まな板

 今日は、やけに風が多い気がする。

 風が多い、が、強くはない。

 弱々しくも思えるような風が、朝から止まない。


「今日はずっと涼しいですね」


 窓を開けながら、生板まないたは言う。この部屋には俺と生板しかいないのだが、一体誰に向けた言葉なのだろうか。


「やっと秋が来たって感じですよね」


 確かに、今年は厳しかったから九月の半ばを過ぎてもセミの鳴き声が聞こえていた。去年の夏はずっと涼しかった反動だろうか、と俺は勝手に考えてみたりしている。


「ちょっと、先輩、また無視ですか?」


 窓際から生板の尖った声が飛んできた。どうやら、俺に話しかけていたらしい。

 俺は伸びすぎた前髪を掻き分け、生板に目をやる。


「いや、生板が誰に話しかけてたかわからなかったんだ」

「ちょっと、苗字で呼ばないでくださいって言ってますよね、わざとですよね?」


 生板は不満げに頬を膨らませながら文句を言う。この反応が面白いから、という理由もあるのだが、


「悪い、生板の名前わからないんだ」


 正直なところ、俺は人の名前を覚えるのが苦手だ。

 もちろん、自分の名前も含めて。


「絶対嘘ですよね⁉ 私のこと馬鹿にしたいだけですよね⁉」

「まあ、うん」


 高校生にもなって中学生と間違えられそうな体型をしているのだから、いじってやらないほうがかわいそうというものである。


「私の名前は静流しずるですから、ちゃんと覚えてくださいよ、若白毛わかしらが先輩」


 悪意のある呼ばれ方をされた気がした。さっきまでついてなかったものが、俺へ向けられた棘のようだ。


「……努力するよ、生板まないた


 他人の苗字を悪口のように使うな、とは俺が言えたことではないので、せめてものお返しである。


「もうっ!」


 誰が名前を憶えてやるもんか。

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