2017 年 9 月 9 日
朝は日差しは薄い鋭さを持っていた。自転車で行けば腕にじわりと汗が浮く。草花の色は鮮やかで、活き活きとした雰囲気がある。だが空はじいっと青くて、日差しの鋭さも、もう先は長くないことの裏返しのようにさえ思われる。なにより風が心地よく涼しい。むわっとむせ返るような熱気はもうどこにもない。萎んでゆく風船のようにも思われた。いや、これでは来るべき秋に失礼かもしれない。秋とて、夏の萎んだものではなく、立派に秋なのであるのだから。まだ青々とした葉がこそこそと風に擦れる。そういえば気の早い銀杏の実が並木道に散らばっていたりする。
幸田文の『流れる』を読んだ。再読になる。あるいは、ちょくちょく文庫本の適当な箇所を開いて拾い集めるように読んでいることも含めれば、幾度か読んだことになろう。通して読むのは二回目である。ある研究者は、『流れる』を、単なる花柳界の内部を描いた物語としてではなく、主人公である女中の梨花が花柳界の情報ネットワークのなかで自らを再度獲得してゆく小説として読むべきであると考えているらしい。私も概ね同意する。たしかに、露伴を描いた初期随筆に見られるような事細かい描写があちこちに見受けられる。だが話はそれで完結していないのである。その研究者の指摘するように、梨花が「梨花」として見て取られるようになるという変遷が、物語の中に確かにある。小説の主眼は、花柳界であると同時に、それを眺める主人公の主体の側にもあることが忘れられてはならない。それでも、まだまだそれだけではない。それだけではない幾つものエピソードが挟まっている。花柳界の内/外、不二子の生/犬の死、くろうと/しろうと、狭さ/広さという様々な対が浮かんでくる。様々な疑問が浮かぶ。まだ整理はしきれていない。好きな作品なので何度も読みたい。
大学で仕事を終えると、最近は樋口一葉の生家あたりの細い路地を通り、幸田文が住まった小石川蝸牛庵あたりを通って帰る。蝸牛庵前には、凛々しくもふてぶてしいお猫さんがいらっしゃる。私はロハンと呼んでいる。挨拶をすると、一撫でしてゆけ、と眼をくれる。なかなか豪華な帰路である。
君も最近いろいろとあるそうだが、私も夜に寝付けないとき、三時ころにふと奇妙な悲しさに襲われる。仕事中もそうであったが、理由もない悲しさなのである。日も暮れ始めると急に冷える。小康状態の夏の病状が悪化するのであろう。風邪を引いているときなど、目覚めた折はよくとも、眠る前には熱が出て身体はだるいことがあろう。この時期の夏も、昼前にのっそり起きてきて、元気な姿を見せるが、すぐに目眩がして寝込んでしまうのであろう。
思えば、夏ばかりが死ぬ気がする。春も秋も冬も、死ぬとは言わないように思う。気温のグラフを見れば、たしかに夏が一番生きているような気もする。だから死ぬと言われるのだろうか。失くしたものへの愛おしさ懐かしさは言い難く強い。夏の涼しい日は、そうした失いを思い出させるから懐かしく愛おしいのだろうか。
この重陽の節句の日に、近所の神社でお祭りをやっていた。ふだんどこにこれほどの人がいるのか、というほど、境内は人に溢れていた。少し寒いくらいの気温であったが、かき氷を買って食べた。神輿は担がれて、どこへ行くか知らない。法被を着た人たちはエッサホイサと言っていた。本当にエッサホイサと言って神輿を担いでゆくのかと、すこしおかしかった。
溶けてゆくかき氷と、遠くに望む薄明かりの雲とを見比べて気がついた。原因もない奇妙な悲しさ、物憂さは、甘くピンク色のシロップのせいか、遠くに失せゆく太陽のせいか、少しずつ形を変えてゆく。爽やかな憂鬱であった。物悲しい喜びであった。悲しさ、物憂さはぴちゃぴちゃと心を冷たく浸し、真っ暗な部屋にいても眼を開かせる。それでいて、ぐるぐると思考を掻き乱し、何かを考えさせるということをさせない。やっかいなものである。しかしそうしたやっかいものをやっかいだといって、酒を飲んだりなんなりしてすうっとすぐさま晴らしてしまうのももったいない気がした。時間をかけて適切に処置すれば、とろっと仄甘く、夢のように薄明るい感情を与えてくれる。爽やかな憂鬱、物悲しい喜びはこのようにしてしか得られない稀有な感情であると思う。沈むような悲しみを悲しまず、それの変質を待つというのもまた大事なことのように思えた。
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