☆優しいだけでは

 自分って、いったいなんなのだろう。どこまでも続く色褪せた現実が、僕の意識を支配してしまって、日々の彩りをうやむやにする。以前みたいに、上手く笑えない。


「そうか、そういうことだったのか」


 ハカセは静かに頷いて眼鏡の奥の瞳を伏せた。放課後の緩い空気も、明日からの休日も、今の僕の気分を変える役には立たない。


「こんな話を、信じてくれるの。感覚が繋がっていたなんて医学的にあり得ないし、気持ちが悪いだろう」


「颯太。そう自暴自棄になるな」


 ハカセは静かにかぶりを振った。


「俺は信じる。颯太が共感覚の消失を食い止めたいと願っているのは、疑いようのない事実だ」


 僕は机越しにだるい視線を外に向ける。外のくすぶる天気は、ひどく今の自分にお似合いだった。人から疎まれ、けむたがられる。このままずっとこんなふうならいいのに。


「どうかな。僕がハカセの立場なら気持ち悪いとおもうけどなぁ」


「そんなことはない。興味深い話だ」


 ハカセは僕の横で、必死にまごころを込めて向き合おうとしくれた。


「颯太、聞いたことはないか。人間の細胞はつねに新陳代謝を繰り返していて、日々入れ替わっている。ある研究者がそこに注目して、体の細胞すべてが入れ替わる周期という一節を提唱した。それによると、人一人の細胞が入れ替わるのは五年から七年ほどらしい。その仮説をもとにすると、今の颯太の十七歳という年齢で体の細胞がすべて入れ替わった可能性がある。もしかしたらそれが、共感覚が消失した原因、あるいは遠因になったのかもしれない」


「そうなんだ」


「だが例外もある。たとえば脳神経細胞は生まれたのちは基本的に分化しない細胞で、たぶんこの仮説は採用できない。だから厳密にはすべての細胞ではないのだが」


 そこでハカセは喋るのを中断し、悩ましげに腕を組んだ。


「いや、違うな。そもそも医学の常識に当てはめることが無意味かもしれない。だがなにか原因を探らなくては、共感覚を取り戻す術がない」


 ハカセは知識を総動員して治療法を探してくれている。だがその親切心がなんだかわずらわしいと感じてしまう。なんだか僕は参ってしまっていた。最近ずっとこうだ。だれの優しさも、思いやりも、素直に受け止められ

なくて、かんぐってしまう。そうして勝手に疲れて、自分が嫌いになる。


 僕はいったい、なにを求めているのだろう。なにを保証してほしいんだろう。


「こんなに不安になるって知らなかったな。一人きりの世界って、こんなに心細いなんて」


「そうだろうな。だがもしもの場合のことも考えておいたほうが良い。颯太にとってこれからが始まりになる」


「また、そんな言葉だ」僕はハカセに噛み付く。「勝手にさ、そんなふうにすべてを分かっているみたいに言うのは止めてくれよ。こっちは必死なんだ。必死でもがいているんだよ」


「颯太、落ち着け」


「落ちついてるよ!これ以上ないってくらいに」


 みっともないって分かっているのに、こんなこと言っちゃ駄目だって知っているのに、自分を押さえられない。僕はなにに怒っているんだろう。だれと戦っているのだろう。


「ハカセだってさ、分かっているんだろう。ハカセは哲学的ゾンビなんかじゃない。そうやって哲学的ゾンンビなんて変な言葉に自分を当てはめて、他人から距離を取っているだけじゃないか」 


