2016 年 5 月 29 日
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古代ギリシアにおいては、白が最も高貴な色であり、その対極には黒があった。このことは、彼らの時代の哲学の著作や、それを註釈した偉大な精神の人々の著作に出てくる例からもよく分かる。耳学問でしかないのだが、彼らにとっての白というのは、私たちにとっての白とは必ずしも同じではないという。彼らにとっての白とは、あらゆる色を内に含んだ白なのであり、光の白なのである。白から黒にかけて全ての色が潜在しているような色なのである。このことを語った老教授は、ギリシアの眩しい太陽のもとにいればきっと彼らがなぜそのように考えたか分かるだろう、と言った。
黒はどういう色だろうか。髪、土、アスファルト。それと夜。白がギリシアの眩しい太陽の色ならば、黒はその正反対にある色だ。白が光の考察によってその性質が捉えられたのならば、黒も夜の考察によって捉えることにしよう。
これまで夜は地面から湧き出してくると思っていたが、それは少し違った。夜は隣から染み出してくるのだ。堰を切られた水が溢れてくるように、底から少しずつ夜が染みこんでくる。これは幾何学的に考えてみれば正しい事実だと分かる。光は妨げられなければ直進する。そして、ある一点から発せられた光は、或る球面上を照らすか、その球の一点に接して過ぎ去ってゆく。照らされた球面上に私たちがいるとき昼であり、照らされていない面は夜である。そして、光と球面の接点は夕暮れ時である。夕暮れ時、昼と夜とが直進する光によって切り分けられている。このような場面を想像してみるといい。球面上の影の部分は、その球の自転とともに、夕暮れ時の大地は徐々に夜に浸されていることが分かるだろう。
夜の「帳」は降りてくるものだが、このことばを考えた人はまだ観察が足りていないのだ。茜色の空が徐々に夜色に変わってゆくのは、空からの作用ではなく、地からの作用なのである。夜の直前は赤いのではない。赤いのはまだ昼から夜へ変わる最初の段階でしかない。赤くなったその後に、私たちは暖かく青い空気を吸い込むだろう。夜は青の向こう側にある色なのだ。黒は、白から赤を経て、青を通過して至ることのできる色なのである。黒は全ての色の混合ではない。ましてや、色彩を欠いた無でもない。青をどこまでも行った先に出会われる色なのだ。
ふだんどれくらいの頻度で空を見上げるだろうか。長い道の向こう、ビルのすこし上にある空に、ふと目をやることは少なくはないかもしれない。だが、頭から、首から、腰から、ここの、この真上にある空を見上げることは、詩人風の人であってもそうは多くあるまい。
きょう空の高さを改めて知った。どこかに見える空は決して高くない。それはもはや景色としての空であって、背景としての空にほかならない。君は空の高さを知っているだろうか。いま、ここから見上げられたこの空はとても高い。写真に写る空でもなく、どこかに見える空でもない。ただ、この真上にある空だけが高い。
単純に比較対象の観点から語るならば、田舎の空よりも都会の空のほうが高いかもしれない。都会では、私を数十倍、数百倍した高さの建物よりも、比較を絶するほど空は高い。驚くべき高さである。ときおりこのように常識を思い出しては驚いている。
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