第10話
騒動は収束した。
大きな傷痕を残しながらもしかし人々は日常へと戻っていく。
逃げ惑っていた市井の民も、犠牲者を出した軍部も、それを解決した『榊の枝』も、そして海城澪も。
最低限の生活設備しか存在しない牢の中。それこそが、彼の日常だった。
だが、今夜ばかりは違っていた。
「おー、いてて。あいつらここぞとばかりに本気で殴りよってからに」
などとぼやきつつ、同じ部屋の片隅でいそいそと、東雲霧生は寝床を整えていた。
その口の端には真新しいアザがあり、頭にはコブが作られている。
無断で澪を解放し、戦場を混乱させた罪による折檻を受けたのだと、負傷した腕を吊った椎名という若い監視役が、同僚と悪意交じりに話しているのが聞こえてきた。
「自分がその刑を執行したが、もしあれが原因で作戦が失敗していたら、追放や銃殺刑もありえただろう、それが残念でならないね」
とも。
「とんだ私刑だな」
自分が元凶なのに、他人事のようだろうか。言った後でそういう心配がよぎったが、霧生はまるで平然としていた。
「こうまでしないとみんなの溜飲が下がらない。それこそ私闘闇討ちに発展しかねんしな。ここが妥当な落としどころじゃねぇの」
と、こちらも他人事、というか客観的な考察を披露しながら、マントを解いてきれいに畳んだ。
「まぁそれでも、副長は俺やお前にそれなりの感謝や負い目は持ってるみたいでな。俺だけじゃなくて、お前の分の毛布を貸してくれるよう交渉してきてやった」
その視野の広さや洞察力を、澪は意外に思った。猪武者然とした彼だが、それなりに人や大局を見る目は備わっているらしい。
……だとしても、もう少し上手い立ち回りがありそうなものだが。
「まぁなんだ。朝からいろいろ騒動続きだったが、これから同じ釜の飯を食うもん同士、よろしくな」
軽装となった彼は、そう手を差し伸ばす。
思わず掴んでしまった男の手。その感触と温もりを思い出して……そしてそれにすがった自身を恥じて、澪はその身を硬く小さくしぼませた。
「ん? なんだよ知らねぇのか。しぇいくはぁんず。異国式のあいさつ。互いの利き手を預けて信頼と友誼を示すんだ。まぁ武士にも似た感じの奴はあるが、ありゃ掴むのは相手の左手首だ。お互い刀を抜くことを前提にしてる。だからどっちかと言えば俺は、こっちのが公平っぽくて好きだ」
と持論をぶつ少年剣士に、澪は反応を示さずにいた。
固まった理由はそこではないし、そもそも友誼だの信頼だのと謳いつつ、話しているのは一方的に自分のことばかりだ。相手の呼吸や顔色を確かめようともしていない。
「なんだよ、つまんねぇの」
かわいらしい舌打ちひとつ、対照的にふてぶてしいまでの悪態をつきながら、霧生はゴロリと地面に寝そべった。
「……そのつまんない奴を」
寝返りを打つように背を向ける彼に、澪はあらためて問うた。
「お前、どうして助けた?」
「言っただろ。お前が海の底でビービー泣いてたから、この霧生様が仕方なく」
「こんな目に遭うとわかっててもか」
生き方それ自体は利口というにはほど遠いが、それでも馬鹿ではない。
こうなることを予測していたフシがあるし、だからこそ、理不尽な懲罰も投獄も、甘んじて受け入れたのだろう。
ふんと鼻で笑ったきり、霧生は黙りこくった。
ふたりに興味を失った監視の足音が遠のき、気配が薄れる。
その後で、
「むかぁし、むかし……でもないか。うん、だいたい二、三年前。内戦のどんづまりだ」
と独り言のように語り始めた。
「やれ革命だなんだのと騒がれてたあの頃、あるところに、というか総督府の膝元に、まだ十五にもならんガキがいました。そいつは剣の腕も立つし学もあるもんで、小天狗とか言われて持て囃されてました。実際、『大海征』にこそ間に合わなかったものの、その後の内戦では若輩とは思えない武働きをしました」
「総督府側としてか」
『榊の枝』に所属する人間には、旧体制の支持者だった者が多い。何より十五の少年兵を戦場に駆り出すのは、瞬く間に劣勢に追い込まれていた総督府側でしかないだろう。
そしてその大半の末路は、あえて語るまでもない。
「ただ無心で、お家のため矜持のため国のためと信じて剣を振るった小天狗は、しかして敗残兵となって投獄されました」
「こんな風にか」
「取り調べではやれ兄の仇だ、親の仇だと責められ、肉体的にも相当痛めつけられた。こっちもこっちで妹と弟がお前らに略奪のドサクサで殺されてんだけどなー、とか思いつつ、所詮は負け犬だし、あいつらの身内を考えなしに斬ってきた事実は変わらないから、何も言い返すことはできませんでした。あの戦は誰もが加害者で、被害者だったのです」
「……」
「少年だったことで死罪はまぬがれた少年は、刑期を終えて外界へもどってきました。その時には戦も終わり、新時代が始まろうとしていた矢先でした。家族も亡くし、依るべき国も信念も打ち崩され、何者でもない男となっていました。そいつはこの世の春を謳歌する民を目の当たりにして、悟りました。あぁ自分がやってきたことは、ただの徒労だったのだと。ただいくつかの死体と罪を積み上げただけで、たかだか一兵卒が何かをしようとすまいと、もっと上の人間の気分で世の中は移り変わるのだと」