 ハカセはくっと顎を引き、静かに僕の言葉に耳をそばだてる。僕はもうなんだか、自分も他人もどこまでも傷つけて、どこまでも落ちていきたい。


「僕はさ、最低な人間なんだよ。人の弱いところや嫌な部分をさ、平気でこうやって傷つけるんだ。全然優しくなんかない。ねぇ、ハカセ。失望しただろう。僕って醜いだろう」


「颯太、俺は」


「そうなんだよ、僕は最低なんだよ。ずっと他人の影にいるのがお似合いで、僕なんか」


「颯太」


 ハカセは僕の顎を手でつかんで無理矢理黙らせた。乱暴なことになれていないのか、僕の顎をつかむ手の力は強くて顎が痛かった。


「俺は今から厳しいことをお前に告げる。覚悟しろ」


 そこで手が離され、僕は肌が食い込む感覚が残る顎をさする。ひどく惨めになった。こんなことをハカセにさせた自分が情けない。


「お前はな、とんだ甘ったれだ。自分の不安や葛藤をぎゃあぎゃあ喚き立てるしかないくらいのな」


 ハカセの口調は、ディベートで相手をこてんぱんにするときのそれだった。


「お前は今まで甘えていたんだ。理沙がいつでもお前の気持ちを理解し、助けてくれることに」


「まったく、その通りだよ」


 僕は頭を抱える。そうだ。ハカセの言うとおりだ。僕はずっと甘えていた。


 共感覚に。理沙に。


 ハカセはきつくこちらを睨む。


「自分の感情や感覚を理解してくれる他人がいる。それはさ、ある意味でだれもが憧れるものだ。だけどそれは、本当は手が届かないものだ」


「どういうこと」


「つまりだ。本当の意味で理解し合える他人なんて、この世にいないってことだ」


 ハカセは躊躇なく、残酷な事実を言い放った。僕の柔らかい部分が、その言葉の分だけごっそり抉られる。


「だがな、お前たちはその共感覚のせいで幸か不幸か、それが実現してしまっていた。なにをしなくてもおたがいの感覚を共有できる。言葉にせずとも相手が分かってくれる。だから一人じゃない。だがそれは、異常だ」


 異常。僕はその言葉がざらっと胸に引っかかる。

 その線引きは一体どこにあるんだろう。


 ハカセが自分を哲学的ゾンビだと言うことは?

 僕と理沙の感覚がつながっていることは?

 透があんなに勝負や約束にこだわることは?


 そんな僕たちの日常は、異常なのかな。


「颯太も理沙も、これからは普通の、一人の人間になる。共感覚がなくなった今からが、ある意味本当の始まりだ。これから颯太は本当の意味での石川 颯太になるんだ」


 本当の石川 颯太。

 僕はそれにならないといけないらしい。この厳しい世のなかを石川 颯太一人で、渡っていかなければならないんだ。


「……ハカセの言葉は、今の僕にとっては厳しいな」


「だから言ったろう。覚悟しろって」


 迷子になった子猫みたいに、途方に暮れる。自分は普通じゃないんだって。これからが始まりなんだって。でもさ、そんなのつらすぎるよ。これからずっと一人なんて。もう理沙の気持ちが分からないなんて。


「でもな、颯太。共感覚があったのは悪いことだけじゃない」


 ハカセは声色を優しくして、僕にたっぷりと考えるだけの間をとってくれた。きっと僕が今にも泣き出しそうなのを察してくれたんだ。


「颯太はさ、そうやって理沙の気持ちとかに常に触れていたせいか、驚かされるくらいに慈愛が深い。見境なく優しい。それは共感覚が颯太に与えたものだ」


「そ、そうなのかなぁ」


 僕はポケットに入れていたティッシュを取り出し、勢いよく噛んだ。息を吹き出す時に力みすぎて耳が痛くなる。


「そうさ。現に眼の前にそんな颯太に救われた奴もいる。だから、その、なんだ。お前は一人じゃない。そう気落ちするな」


 ハカセはばつが悪そうに眼鏡を持ちあげる。最後に励まされていることに気づいて、僕はあいまいな笑顔で返す。


「やっぱり頼りになるね、ハカセは」


 ハカセはちょっと迷った顔になって、口元を綻ばせた。


「ハカセっていうのはな、いざってときに頼りになる人間のことを言うんだ。だからさ、俺のことをもっと頼ってくれていい」


「ありがとう。相談して、正解だったよ」


 ハカセに僕たちの秘密を背負わせてしまったけれど、そのぶんだけ心が軽くなる。お前は甘いってハカセに叱られてしょげそうだったけど、最後にはそれ以上の勇気をもらった。


            ☆


 僕はとぼとぼと自分の家に向けて帰っていた。


 最後の授業だった日本史の時間から、ポツポツと雨が降り出したのは好都合だった。傘は持ってきていたし、

俯きながら考えごとをしていても目立たない。雨は考えるときの味方だ。


 優しい、か。


 皆が僕を褒めるときの言葉で、かつておばあちゃんが言ってくれた言葉の意味。それを考える。もし自分が本当に優しいとして、その優しさをなにに使えばいいのだろう。どういう力に変えればいいのだろう。


