」
この甲高く勢いづいた声を発しているのは、三女の結奈(ゆな)である。三姉妹の仲では最も歳が近い。歳が近いというだけでは、情報不足かもしれないから補足するが、誕生日が全く同じ、双子の姉である。たった五分早くこの世に生を受けただけでおれはパシリとして使われる人生となってしまった。自分が不憫でならない。
「おまえ、もしかしてずっとここで待ってたのか?」
「そんなわけないでしょ、ばか!」
結奈を「おまえ」と呼ぶのは、おれのちょっとした運命への抵抗、抗議、さらに言えば挑戦である。ただ、他の姉にはそうは呼ばない。
「ちょっと」
突然ぐいっとドアの方に引き寄せられた。いつのまにか結奈の手はおれの胸ぐらを掴んでいた。結奈が鋭い目つきでドアの隙間から睨んでいる。左手にはバニラのアイスバーを持っており、時折しゃぶっている。満足にドアを開いてもらえず、蛇に睨まれた蛙のような状態にあるおれは、結奈のしゃぶり終わり待ちである。
「なにそこでつったってんのよ。さっさと私のお菓子渡しなさいよ! アイスが溶けちゃうでしょ!」
受け取るのはアイスを食べ終わってからでいいのでは? おれが家の中に入ってからでいいのでは? と言い返すのは火に油だということは重々わかっている。
「はいはい、買ってきまし……」
そうい言いながらお望みのポテチ的なヤツを袋から取り出すと、言い終わる前にはもうすでにおれの手中にはなかった。中身が粉々に割れていてもおかしくないようなつかみ方でおれの手からもぎ取ると、すぐさま階段をのぼり、自分の部屋へと戻っていった。それと同時に玄関のドアが閉まったことは言うまでもない。
いいのか……? これでいいのか……? ここは盛大に怒るべきなんじゃないのか? 閉められたドアの前で立ち尽くしながら自問自答する。
自分と同じ歳、同じ日、同じ時間に産まれ、たかがこの世の空気を吸ったのが分単位の違いというだけなのに、それだけの差で姉と弟という立場の違いを与えられ、このザマである。それだけの差が、今これだけの差になり、今後、どこまで差が広がるのか計りしれない。
将来への不安を抱えながら、リビングに入った。
「ただいま」
「遅い、奏陽(そうひ)」
不機嫌そうな顔でリビングとつながっている台所にある食卓テーブルに座っているのは、次女の沙紀(さき)である。一つ年上の高校三年生である。毛先の整ったつややかな黒髪が顔の輪郭を包み込むようにセットされており、持ち前の白い肌を際立たせている。その整った顔で不機嫌そうにされるとかなり威圧感がある。しかしながら、態度が不機嫌感を漂わせていないところが沙紀の良いところで、背筋をしっかり伸ばしており、姿勢がとてもよい。沙紀も結奈と同様で、求めているものはおれが買ってきたものである。まるで今か今かとエサが来るのを待っている雛鳥を連想させられるほど期待に満ちているような美しい座りずまいである。沙紀のことだから、買い物に出てから帰ってくるまでずっとこの状態だったんだろうなということは察しがつく。
そういえば、今更ながら、おれの名前は奏陽だ。
「梅干し」
怒るでもなく、笑うでもない完全無表情で無駄なく欲する物のワードだけを淡々と発する沙紀。結奈も言葉短かったが、あいつの場合は、単にめんどくさがっているだけ。沙紀の場合は、これが普通なのである。感情が表に出にくい性格で、普通の状態でも「ん? もしかして機嫌悪い?」と聞いてしまいたくなるような表情なのである。逆に、本当に怒っていてもこの表情だから困るのは事実なのだが。
「はい。買ってきたよ。はちみつがインしてるやつ」
