2話 再来

 その日の晩。久しぶりに、夢を見た。

 それは心地の良いものではなく、不安を煽るような、傷口を抉るような、そんな夢だった。

 真っ白い空間にただ1人茫然と立ち尽くしていると、遠くに何かの映像が見える。

 目を凝らして見てみると、それはぼやけた、漠然とした映像だった。

 緑色を基調に、中心に丸く黒い物体とその前に小さな真っ白く細長い物体。果たしてこれが何を意味するのかわからなかった。その時、なぜか僕は僅かな頭痛がした。

 頭痛を気にかけながらも映像を見ていると、黒い物体が微かにうごめいて⋯⋯次の瞬間、目の前に一昔前のアナログテレビを消した時のような光が生じ、そして真っ暗になった。


 〇〇〇

 

 息苦しさに目を覚ますと既に日は昇っていた。起き上がった時の視線からうつ伏せに寝ていたのだと判断できる。──目の前には枕があり、それは汗のせいかびっしょり濡れていた。

 あの夢は一体──。

 考えていると父が寝室に入ってきた。

 ちなみに、僕の部屋は階段を上ってすぐ左のところにある。ゲームや本すら持っていない僕にとっては階段を上ってくる父の足音など怖くない。むしろうるさいと思うくらいだ。

 父は僕が起きたか確認しに来たらしく、「おはよ。ごはん、できてるぞ」とだけ言い残して下りていった。

 部屋着のまま下に行き、ちゃぶ台の前に腰掛け、目の前で湯気を立てて並んでいる朝食に感謝の気持ちで手を合わせ、

「ごはん、いただきます」

 1口1口味わい、きれいに完食した。


 今日も仕事だ。しかし今日は畑の様子を見て、やや遅めの間引き──たくさんある苗から少数だけ残して他を抜き取る作業──をするくらいだったので正午を回った頃には今日のやるべき事はすべて終わった。

 ふぃーとため息をつきながら立ち上がっると、ぽきぽきと腰の関節が抜けた。仕事から解放された快感を味わいながら僕は畑を後にした。


 今日はちょっと村の方に顔を出してみよう、と思ったのは、なぜだろうか。特別用事があったわけではない。──単に、村の人と話したくなったのだと勝手に結論づけた。

 舗装されていない道を進むとようやくアスファルト舗装された、やや廃れた道に出た。脇には用水路も通っており、水の流れる清い音が聴こえる。

 瓦屋根の家々が連なり、長い歴史を感じさせる雰囲気。すっかり見慣れたそれを傍に僕は道を進んだ。今と歩いている道は村を1周するように敷かれているので、無意識に歩いていてもいずれ振り出しに戻る。