 そんなことを考えていたら、後ろからドンと誰かがぶつかった。なんとなくその力の加減と後ろからの雰囲気で、だれの仕業なのか分かった。


「冷だろう」


「おお、お前すげぇな」冷は驚いてちょっと後ずさる。「どうしたんだよ颯太、しけた顔してるぞ」


「こんな顔だよ」


「あれ、そうだったか。言われてみればそんな気もするな」

 冷は納得したように頷いた。僕たちは一緒に帰ることにした。


 落ち込んでいる僕とは対称的に、冷はいつも通りで、今日は雨が降って筋トレばっかだったとか、透たちバスケ部が順調に勝ち進んでいるのはまぐれだとか、透が調子に乗っているからしめないといけないとか、そんなことを休みなくしゃべり続ける。僕は適当に聞き流す。正直、今は自分のことで精一杯だった。


 雨に濡れる帰り道は、靄がかかったように先が見えない。水溜りで足がとられて気が滅入る。ちいさな雨粒が風に乗って斜めに降り注ぎ、僕たちのズボンの裾を濡らしていく。僕の通学用のウォーキングシューズの先っぽが雨にぬれ、その部分だけ色が濃くなっていた。


「ねえ、冷。僕のいいところってなに」


 話が切れたのを見計らい、冷の橙色のスパイクから眼を離しながら尋ねた。


 上手くいかないすべては、僕のふがいなさが原因なのかもしれない。ハカセと亜弥、理沙は勉強で僕のずっと前を走っている。冷と透は部活のエースとして皆から一目置かれている。


 皆が自分を表現できる場所や、自分の勝負する場所を持っている。


 それを僕は、うまく扱いきれないままでいる。理由は簡単だ。僕だけがずっと同じ場所に留まっているから。僕だけが進歩していない。


「颯太のいいところか。いっぱいあるぜ」


「たとえば」


「たとえば、皆に優しいところ」


 僕は肺がぺしゃんこになるくらいのため息をついた。またその言葉だ。


「あれ、嬉しくなかった」冷は不思議そうにしている。「わがままだなぁ」


 たとえどれだけ人に優しくても、共感覚がなくなるのは止められないし、透の心に今も深々と残っている傷を癒せるわけでもない。優しくてもお金は稼げないし、お腹を満たせるわけじゃない。


「優しいだけじゃ、いやなんだ」


 また僕は、友達に弱音をぶつける。


 こんなことする時間があるなら、透みたいに歯を食いしばって頑張ったほうがいいに決まっている。分かっているんだ。そんなこと分かっている。でも今は、そんな強い気持ちなんか持てそうにない。


「颯太」


 冷が心配してくれているのが、顔を見なくても十分分かった。でもその思いやりが、余計に僕を焦らせた。


「このままじゃ駄目だ、このままじゃ」


「そっか。このままじゃ駄目なんだな」


 冷は肩にあてがった傘をくるくる回した。すると傘の遠心力で雨粒が四方八方に飛び散っていく。それを見届けた冷は、傘を差していない左手の肘で僕の二の腕を軽くつついてきた。


「大丈夫、颯太は俺の大事なダチだぜ。それにお前の優しさはなかなかねぇもんだよ。お世辞じゃねぇって。だから変なこと気にすんな。元気出せよ」


 冷の励ましに、なぜだか僕はもっと自分の気持ちがかき乱されてしまった。やっぱり今は素直になれない。


 自分は変わらないといけない。もう優しいだけではいられないんだ。

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