渡された梅干しを冷静に虎視眈々と見つめる沙紀。何をそこまで見る必要があるのかわからないが、じっくりとパックの蓋をあけることなく見つめている。
「だめ。買い直し」
沙紀はまっすぐ目を見て買ってきた梅干しを突っ返す。
「……え? これ好きじゃなかったっけ?」
「好き。だけどこれ、つぶれすぎ」
よく見ると、確かに上蓋によって多少押しつけられているのはある。だけどこれはう梅干しあるあるの一つで、これを言われては沙紀のお気に召す梅干しパックはこの世にあるかどうかわからないというレベルなのではないだろうか。
「前買ってもらったのはこんなにつぶれてなかった。せっかく食べるならつぶれてないのがいい」
そっと梅干しに視線を落とす。そりゃまぁ確かにそうだろうけども……。だったらなにかい、つぶれていない梅干しパックを見つけるまでスーパーをはしごしろというのかい! さすがにそれは……。どうやら沙紀はいつのまにか典型的な日本人気質に成り果てたようだ。日本では野菜や果物など出荷前に無骨な生産物は除外するのがあたりまえとなっているらしい。それは店頭に並べても形がひどいと売れないからである。確かに、キュウリがスイカみたいに丸く太っていたり、グレープフルーツがラグビーボールみたいになっていると手に取りたくはなくなるが、梅干しが上蓋でちょっと潰れてるくらい良いじゃねえか! どれだけ生産者に厳しい規制をしくつもりだおまえは! と言いたいが、沙紀の冷淡な目をみると反論したくてもできない。それとも、単にいじめられているんだろうか。沙紀は外見は気を張っていて笑顔が少ないため怖く見えるが、根はやさしいので、いじめられた記憶はない。それとも高校三年生というナイーブな時期を迎えて不安の渦にのまれているのかもしれない。その矛先が…………おれか。
「わ、わかった。買ってくるよ」
しぶしぶ袋に入れ直そうとする。
「そう。ありがと。でも今日はこれでいいわ」
いいんかい! 良いんなら最初からそういってくれよ! そんな真顔でいろいろ言われたら全部真に受けるわ! そんなおれの気持ちになど目も気もくれず、沙紀はパックをあけて梅干しをつまんで食べ始めた。たぶん聞けばおいしいと言うのだろうが、表情を見る限りではさっきダメ出しされたときとまったく変わりがない。嫌々食べているようにしか見えない。ああ、買い直してきたい。これも一種のいじめなのだろうか。
どこへもやりようのないこの微妙な心境の中、台所に誰か入ってきた。
「ああ、奏くん。おかえりー。チョコ買ってきてくれたー? チョコーーー♪」
「買ってきたよ、ってまたその格好かよ、妃乃里姉」
風呂上がりでバスタオル一枚姿の長女、妃乃里(ひのり)である。
「だってお風呂上がりであっついんだもん。しょうがないでしょ~」 と、開き直る。お風呂を上がってから向かう場所は冷蔵庫と決まっており、そこから牛乳を取り出す。長い髪をタオルで巻き、体はバスタオルで隠しているが、妃乃里の体は凹凸が激しく、出るところが出過ぎている傾向があるため正直隠せていると言うと過言である。もし今運送屋が来て、妃乃里が出て行ったとしたら、相当な醜態をさらしてしまうのは言うまでも無い。まあでも、こんなのはいつものことなので、今更言ったところで、しかも、おれが言ったところで直ることはないのだろうが、それでも、今日は少しばかり気になるところがあるので、その部分だけ注意することにする。家内の風紀のためにも。
「妃乃里姉。まあいつものことだからその格好自体にとやかく言うつもりはないけどさ」
「うん。なに?」
牛乳を飲みながら顔を横に向ける。その際、動いたせいで口の横から少しこぼれ、牛乳が首筋をつたい胸の谷間に流れ込んでいく。