澪は、少年の絶望に深く感応した。感動でも、共感でもない。あるいは同調と言って良い。
あの嫁入り以降、異神と臥所をともにしてから、彼の世界は一変した。
父が自分を見る目が変わった。世界は、自分の変異などまるで無関係のところで変革し、その結果自分を含めた全てを奪われた。
「さてここで問題です」
「は?」
それなりに没入していた澪は、唐突な話題の切り替えに急に現実に引きも出されたように錯覚した。
「その少年兵くんは、当時その光景を見てどう思っていたでしょうか?」
「……憎い、とか」
少し迷ってからそう答えた澪はしかし、その違和感をおぼえた。
ふつうならばそう思うだろうが、かつての少年……おそらくは目の前の彼は、そんな通り一遍の反応を示すだろうか。
それに自分は、世を儚みこそすれ、憎悪など持っていただろうか。
彼の言う通り、あの時代の混乱に巻き込まれた被害者であり、加害者なのだ。自分も、父も、異神も。
「外れだ」
澪の予想どおり、彼の答えは否だった。
「けど、不公平だとは思った」
「不公平?」
「考えてもみろ。そいつが獄中暮らしをしていた一、二年で世の中は物珍しいもので一気に溢れかえり、人々はつらい記憶も自分の罪も洗い流して、いや洗い流そうとして、その御一新を謳歌している。そんな中で、なんで俺だけひとり欝々とせにゃならんのだってな。そう考えたらバカバカしくなってきてなぁ」
「バカバカしくって……」
「だから、そいつは今を全力で楽しむことにした。もちろん、やってきたことが消えるわけじゃないが、そう生きてたほうが得だ。……それに、外から拝めるお天道や青空ってのは、やっぱりいいもんだ」
しみじみとそうつぶやくように言って、彼はふたたび寝返りを打った。
そうか、と短く澪は相槌を打ち返した。
「どうして自分ばかりがこんな目に」と感じたところで他者や世間を恨むのではなく、みずからを生かす力に換えてしまうあたりが、この破天荒な男らしいと思った。そしておそらくはそれこそが、この男に自分の姿を重ね合わせた澪自身に足りなかったもの。
「まぁ、理由ってのはそういうことだ」
どう話を結ぼうか、そう悩んだ様子だったが、やや言いよどんで出たのはそんな曖昧で、面倒そうな調子の語句だった。
「どういうことだよ」
澪は目と口をやわらげて言った。
その表情の変化に、霧生はめざとく反応した。
「泣いた子どもがもう笑った」
そう言ってからかう同居人に、
「泣いてない」
と澪は唇を尖らせて否定した。
それでも、笑ったことだけは、否定しなかった。
その後、さっさと霧生は寝てしまったが、澪は腰かけたまま、じっと微動だにしなかった。
枕や寝所が変わって寝付けないほど繊細であったなら、この二年の間に死んでいる。宿をともにしているこの男への警戒は、まったくではないものの、さほどはない。いろいろと読めない男だが、夜討ちをかけられるほどに器用な人間性の持ち主ではなさそうだった。
ただ眠りに入れない理由は、彼にあった。もっと言えば、澪が注視している手にあった。
何かをつかむように半開きになったそこへ少年の意識は集中していた。
「……」
何かに惹かれるように、澪は膝を滑らせ進ませ、音を立てずに彼へと身を寄せた。
その手に、自分の掌を重ねようとする。
握手。自分の利き手を他人に預けて友愛を示す行為。
霧生には知らないのかとおちょくられたが、それなりに外に出る機会はあったのだから、とうに知っている。したことがないだけで。
ただ、言語化せずにその謝意を表現するには、いい手段だとは思っている。自分のような口数の少ない人間には、特に。
今それを、少年は初めて実践しようとしていた。
だが、
「うぅーん」
「っ!」
寝ている霧生は身じろぎすれば、自分でも大仰とさえ思えるほどに、澪はたじろぎ後退した。
思わずつかんだ自身の右手が、とくとくと脈打っている。
(というか、そもそも本人の認識してないところでやっても意味ないんじゃないか)
などと、今更のように思い直す。ただその一方で、素直に本人に感謝など絶対にできないという自覚はある。よしんば言えたとしても、おちょくられるのは目に見えている。
(わざわざ辱められることもない……こういうのは、要は自分が納得できるかが大事なわけだし……あぁでも本当にこれで満足かと言われるとそうでもなくて……あぁ~!)
時に自分に言い聞かせるように、あるいは無理やり納得させるように、脳内でぐるぐると想念が渦巻き、一度決心したかと思えば「いややはり」と翻意する。
熟睡する当事者を前に煩悶する少年の夜は、ゆるやかに明けていった。
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