短編…?

沙夜

望み

 静かな夜、かすかに歌が聞こえる。月もない真っ暗闇、人気の全くない神社の街道で影がゆっくりと動いている。小さな、その人のかたちの影は一般的な歩く速度よりもさらに遅く、足音も立てず進んでいく。けれども、その足取りはほとんど道が見えていないとは思えないほど確かだった。か細い歌はこの人影から発せられていた。歌は老若男女問わず誰もが知っている歌だった。

子守唄。

地方によって少しばらつきがあるが、幼い頃誰もが母親もしくは育ての者になんども聞かせられる歌。

影は社の手前にある橋で立ち止まり、その段差に腰掛けた。腰掛けたところで声が大きくなるわけでもなく変わらず歌っていた。神社の敷地内で聞こえるのは、歌と風に揺れて擦れる木の葉だけだった。


少年の歌う子守唄が、腰掛けてから数えて二周もしないうちに、社の方から鈴と衣擦れの音がきこえた。それらは徐々に橋の方へと近づくと少年の前で途絶えた。

「お前さん、こんな時間にこんなところで何をしている」

鈴と衣擦れの主は、白い衣をまとい、真っ暗闇のなかでは光っているようにも見えた。少年は白い衣の端を見たまま、母さんに会いに、と小さく答えた。

「こんな夜中にか。可笑しな母親もいたものだ」呆れと驚きの混じった声。

「母さんはおかしくなんかない」

これまでと違い、どちらかと言えばはっきりと少年は反論した。白い衣の者は少年が腰掛けているのを見て、母親が来るのを待っていると思ったのだろう。しかし実際はそうではなかった。

少年の母は彼の家で眠っているのだ。それは夜だからというだけではなく、治る見込みのない病を患っているからでもあった。夜の身支度を終えた少年が母に挨拶をしに行くと、手招きをされた。枕元まで近づくと母の瞳は眠る前だというのに大きく開かれていた。以前は大きな瞳をしていたが、床に伏してからはいつ見ても細められた瞳。それがかつてと同じように開かれていた。そして彼の母は言った。これから私は眠るけれど再び目覚めるとは思えない、眠るその前にお前をしかと見ておきたいと。

「母さんは今夜死ぬのだろう。僕は一人残される。水のない川に架かる橋のようになくてもいい存在になる。人々は橋ではなく干枯らびた原を渡ればいいのだから。母さんのいない世の中に価値なんてない。」

少年にとって母は全てだった。物心つく前に父を亡くし、本当に家族と思えるのは母だけだった。祖父母は少年を息子のかわりにと思い、母を軽んじた。親戚はそれを見てみぬふりをするか、世間体が悪いと母子を疎んじた。それらのことは母が病に倒れるとさらにひどくなった。母が倒れると少年は幾度となくこの神社に来ていた。それこそ道を覚えてしまうほどに。


「暗い時間に神社に行くと神かくしにあうって聞いた」

開きそこねた心のように少し固い声で少年は言った。死んだ人は黄泉か幽冥に行って神になる。神と同じ世界に行けば、また母さんに会える。そう少年は思っていた。もちろん母を追うこともできた。けれど母によって与えられた命を自らの手で捨ててしまうのは、愛する母に悪いと思った。さらに母のせいで自分が死んだと祖父母や親戚その他の人々に言われるのは、たとえそれが事実で、また死んだあとのことはどうでもいいと思っていても、嫌だった。それならばいっそ神かくしにでもあってしまえば。人々は母を悪くは言わないだろう。神が母親を亡くした子供を哀れに思い連れ去ったと都合よく解釈するだろう。そして自分は神と同じ世界で再び母に会える。

「連れてってやろうか」

白い衣の者はわらって言った。母が元気だった頃祭りに行こうといった時と同じような軽さ。この言葉の意味は聞かずとも分かる。

「そうだったらいいなと思っていた」

少年は白い衣の者を見上げた。その声は先ほどの固いものではなく、光を見つけたかのような明るい響きだった。見上げた先の淡く光って見える顔は、異国人のそれよりも白く、死者のものとも違う生気のなさを漂わせていた。神のいる世界はどんなところなのだろうと、少年は白い衣の者を見ながらぼんやりと思った。思ってすぐ、母に会えるのならどこでも構わないと思い直した。

「そっちに行ったら死んでしまった人とも会える?」

少年は、彼にとって一番大切なことを確認した。

すると白い影は頷いた。

「ああ。しかし亡くなってすぐの者なら少々面倒だぞ。いそいで渡らねば会いにくくなるだろうよ。それと、全てがお前さんの望む通りになるとは思えんがな」

声は二人称を意識しているように言う。少年は言葉につまった。子供が願うには大きすぎていると言われたと感じた。

それでも母に会うために。元気な母と共に過ごすために。

「かまわない。母さんといられるのなら」



***



ハァッハァッ

薄暗い洞窟のようなところを少年は走っていた。息切れしているが、足をはじめ全身の感覚は鈍く、苦しさはさほどない。どれくらい走ったのか、後どれくらいで出口につくのか、何も分からない。ただ母よりも先に着くこと、それだけを考えていた。


白い衣の者と別れてどれほどの時間が経ったのか。やがて視界がひらけ、小石がまかれた広間のようなところについた。空は曇っているのか、どんよりとしている。息を整えながら周りを見渡すと、ぽつぽつと人がいた。きょろきょろと首を振る人や、ゆっくりと歩く人、時々立ち止まる人。その流れを見ると、どうやら自分が出てきた道と違う道から、彼らは皆来ているようだった。