 時々すれ違うおじさん、おばさんと挨拶を交わしつつ、昔遊んだ記憶とともに進む。

 今頃あいつらはどうしてるだろう。かなり高望みのやつもいれば余裕というやつもいた。

 あいつらとの過去──。

 それを思い出そうとした時、軽い頭痛に襲われた。それはどこかで感じたことのあるような──。

 右のもみあげのやや上。そこを押さえながら歩く。自然と過去を思い出すことはやめていた。


 1周するとさすがに空腹度が限界に達したらしく、ぐぅーという空っぽの音がなった。


 『シャリン』


 アスファルトと砂利道の境目に差し掛かろうとした時、背後から昨夜聞いた鈴の音がした。

 振り返るとそこには──。

「こんにちはっ!」

 肩にかかるほどの長さの髪に、白色を基調に水色の水玉模様の入ったワンピースを着た、幼さの残る少女が立っていた。

「きみは確か──」

 昨夜のことを聞こうとした。しかし、彼女の言葉の方が早かった。

「こんにちはっ!ゆうきくんっ!」

 その言葉にドキリとした。僕にこんな知り合いはいなかったはずだ。いなかった⋯⋯はず。

 記憶を掘り返しては照らし合わせを繰り返したが、やはりどれとも合致しない。

 あまり待たせてはまずいと思い、口を開こうとした。──僕の知ってる人があまりにも少なかったため相手からしたら数秒のことだったが。

「えーと、どうして僕の名前を?」

 先に聞こうとしていたことではなく、今疑問に思ったことを優先していた。

「えー?だって私たち、友だちじゃん?」

 訳が分からなかった。一方的に知っているのか。あるいは──。

「ごめん、僕は覚えてないんだけど⋯⋯」

 それを聞いた彼女はやや面食らった様子で⋯⋯そして残念そうに項垂れた。

 しかしすぐに顔を上げ、満面の笑みで、

「だ、だよね!もしかしたらって思ってたから、そんなに気に病む必要はないよ!」

 言葉とは裏腹に彼女の笑顔は作り物だと簡単に見抜けるようなものだった。

「じゃあ君の名前を教えてくれる?」

 笑顔が消え、次に言ってる意味がわからないと言いたげな表情で、

「名前?」

「うん」

 名前を聞いたらもしかしたら──という浅はかな期待を抱きつつ、彼女の返事を待つ。

「りなだよ!」

 その答えに、僕は苦笑いしかできなかった。


 〇〇〇


 話を聞くと、彼女はまだ昼ごはんを食べていないらしい。

 これはちょうどいい機会だと思い、彼女を我が家に招くことにした。父には⋯⋯なんとか説得すれば大丈夫⋯⋯かな?その後にでももっと細かく話を聞くことにしよう。

 ざっざっという砂利を踏みつける音が帰りより1つ増えたことは嬉しかった。毎日1人で行き、1人で帰るというのを繰り返していた。孤独を感じなかったと言えば嘘になる。

 そして、それはどこか懐かしいような気がして──

「どうしたの?」

 自然と彼女を見ていた。左に立つりなはやや心配そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。

 その仕草にややどぎまぎしつつ話をはぐらかした。

「いや、なんか可愛いなって。⋯⋯⋯」

 しまった!墓穴を掘った!普通に怪しいやつだと思われる!

 心の中の僕が僕の行いを省み、その結果、手で顔を覆い、悶絶することとなった。

 彼女からの返事はない。これは詰んだか──と思った時、

「そ、そうかな⋯⋯」

 恥じたような声がかなりの間があって返ってきた。

 手をどけて彼女の顔を恐る恐る見ると、頬が赤くなっていた。⋯⋯気のせいだろうか?