「あ、こぼしちゃった……。またシャワー浴びなきゃじゃないの~もう~。で、奏くん?奏くんのせいでこんなことになったんだけど、話の次第によってはちゃんと責任とってもらうわよ……ってあら」
おれは牛乳が口元からこぼれた時点でティッシュを数枚取り出し、妃乃里のバスタオルを前だけ剥いでこぼれ伝う先の谷間を抜けたお腹あたりからそのまま上に沿って牛乳を吸収させた。
「ちょ、ちょっと、くすぐったいわ、奏…くん……あんっ」
その後、濡れティッシュを取り出し、再び下から上へゆっくりと、かつしっかりと這わせ、一回で全て拭き取れるように、跡を残さないように十代のきめ細やかな白い肌から牛乳成分をぬぐった。この一連の迅速な対処によって、牛乳が妃乃里の体から床に滴り落ちるのを防ぎ、また、もう一回シャワーを浴びるという非経済的な行動を回避することができた。
「はい。これで責任も何もないだろ。妃乃里姉の体は綺麗だよ」 と、言いながらはだけたバスタオルを元に戻す。もちろん、この一連の流れの中でGカップはあろう大きな乳房やその先端の突起物その他もろもろおれは見ているが、そんなものおれにとっては何の意味もなさない。姉の裸体なんて見慣れすぎてて服を着せていないマネキン人形と大差ない。
「奏くんたら……。いつもながら手際がいいのね。一体どこで仕込まれたのかしら?」
おまえたちの世話をしてたら勝手に身についたんだよ!
「話戻すけどさ、今はまだしもさっきの格好、おっぱいが隠しきれてないよ。乳首は隠せてるけど乳輪が半分丸見えだよ」
こうして話している間にも妃乃里が少し動けば元の状態に戻る。はみ乳ならぬ、はみ輪状態である。再び半月乳輪を拝む羽目になる。妃乃里のおっぱいは、世間で言う巨乳にカテゴライズされるのだろう。おれとしては姉の胸元がいくら膨らもうが邪魔そうだなと、重そうだなと思うだけだが。
「あらあら、ごめんね~。落ちてきちゃったみたい。ぎりぎり、‘ここ’で丸出しを防げてるみたいね❤」と、自分の乳首を指さしながら俺にウインクを送る。
「そんなこと言ってないでちゃんと着てくれよ」 と、ため息交じりに言った。
「なによー。いつものことじゃないの」
「風紀が乱れるだろ。家庭内風紀が! 結奈がまねしだしたらどうするんだ。あいつのことだからきっと行くところまでいってまっ裸で過ごすぞ、きっと」
「ええー、じゃあどうすればいいの? 奏くんがこの体のほてりを静めてくれる……そういうことなのかしら?」
なにをもじもじしながら言っているんだ。顔が赤くなってるけど、熱でもあるのだろうか。
「もう少し布を纏えないのか?」
「お風呂上がったばかりなんだから暑いからいやよー。そんなに魅力がないかしら。あたしのバスタオル姿は」
「いや、魅力はあるんじゃないの? 知らないけど」
なんで姉の魅力話になってるんだ!
「奏くん」
「ん? ……ブフォッ!」
妃乃里がおれの後頭部に両手を添えて自分の胸の谷間にぐいっと押しつけた。
「奏くんたら、もう! やっぱりお姉ちゃんのこと大好きだったのね。そんなに褒めてくれるなんてお姉ちゃんうれしいわ! 大好きよ、奏くん❤」
「あおうおうあうおあおああおあおうあおあおうあおあおあおあ!」
声にならない悲鳴とはことのことかと、窒息も視野にいれつつ、妃乃里の凶器とも言える巨乳の中でもがき苦しむ。
「っぶあああ! 殺す気か!」
強烈な抱擁から命からがら脱出し、慌ただしい呼吸を妃乃里にぶつける。
「そんなわけないじゃない。愛の抱擁よ? もちろん弟愛のね」
もう反応する気力も残っていない。この肉塊は凶器以外の何物でもない。おれにとってはな!