しばらくの間彼らを見ていると、一人の女性に目が吸い寄せられた。短い髪、可愛らしい服装、踵の高い靴。着飾ることが少なかった母さんとは余りにもかけ離れている。けれども、足は勝手に動き、ふらふらと前に進む。母さんだ。間違いない。あの人は僕の母さんだ。頭で考えるより先に体がそう理解した。ようやく思考が追いついたとき走り出した。母さんとの距離はそれほど離れていなかった。母さんの前に着くまでのその短い時間がとても長く感じられた。それこそあの洞窟のようなところを走っていた時と同じくらいに。

「母さんっ」

胸に懐かしさと愛おしさを抱きながら叫んだ。なぜ僕の知っている姿と違うのか、なぜ息子を目の前にして驚き以外の表情がないのか、そんなことは全て頭から抜け落ちていた。今ここに母さんがいる。それだけでよかった。

しかし、そう思っていたのは僕だけのようだった。母さんは驚いた表情のまま何も言わなかった。母さん?ともう一度呼びかけると、母さんは答えた。



「あなたは、誰?」



聞き取りたくはなかった。けれども僕の耳は母さんの声を、その懐かしい響きを拾ってしまった。離れたくなかったはずなのに、離れたい気持ちが侵食する。


「たしか私はあの人といたはずなのに。二人でいろいろな景色を見ていたわ。次は海を見に行こうって。そうね、水着でも持っていこうかしらって。お互いに笑いあったわ。幸せだった。それなのに……。ここはどこ?あの人はどこなの?」


記憶をたどるかのように続ける。遠くを眺め、微笑んでいた。あの人って誰?二人で景色を見た?わからないことばかりだ。母さんと会えて嬉しい思いは、はじめの一言でどこかへ行ってしまった。頭がうまく働かない。母さんは何を言っているのだろう。どうして僕を見てくれないのだろう。

「ぼ、くは、僕は!あなたの息子で、あなたは僕の母さんで、ずっと一緒だと思っていたけどだめで、母さんは病気で死ぬから同じところにいたくて、だからここまで来て、えっとだから、それで、えっと、

母さん!」

最後の呼びかけで母さんが僕の目を見た。その反応に喜ぶ間もなく、母さんの表情が変わった。恐ろしいものでも見るように顔が険しくなっていく。唇を震わせ、首を振りながら言った。

「いや、あなたなんて知らない、知らない、やめて、知りたくない、嫌よ、いや!」

終わりの方はほとんど叫ぶようになり、彼女はその場にうずくまる。少年は立ち尽くしたまま女性を見下ろしていた。


何もかもが動きを止めたようなその数秒後、鈴と衣擦れの音が少年に近づく。

「望んだ通りにはならなかったようだな」

神社に現れた白い衣の者は言った。暗闇に光って見えた姿は、いまは常人と変わらないように見える。

少年の望み。

それは死んでしまった母と会うこと。再び共に過ごすこと。少年の願いは叶った。母に会い、またおそらくは共に過ごすことも不可能ではないだろう。ただ、彼の母は息子のことを知らなかった。その存在を忘れていた。

「なんで……」

少年の口から漏れ出た言葉。純粋にも母も会えることを望んでいると信じていた彼は、自分を知らないと言い張る母を見て、なぜと思わずには入られなかった。彼女の言葉は本心からだった。何も理解することができない。

「そもそもここで母親と会えた時点でお前さんとは時間がずれているのさ。もしあの時そのまま死んでいれば、お前さんがここに着く頃にはもう母親はここを通り過ぎているはずなのさ。この女はあの後回復し、4年ほど生きた。あの夜息子が神かくしにあったと聞くと悲しみのあまりおかしくなり、そしてあるとき、全てを忘れたのさ。そのあとひとりの男に見初められ暮らしていたが、出かけた帰りに事故に遭って死んだというわけだ」

白い衣の者は手品師が種明かしをするように、どこか楽しげに説明した。少年は首を回し話を聞いていたが、母の言葉の意味を理解すると力なく言った。

「そんな……僕は何のために」

白い衣の者はそんな少年を見下ろしいう。愛しいものを眺めるように目を細めながら。

「お前さんや、そばに来ないか。お前さんの肉体はもうない。このまま面倒な存在になってもらっても困るのだ」



***



「――さま、じか――すよ」

遠くで呼びかける声がする。心地よい声。まだ起きたくない。もう少し。もう少しだけ。しかし、声のぬしはその少しを許してくれない。

「いい加減起きてください!」

優しい声音が苛立ちのような響きに変わっていく。この者は怒らせると面倒だ。わかったからそう怒らないでくれと呟き、まだ気怠い体を起こす。

「ほかの方々からお呼び出しされたことをお忘れですか。月のない夜にと言われたではありませんか。いかに移動時間がかからないとしても、さすがに遅れてしまいます」

少年は呆れ顔で並べた。ああそういえばと思いながら、少年の顔を眺める。なんと懐かしいものを思い出していたことか。あまりに静かな暗闇のせいだろうか。

「お前さんや。私はわがままだろうか」

少年は突然の質問に一瞬驚いた表情をしたが、もとの呆れ顔になり、ため息と共に言った。

「何を今さら。そんなことは僕があなたと出会った頃からではありませんか。まだ寝ぼけているんですか」

早く準備をしてくださいと最後に付け足すと、自分の準備のためか部屋から出ていってしまった。

「ああそうだったな」

後ろ姿を見ながら言う。小さいことは変わらないが、ここにいることが当たり前になった背中。それを手に入れるために自分がしたこと。

頭を振り、また怒られないためにおとなしく準備を始める。今日の用事は面倒だ。早いこと終わらせて寝てしまおう。


おわり

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