「こほん、と、とりあえず早く家に行こ?」

 2人とも足を止めていた。こんな自分の立場が危うい状況でも腹はそんなのお構い無しに唸り続ける。

「そ、そうだね⋯⋯」

 俯き、僕が静かに歩き出すと彼女はそれに半歩遅れでついてきた。


 「ただいまー」

 家の扉をがらがらと開けると、父が茶の間から出てきた。

「おう、おかえり。⋯⋯それとその可愛い子は?」

 きょとんとした顔で僕の後ろの方を指差している。

「帰り道で1人になってるところを見かけて話しかけたらお昼まだだって言うからさ⋯⋯」

 父はややむっとした顔になったがしかしそれ刹那のことですぐににこやかな笑みを浮かべて、

「そうとなったら早く用意しないとな」

そう言い残し、父は台所へと消えていった。

 このまま玄関に立ち尽くしているのもおかしいのでとりあえず彼女を茶の間に上げる。

「僕もちょっと手伝わないとだからゆっくりしてて」

 ぱっぱっと裾を払っていた彼女は僕の方を見上げてから、

「うん!」

と、大げさに頷いてくれた。

 台所に行くと父がやや不機嫌な表情になっていた。

「おまえ、うちの台所事情わかってんのか?」

 たとえ僕たちが毎日3食食べていけるとしても、もう1人分の食料はまかなえるとは言いきれない。

「ごめん⋯⋯」

 今はただただ謝る他にない。父は嘆息すると、

「これが最後だからな」

 僕の方は見ず、そうめんを茹でている鍋を見ては1本すくって、あちちとか言いながらも固さを確かめている。

 父は優しいのだ。そんな父に僕はどこか甘えているのかもしれない。

 今は林業に専念して農業を僕に任せっきりの父。同業者など身近におらず、孤独に毎日仕事に励んでいる。

 左の掌を見ると斧を強く握っているせいかコブができてる。

「ほんと、ごめんね⋯⋯」

 僕は、そんな父の前では小さくなっているばかりだ。

「情ねー顔すんなや。特に女の子の前ではな」

 微笑み、僕の頭を撫でてくるゴツゴツした掌。その仕事人の感触を味わってから僕は茶の間に戻った。

「ごめんお待たせ。そろそろできそうだよ」

 りなは戻ってきた僕を確認すると、

「お腹すいたよぉ〜」

 そう言うと完全に脱力した。

 彼女のことを疑問に思っていないと言えば嘘になる。何せ、どこの子かもわからないし、ましてや彼女は僕のことを知ってると言う。果たしてこの子を信用していいのだろうか──。

 疑問の色が顔にも出ていたのか、りなが心配そうに僕のことを見ている。

「どうしたの〜?」

 やはり心配していたらしい。脱力したままの体勢からの発言なので自然と上目遣いになる。

「ごめん、なんでもないよ」

「そっか、それならいいや!」

 その時だけ空腹を忘れて、上体を起こしにこやかな笑みを僕に向けるりな。しかし、自分の置かれている状況を思い出すと再び脱力してしまった。


 それから10分ほどして。

「おまたせぃ!そうめんできたぞー!」

 いつもよりも明るく振る舞う父が台所から手にしたおぼんの上にそうめんの入ったざると麺つゆ──既に水と氷で割ってある──を乗せてやってきた。

「お待ちしてましたー!」

 さっきまでのやる気ゼロのりなが嘘だったかのように飛び上がりるとちゃぶ台の前に正座した。礼儀はなっているようだ。

「そんなに慌てなくても、そうめんは逃げねーからゆっくり食えよな」

「はい!ごはん、いただきます!」

 そのフレーズに、なぜか違和感を覚えなかった。

 白いそうめんを麺つゆの湖へダイブさせた後、ずるるるーっとりなは勢いよくそれを吸い込んだ。そして何回か噛み締めてから──

「んー⋯⋯⋯おいしいぃぃ!」

 女神が降臨でもしたかのような神々しい喜びの表情とともに、今にもほっぺがとろけそうだった。そうめんにそこまで感動するのは滅多に見ない。

「⋯⋯ごはん、いただきます」

 同じことを言うのに抵抗があったが、疎かにしてはいけないという思いの方が強かった。

 彼女が幸福に満ちた顔をしている間に向かい側にあぐらをかいて座り、手を合わせていた。

 そして1口。

「うん、美味しい」

「だよねだよね!」

 ものすごい剣幕に気圧されながらも同意を示す頷きを返す。

 その後は僕は1口1口しっかり味わいながら食べ、りなは一気にざるの3分の1を残してすべて食べた。僕としては不服だが、満足してもらえたならこっちとしても嬉しい。

「ごはん、ごちそうさまー!」

 しっかり手を合わせて感謝の言葉を述べるりな。僕はまだ食べていたので気にしなかった。

「これからどうするー?」

 来た。否、正確には『来てしまった』。

 僕が家に招いたからには何かしらの目的がないといけない。ただ単にごはんを提供するだけじゃ納得いかないだろう。

 しかしどうする。何も考えずに行動したのが仇となった。

 ここは本音を言うべきか──

「もしかして、何も決めてない?」

 見抜かれていた。それなら嘘をつく理由などない。

「⋯⋯ごめん」

 自分の馬鹿さに呆れる。

「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ!?それより、私が行きたいところあるんだけど⋯⋯いいかな?」

