第8話

 岡部の妻に別れを告げて、家を後にした。

 「瀬野様、あの」

 「どうした?」

 前を歩いていた通成は振り返った。しかし、凛は言葉を濁し続きを話そうとしない。

 凛の顔を覗き込む。

 「凛?」

 「その、瀬野様のご家族はご無事なのですか?」

 顔を伏せたまま、控えめな声で訊ねる。

 「俺が招集された時、家にはお袋と弟が二人いた。親父は戦死してとっくにこの世にはおらん。お袋とすえの弟はどこかに避難していると思うが、もう一人の方は俺より一つしか違わんから恐らく招集されただろう」

 凛は黙ったままだ。通成の方へ顔を向けているが、なんと言って良いのか分からないというような表情をしている。

 「凛、列車に乗ったことはあるか?」

 突然のことだったので驚きつつも、いつものように淡々と調子で答えた。

 「いいえ、実際に乗ったことはありません」

 「君に車窓からの景色を見せてやれないが……」

 「あの、瀬野様。それはどういう意味でしょう?」

 少し間を置いてから、

 「俺は君を一人にするつもりはない。その、一緒に俺の家に来て欲しい」

 凜の顔が紅潮した。顔を伏せる。

 「私がいては、ご家族の方が……」

 「家にいるとは限らん。生きているかも分からん。一人にするつもりはないと言っただろう。それとも、俺は君の迷惑になっているか?」

 凛は首を横に振った。紅潮したままの顔で、

 「そんな! 迷惑などと」

 思ったよりも大きな声になったことに自分でも驚く。

 通成も一瞬呆然となってしまった。たが、彼女が否定してくれたことが素直に嬉しかった。

 笑みを浮かべて頷くと、西の方角を指差してから、

「俺はここより五つ駅を超えたところに住んでいたんだ。駅からいくらか歩かなくてはならないが、それほど遠くない」

 そう言ってから、彼は凛の手を取った。まっすぐ駅を目指して歩き出す。


 駅も列車の中も大勢の人で混んでいた。だが、さいわい列車に乗り込んだ時、丁度二人分の席が空いていたため、通成と凛はそこに腰を下ろした。

 親子や買い物帰りとおぼしき女性、傷痍しょうい軍人らしき若い男性らの姿に、通成は視線を向けていた。

 やがて、彼らから目を逸らし凛に顔を向けた。凛は口元を引き結んだままこちらに顔を向けているが、包帯で目をおおっているため彼女から感情を読み取ることは出来ない。

 彼女の手元に視線を落とすと、細かく手が震えていた。

 「凛、君を不信な目で見ている者などこの中にはいない。そんなに怖がらなくても大丈夫だ」

 「はい」

 頭では分かっているのだろうが、身体に染み付いた人間の恐怖というのはそう簡単に消えるものではないようだ。

 凛が苦手とする人込みの、しかもよりによって逃げ場のない列車なんぞに彼女を乗せたことは本当に正しいことなのか。自分が無理強むりじいをしてしまったのではと通成は不安に駆られた。

 「瀬野様」

 「どうした、凛?」

 凛の声で我に返る。

 「あと一駅ひとえきで瀬野様の住んでいらっしゃるおところへ着きますね」

 その声はいつもと変わらず、淡々としている。

 ああ、と返事を返す前に凛が続けた。

 「数を数えておりました。最初に乗った駅からこちらまで」

 「そうか」

 「瀬野様がご覧になっている車窓から見える景色を想像しながら」

 その顔は少し赤らんでいる。

 通成は微笑した。どうやら自分の中に渦巻いていた不安は杞憂きゆうだったようだ。

 いつか凜にも見せてやりたい。自分が見ているこの景色を。

 窓に目を向けると、見慣れた風景が視界に入った。

 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る