「もうほら、これ持ってさっさと部屋に行けよ」
さっき買ってきたミルクチョコレートを手渡す。
「ん……あれ? 今日はバレンタインデーだっけ? もしかして逆チョコ?」
弟から告白されちゃった、きゃは❤ とかいいながら一人ではしゃぐ妃乃里。
「いや違うから。妃乃里姉が買ってこいっていったやつじゃん! あとそんなにはしゃぐとまたバスタオルがどんどん下に落ちてくるから。今度は乳首止まりじゃすまないかもしれないから」とそれなりに指摘してみる。
「なによ~、そんな見たかったら見せてあげるのに。ほら……」と右脇のあたりで端を折ってとめておいたバスタオルに手をかける妃乃里の姿を見て、すぐさま「はいはいはい、わかったから。おやつの時間ですよー。部屋にいきましょうねー」と言いながら妃乃里の背中を押し、台所から追い出した。
「ちぇっ。なによなによー。せっかくオープンマイバストしてあげようっていうのにさー」 といじけながら二階に上がって行った。
なぜ、うちの長女はあんな露出狂になったんだろうか。一昨年くらいまで、つまりは高校生の時だが、それまではおさげでめがねの優等生だったのに……。今は看護学校に行っているが、そこに入ってから変わったような気がする。化粧は濃くなり、肌の露出面積は比較にならないほど増えた。専門デビューというやつなのだろうか。あまり聞かないが。
沙紀に目をやると、なにやらもぞもぞしている。少し移動して正面から見ると、沙紀は自分で自分の胸を触っていた。大きさを確かめているのか、下から形を探るように服の上から触れている。
「何してるんだ、沙紀姉。マッサージなら手伝うけど」
「ん、いや…、やっぱり男は大きい胸が好きなのかと考えていた」
沙紀が異性のことを考えるようになるとは意外だった。今の妃乃里の一連の行動がそうさせたのだろうか。しかし、さっきのどのシーンを見て男は大きい胸が好きという結論に至ったのかは、気になるところではある。おれはさっき苦しんでいたはずなのに。
「沙紀姉もおっきいと思うよ」
実際、見た感じ沙紀の胸はDカップはかたい。もう少し成長すればEカップへランクアップは十分可能だ。妃乃里がとてつもなくでかいから目立ちにくいかも知れないが、沙紀も十分に大きいと言える。
「その言い方だとまるで私の胸を見たことがあるような口ぶりだな」
「へ? あるに決まってるじゃん」
「なんだと?」
沙紀のいつも通りの鋭い目線がおれの目に突き刺さる。
「奏陽、これからお前が今の発言に対して私に必死に弁明するであろうその内容によっては明日は拝めないかも知れないから覚悟して言いなさい」 ………………………なんかやばいな。
「というか、姉さん達がおれにブラジャーを買いに行かせてるんだから、そのブラジャーで包むものの大きさくらい知っているのは当然だろ。むしろ知らなきゃ買えないんだから知っているべきだろ」
なに言ってんだかという態度を全面に表しておれは言った。
「…………なるほど」
まさか忘れていたのか……?
