第9話

 魂を潜らせる。肉体を沈ませる。

 一度閉ざした意識を開けさせると、澪と世界に冷たい水が満ちていた。

 人はない。人だったものであれば落ちている。血痕は洗い流され、銃器や刀剣が散らばり、空っぽの兵舎だけが墓標のように屹立していた。


 サンゴやフジツボが生えていることなどを除けば、世界の在り様はそのままなのに、自分と、目の前のそれだけが現実から弾きだされたかのようだった。


 神は目の前にいる。

 片腕をもがれたヤモリのようでもあり、逆に半端に腕をくっつけられて混乱する蛇のようにも見える。

 だが、蟲だ。おそらくまともな思考など持たない、ただ肥大化しただけの虫。


 しかし澪の心に嫌悪はない。胸に去来したのは、憐憫の二文字だった。

 彼に、この海はどういうかたちで見えているのだろうか。


 ぐっと奥歯を噛みしめて、足下の銃剣を一本、根菜の要領で慎重に引き剥く。

 飛ぶ。

 この幻想の海では、距離や時間の概念はない。ただ自分があるべき場所に、跳躍できる。

 それこそ、過去に遡ることさえも。あるいは……


 思考を打ち切る。それは人間の、自然の領分を超えるということだ。

 視野が狭いままのほうが良いということもある。今救うべきは、目の前にある。


 飛躍した先には、神の鼻先があった。いや鼻どころか顔かどうかさえも判別つかないが、それでもそこが彼の生命を司る部位であろうことを本能的に悟り、そこに切っ先を突き立てた。

 せめて苦痛が長引かぬよう、強く、素早く。


 断末魔の悲鳴はなかった。

 代わりに、残った腕が、すがるように伸びて、澪の頰に触れた。

 異神の記録、生命の情報が、その接点を介して少年の脳裏に流れてくる。


 それはやはり、神ではなかった。

 ここではないどこか、遠い国、荒涼とした大地を耕すために、それは生み出された。

 体内で精製した水で乾いた土地を柔らかく作り、土壌を作るためのいわばありふれた家畜。


 だが、機械仕掛けの鍬の集合体の台頭が、彼らに取って代わった。

 簡単に、かつ短期間で量産ができ、種は問わずともそれなりの草食と生育期間を必要とする虫たちに比して、それは微量の雷のようなもので事足りる。操作も精妙そのもので、大味な動きしかできないその生きた農耕具を使う理由がなくなった。


 時代と技術の変遷とともに持て余されたそれを飼い続けていられるほど、土地や資源が潤沢な世界ではなかった。

 農家や養殖業者で不法な投棄が相次いだ。


 その世界は結局滅んだのかどうかは定かではない。

 だが忘れ去られ、朽ちていくなかで、そのうちの一匹がこの地に漂流した。

 冷却され、冬眠のごとき処理をほどこされたそれは古代人に発見され、奇しくも農耕の神として崇められた。

 だがその安寧の眠りも、無思慮な人々の侵略によって妨げられた。


 目覚めた彼に怒りはない。悲しみの感情はない。

 ただ「どうして」という戸惑いと混乱があって、その肉体に残る己の使命に従っているだけに過ぎないのだ。

 あぁ、と澪は彼に代わって憤り、悲嘆した。


(僕と、同じだ)


 自分の預かり知らない場所で運命や役割を決められて、けどそれを拒めるほどの明確な意思のない肉の人形。

 弄ばれ彷徨い果てたすえに、壊れて、誰からも必要とされなくなった、この世の異物。


 意識や目が閉じたわけではない。だが、少年の心がそのまま重石となったかのように、視界を端から濃い闇が埋めていく。沈んでいく。

(だったら、せめて)

 みずからを求めてすがるその手を抱き寄せ、胸に手を当てた。

 腕の中で、生命の灯火が消えるのを感じる。鼓動が停止するまで、じっと澪は神のそばにいた。あの時のように。あの時から、結局自分の心は停止したままで、心は凍りついたままだった。


(人形同士、ここで心中するのもいいか)


 そして彼らは沈んでいく。誰に流されることもなく、犯されることもなく、触れることさえない無明の底へと。


 あぁ、それでもと、一抹の感情がよぎる。

 やはりこれは、ここは、寂しいと。

 ――人で、いたいと思ってしまう。

 

 知れず、きつく自身と神とを縛っていた彼のその手が、半開きになった。


 その手を、誰かがつかんだ。


 大きな手。節くれだった、素朴な手。かすかに菓子の甘い匂いを残した、温かい手。


 刹那、彼の魂は深海から急浮上をはじめた。つかんだ男の腕が力任せに引いているのか。それとも自分が進んでいるのか。あるいは死んだ異神の遺志が押し上げているのか。

 その動力の源が不明瞭なままに、意識は目覚めた。


 そこは現実で、事後処理に追われる隊員たちが副長の指揮のもとにせわしなく往来し、そして……東雲霧生は、澪の手をつかんでいた。

「おぉ、爺ちゃんたまには正しいこと言うんだなぁ」

 と、声を微妙に弾ませて。


「――なんで」

 なんで、つかめた?

 なんで、わかった?

 なんで、助けた?


 万感の感情は、たった三字に集約された。

 少年は茫洋とした表情は崩さなかった。

 大儀そうに頬をかいて、ただ目だけをわずかに細めて、応えた。


「澪がで、泣いてそうだったから」


 風が凪ぐ。髪が揺れて浮き上がる。外気にさらされた頬が熱い。目の前の彼の口から自然に出された、飾り気のない答えが、胸を焼いた。


 唇を、ぐっと噛みしめる。口の端に、潮を感じた。

 本当は、せめて一言でも感謝を伝えたかった。

 しかし言葉がうまく出なかった。いや、出そうとすれば、今までせき止められていた感情の堤が、決壊し、あふれ出てきそうで抑えきれる自信がなかった、といったほうが正しい。


 必死の思いでそれを胸の内に飲み下す。

 そこでようやく口から突いて出たのは、

「泣いたって、わかるわけがないだろ」

 という、悪態だけだった。


「だって目赤いし」

「赤くない」

「頬に痕が残ってんぞ」

「泣いてないッ!」


 そんな丁々発止を締めくくりに、少年の、人間としての初任務は終了を迎えたのだった。

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