「もちろん」

 行き詰まっていたところへの救済処置に思えた。嫌でも了承する。──別に嫌ではないのだが。

「それで、どこに行きたいんだ?」

 聞くとりなはもじもじしだした。

「それは⋯⋯まだ秘密」

 やや頬を紅潮させているように思えるのは気のせいだろうか?しつこく聞いて嫌がられても嫌なのでここは了承する。

「じゃ、外で待ってるから食べ終わったら来てね。あ、別に急がなくてもいいからね!」

 そう言ってりなは食器を台所に持って行って「ごちそうさまでしたっ!これお願いしますっ!」と父に言うと玄関から出ていった。

 次いで台所から父がやってきた。

「案外良さそうな子じゃねーの。おまえ、狙ってみたらどうだ〜?」

 などといやらしい目つきをしながら肘でつついてきた。

「まさか。可愛いとは思うけど、どう見ても年下だよ?僕はロリコンじゃないからね」

 年下と恋愛関係になる=ロリコンというスタンスはおかしいが、あくまで場しのぎのための1つの考えだ。

「んーそうかなー。俺にはあの娘、おまえと同い年に見えたけどなー」

 父の目はそこまで落ちぶれてしまったのだろうか?確かに父が最後に僕と同い年の人を見たのは小学5年生頃が最後だったか──。

「きっと、木ばっかり見てたせいで目がおかしくなったんだよ。樹齢ばっかり気にしてたし」

 父は「こいつは樹齢18年だ!」と言った木が実際は30年だったという読み違いの大記録の保持者だ。それからもことごとく実際年齢よりも下に見る傾向があった。今回もそれだろう。

「とりあえず行ってくるよ。ごはん、ごちそうさま」

 食器を台所に持って行き、玄関を出ようとしたところを父に止められた。

「なんなら2人で撮ってこいよー。記念にさー」

 まださっきのいやらしい目のままだ。うんざりしたがここは大人しく受け取っておいた方が早く済むだろう。

「はいはい。んじゃいってきまーす」

「おう!ちゃんと撮ってこいよ!」

 いつもの父と違うように感じるのは気のせいだろうか。


 〇〇〇


 「それで、どこに行くの?」

 場所は木々の生い茂る林の中。木漏れ日があちこちから射し込んでいる。風が吹き抜けると木々のざわめきが合奏のようになって聴こえる。

「だーかーらー、着いてからのお楽しみだよー」

 数歩前を歩く少女──りなは慣れた足取りで歩き進んでいく。この道をよく使うのだろうか?

「んーでもーヒントあげるー」

 突然振り向くと上機嫌な笑顔で言うりな。

「教えて教えて」

 気になるあまり興奮気味になってしまった。表にあらわにしていなくても僕の中では結構気にしていた。

「思い出の場所!」

 が、その期待を裏切るかのような答えが返ってきた。──だって、その答えは彼女自身しかわからないものだから。僕のわかるものではないから。

 呆れのあまり嘆息していた。

「それじゃあわからないよ」

「そうしないと面白くないんだもん!」

 僕のこれほどの態度で接しても答えを教えようとしないという肝の座りっぷりには感服した。

 とりあえずここは大人しくついていくことにしよう⋯⋯もとからそうするつもりだったが。

 道脇には取り残された山菜が成長して雑草と同化していたり、キノコが生えていたりなど自然豊かな環境だと思える状態だった。父もこんな環境の中で木をなぎ倒しているのだ。

 そう、ここは父の仕事場───

「⋯⋯ゆうきくん!?」

 悲壮な声が遠くに聞こえる。頬には冷たい感触。土臭い。視界は茶色が占拠している。これは──

「いきなり倒れてどうしたの!?」

 遠くに、知ってる声が聞こえる。ついさっきまで鼻歌を歌いながら僕の前の方をスキップしていた上機嫌の少女の声。

 ──僕は、倒れたらしい。

 彼女の放つ言葉と今僕が感じているものからそう判断できる。

 身体中が熱い。力を入れることもままならないほどの脱力感、倦怠感。

「⋯⋯すごい熱!」

 額に触れられる冷たい感触。それはまるで氷のようだった。

「熱中症かなー⋯⋯」

 心配そうな声がさらに遠くなっていく。このままでは───


 そう思ったのが、その時の最後の記憶だ。

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