☆★約束の彼方に 11


 ☆


 僕はずっと怯えてきた。僕の世界からいなくなろうとする人を。透も祖母のようにいなくなるんじゃないかって、ずっと不安だった。


 ううん、それだけじゃない。理沙だってそうだ。


 共感覚はいずれなくなってしまう。僕はなんとなく、そうなる運命だということに気付いていた。だけど僕はそれを認めたくなかっただけなんだ。一人は怖いから。


 僕は、臆病だ。


「僕はどうすればいい」

 

理沙の切実な言葉が、透がどれほど参ってしまっているかを物語っている。でもやっぱり動けない。それは気持ちの問題だけじゃなかった。


 僕の家から会場まで、いくら自転車を飛ばしても二十分以上掛かる。つまりは試合終了までに間に合わないのだ。僕は理沙に思いを伝える。 


 理沙、やっぱり僕は行けないよ。いつだって僕は大切なものを守れないんだ。


 それはきっと運命で決まっていて、流されるしかないんだよ。だれだって自分の生まれも、能力も、自分の関わる人も、選べないんだから。


 だから僕たちは、じっと与えられたものを守って生きていくのが一番いいんだ。だって与えられたものすら奪われていくんだから。


 僕は自分の部屋でうずくまる自分に満足しそうだった。それはとても自然なことのように思えた。


 そのとき、滞っていた空気を動かすように、玄関のベルが鳴り響いた。


 僕は塞いでいたカーテンを開けて庭先をうかがう。門の格子の向こうに見たことがある車の屋根が見えた。


「え、なんで」


 僕は驚いたまま玄関へと向かい、扉を開けた。そこにはここにいるはずがない人が立っていた。


「やあ、颯太くん。妹の理沙さんがね、第一ピリオド終わったくらいに俺のところに走ってきて頼むんだよ。『とおるくんのために、颯太を連れてきて』って」


 その人は柔和な笑みを浮かべた。以前よりも痩せて頬がこけている。


「あまりの切迫ぶりに、断りきれなくてね。颯太くん、透の試合を見にきてくれないかな」


 僕は戸惑いながらも、辞退する。


「裕章さんには悪いですけど、それは出来そうもありません。僕、透と喧嘩しちゃったから」


 僕のつむじ当たりを見つめていた裕章さんは「なるほどなぁ」と、謎が解けた

ように指を鳴らした。


「通りで、あいつの調子が悪い訳だ」


 裕章さんは困ったように前髪を横に流した。黒髪に紛れながらも、結構な数の若白髪がのぞいている。


「どうしても、透を許せないかい」


「許せないというか。僕なんかが透の横にいちゃ駄目なんです」


「どういう意味かな」


 裕章さんが膝を曲げて僕を覗きこむ。僕はその誠実な瞳から顔を逸らしてしまう。


「そのままの意味です。透はすごい奴だ。僕なんかとは違う。僕が透の横にいる資格なんてないんです。こんなにもださくて、取り柄もない僕なんか」


 眩しかった。


 いつだって、なにものも恐れず、走っていってしまう透が。裕章さんはそこで僕の手をつかんだ。そして強引に引っ張っていく。


「な、なにするんですか」


「こうしちゃいられない。話している時間がなくなってきた。一生の頼みだ。俺の車に乗ってほしい」


「で、でも」


 歯切れの悪い僕なんてお構いなしに、裕章さんはお姫様抱っこで僕をかつぎあげると、そのまま車に引っ張っていき後部座席にぽいっと放りこんだ。


 裕章さんは無駄のない身のこなしで運転席に座り、そのままエンジンをうならせる。そして車は走り出してしまう。裕章さんは自分でそうしておきながら、やってしまったという顔をバックミラーに反射させていた。


「乱暴でごめんね。だけど中学三年生のとき、透がやんちゃしたときに理沙ちゃんに世話になっていたからさ。俺も断れなかったんだよ」


「え、ええ」


 もう車は走りだしまったんだ。それしか言えない。裕章さんはそんな僕に話を始める。


「出来の悪い弟でごめんな。でもね、颯太くんは勘違いしているよ。透はそんな優しい君に、救われている」


「え」意味がよく、つかめない。


「透はな、寂しがり屋なんだよ。あいつはずっと孤独だった。しかしだね、透は一人じゃなくなったんだ。なんでだと思う」


「さぁ」僕に分かるわけがない。


「それはね」裕章さんは、バックミラー越しに僕を見つめていた。


「颯太くんたちに出会えたからさ」


 僕は言葉を見失う。


「透はね、俺に会うたびに颯太くんや理沙ちゃんの話をするんだ。まるで自分が気に入ったおもちゃみたいにね。なんだか可笑しいくらいさ」


 なんとなくそうしている透の顔が浮かんだ。きっとその顔は無敵の笑顔だ。


「今までにないくらいの入れこみようだった。それを見て安心したんだ。透は見つけたんだってね。ありふれた幸せだけど、だれかが傍にいてくれる幸せを」


 信号が赤になる。車が止まって裕章さんは僕を振り返る。


「だからね、颯太くん。どんな関係においても資格なんてものは必要ない。好きな人のことを好きなだけ想って生きる。でもね、それは待っているだけじゃいけない。自分で手をのばさないと。自分でつかみにいかないといけないんだ」


 それは僕のなかに鬱積していたわだかまりに、たしかなヒビを入れた。

 待っているだけじゃ、駄目なんだ。


「颯太くんは颯太くんのままで十分素敵じゃないか。だって俺の自慢の透が、相方に選ぶくらいの男だろう。自信を持ってほしい。あとは君がどうありたいかを願い、どう動くかだ。弟を、透を。よろしく頼むよ」


 考えたこともなかった。


 僕が透の相方になる、か。同じ場所で肩を並べられたら、どんなにその景色はすばらしいだろう。


 その裕章さんの熱い想いに、僕の胸のなかでずっとわだかまっていた氷が融解し始める。そして涙や氷で濡れた地面から、新しい芽がひょっこりと顔を出す。


 新しい自分がどうありたいか。それがおぼろげながらも見えてきたんだ。

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