弟であるおれに自らの下着を買いに行かせていることを。そうでなければこの長い沈黙はなんだったのか。おれは三人の姉の下着を買いに行かせられているのだが、沙紀にとっては、そんなのあたりまえ過ぎて考えに上がらなかったのかも知れない。 沙紀は再び姿勢を正し、何事もなかったかのように梅干しに手を伸ばした。普通に見ればさっきまでと何もかわらないように見える沙紀だが、長年一緒に過ごしてきたおれが見る分には、目の挙動が明らかに変だ。瞬きの間隔が凄まじく短い。動揺しているなによりの証拠だ。目は口ほどに物を言うというが、まさにこのことである。小さな顔の中でいっぱいに見開いている大きな目が、沙紀にとっての感情を表す一器官になっているようだ。まるでモールス信号のように、言いたいことを瞬きで表しているようだった。今度暗号化してみようか。
「ちょっと奏陽。お菓子なくなったんだけど」
突如開いたドアから高飛車なセリフを投げ飛ばされる。その言葉の出所は、三女の結奈である。
「そりゃおまえが食べたんじゃないのか?」
「あったりまえでしょ、バカじゃない? あたしが言いたいのはあれじゃ足りないっ! おかわりっ! っていってるの。そのくらいすぐ察しなさいよ、ふん!」
豪快に首を横にふり、長く淡いブラウンの髪がなびく。
一応確認しておくが、今は夕食前である。子供ならこんなこと許されない。子供が怒られるのはお菓子を食べた分、夕食を食べないから怒られるのであるが、あいつらはお菓子を食べても夕食も存分に召し上がりやがる。食事に関しても要求レベルが高く、味にうるさい。そのため、おれがせっかく一手間二手間もかけてつくった食事をないがしろにされるのは腹が立つから、あいつらの好みの味を追求し、切磋琢磨して毎回全力で料理をしている。今日もそのつもりだ。
「おかわりなんかねーよ。てかもう夕飯なんだからそれまで我慢しろよ」
「はぁあ? 姉に対してなにその態度! 誰が好きであんたの姉をやってあげてると思ってるのよ。こんなかわいい美少女を姉に持って感謝の一つもないわけ? お姉ちゃんなのよ、あたしは。お菓子がないならあんたが買いに行くのが当然でしょ? いますぐ買ってきなさいよ、ふん!」
「奏く~ん、あたしもチョコなくなっちゃった~」
妃乃里が結奈の後ろから覗きこんでたたみかけてくる。もうバスタオル姿はやめて、黒いネグリジェを着て手足の長さをすごく強調している。長女として結奈の今のおれに対する発言を咎めることを少し期待したが、便乗するという救いようのない所行によっておれの期待のよりどころは無くなった。であれば、おれがすることは一つだ。
「ふざけるな! おれはおまえ達の雑用係じゃない、お世話係じゃないんだ!」
あまりにひどい扱いにいても立ってもいられなくなった。おれは不満をぶちまけた。さけんだ。家中に響き渡る声で、近所にも聞こえているかもしれない声で叫んだ。叫んだはいいものの、姉たちの顔をまともに見れない自分がいた。目をつむりながら気配であたりを確認する。すると、突如頭の後ろに手を添えられ、そのまま生暖かいすごくやわらかな感触に包み込まれた。ついさっきも感じた感触だ。
「誰もそんな風に思ってないわよ、奏くん。奏くんがあまりにしっかりしているから、みんな甘えちゃってるのよ。不甲斐ないお姉ちゃんでごめんなさい」
妃乃里はおれを胸の中に包み込み、抱きしめながらそう言った。
「ごめんな奏陽。私たちはみんな奏陽が大好きなんだ。それだけは忘れないでくれ」 沙紀がそう言いながらおれの背中に抱きついてくる。
「ふ、ふん! あ、あたしは悪くないわよ? 悪くないわよ! 悪くないけど……ほんの少しだけ……ごめん」
結奈が態度、発言の内容共に素直では無いが、めずらしく謝った。そう言っておれに近づくと、顔を思いっきりそっぽ向きながらおれの頭を撫でた。
「確かに少し甘え過ぎてたかもね。反省するわ。お詫びになにかさせてほしいわ。私たちにできること、あるかしら?」
言いたいことは数え切れないほどあるけれど……。妃乃里から優しさで溢れんばかりの表情でそう言われると、気が和らいでくる。
「じゃあ……、今日の夕飯の支度してほしい」
そう言うと、三人はお互いに目配せを始めた。何を交信し合っているのかわからないが、しばらくそうした後、三人は目をつむり、こう言った。
「それは無理かな」
「パス」
「絶対嫌!」
それぞれ捨て台詞を吐くように言いながらおれから離れ、全員二階へと上がっていった。
「…………………………………………」
ぽつんと床に残されたおれは、冷蔵庫の前に移動し、扉を開け、顔だけ突っ込むと、口を全開にした。
「クソ姉どもがああああああああああああああああああああああああああ!」
溜まりに溜まった心の叫びであった。
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