変わらぬ私と
新吉
第1話
「ついに見つけたんだね」
目の前の少年は不気味に笑う。
私はもう自分を変えることができなくなった年頃の女だ。よくいえばルーチン、悪くいえば悪癖。朝起きてコーヒーを飲む。夜寝る前にサロンパスを貼る。365日毎日の日課だ。部屋とワイシャツとコーヒーと砂糖と牛乳とサロンパス、あと氷、あと私。これが私の最低限の文化的生活の必需品。
なにも変わらない。それがいつしか私の心の安定になっていく。いつものコーヒーがなかった時、いつものスティックシュガーがなかった時、サロンパスのあの匂いがなかった時、どれほど心細いか。若い時はたまにはいいかなんて余裕があったのだけれど、今はもう、ダメになってしまった。
変わらないで、何も。そんな願いは叶わない。変わらないことは決していいことだけじゃない。何よりも自分自身が年老いていく。1年、1日、1秒ずつ歳をとっていく。変わらないで、私。まだもう少しこのままでいたい。
「コーヒーには砂糖は入れますか?」
はい
「牛乳は入れますか?」
はい
それだけじゃないくらいのこだわりがあるから絶対に外ではコーヒーは飲めない。とはいってもインスタントコーヒーだし、スティックシュガーだし。3つ入れるけど。会社の定期検診で糖尿病と言われた。
サロンパスの匂いのする女でよかった。だから普通タイプのをごっそり買う。肩と腰とふくらはぎに貼らないと眠れないのだ。いつもの薬屋で匂いなししか置いてないと言われた。
出張先の知らない街なのに、いつものセットがない状態で来るのは初めて。なんだろうこの装備、不安で仕方ない。まるで裸で歩いているみたいで、すごく恥ずかしい。どうしよう、砂糖を1つに減らせばいいかなあ、ブラックなんて飲めないし、でも今のブラックならもしかして美味しくなってるんじゃない?しばらく飲んでないし。ふと思い立って自販機の前に来る。いざ自販機の前に立っても、コーヒーにはブラックと微糖とがある。微糖すらきっとダメなんだろうな。砂糖の入ったものは控えてって言われたんだし。職場で水とお茶を買う以外用のない彼、そのコーヒーのボタンを初めて押す。ブラックだ。ガッチャカチャ、小さい頃は開けられなかったスチール缶のプルタブを開けて飲む。苦い。
「やっぱり苦い」
「大人でも苦いんだ」
びっくりして隣を見ると少年がいた。学校帰りといった風貌で、1人だった。
「はは、まあね」
子どもは苦手だ。どう扱っていいかわからない。別に話を広げようと思っていたわけではない様子の彼はじゃ、と言って去っていく。なんとなくそのまま自販機の前から後ろ姿を見ていると彼にペットボトルが飛んできた。甘い甘い砂糖が半分は入っていそうな炭酸。黒い液体が半分は入っている。私が飲んではいけない甘い飲み物。
「ナイスシュート!」
辺りを見渡した。何人かの集まりがあってそのうちの誰が投げたのかはわからなかった。当てられた少年はすぐに駆け出した。当てた彼らは特別追いかけるでもなく彼の話をしながらゾロゾロと私の方へ歩いてくる。
「ジミーくんはなんで喋んないんだろうな」
「知らねーよ」
「てか、炭酸もういらないの?」
「飽きた」
「ねえ、」
「なんだよおばさん?」
「いつもあんなことしてるの?」
「あ?だから何?」
「なんでもないよ。他にやることないのかって思っただけだから」
「ああ?」
「安心してよ、あんたらの学校の名前も知らない、よその人だから。ちくんないよ」
彼を探さなくちゃ、走るのなんて久しぶりだけど。すでに靴づれしてるけど。知らない街を走って、走って、痛くて、よく考えたらなんでこんなことしてるんだろうと思った。よその名前も知らない子を探してどうするんだろう。ただのなんの取り柄もない女が。走っているうちに川に出た。河原は夕陽に包まれてなんだか光って見えた。そのまま降りていくとすこし先に体育座りの人影が見えた。彼だ。
「ねえ!」
「ついに見つけたんだね」
目の前の少年は不気味に笑う。
「ねえお姉さん、あれだろ?異世界から来たんだろ?俺をそっちに連れて行ってくれよ。ここに来るまでも何回か車にぶち当たろうと思ったんだけど。迎えが来てるってことは俺、もうどっかで死んで、実はもう転生してるんだろ?チート設定になってるからさっきのもあんまり痛くなかったんだろ?スーツ着てコーヒー飲んでいかにもな感じなのに苦いなんて言って。この世界の人じゃないんだろ?」
異世界?転生?チート?何の話をしているのかさっぱりわからなかった。とにかく最後の一言には反論。
「スーツ着てコーヒー飲んでるからって、ブラックはやっぱり苦いよ。やっぱり砂糖はスティックで3つは入れないと、」
「3つ?甘いよ、やっぱり普通じゃねぇ。俺を連れてってよ」
「どこに?うちの家に?親御さんとかの許可がないとそんなことできないって。それに車に当たるって何?死にたいの?」
「生き返りたいの、一回死んで別の世界で」
「バカでしょ、そんなことできるわけないじゃん。あんたいくつよ?ていうか全然喋るじゃん」
「喋んないよ、学校じゃ」
「なんで?」
「なんでも。話すやついないし」
「学校なんてね、一生続くわけじゃないよ?高校もあっという間だし専門とか大学はわかんないけど」
「一生続かないけど今が辛い」
「今かあ。趣味とかないの?」
「軽い!慰める気あんの?」
「ないよ。うちも学校で喋んなくていじめられたけど、それはそれは辛くて悲しんで被害者ぶってそのせいで今も頑固になっちゃってると思うけど」
そうだよ、私は。
「私は楽しくやってるよ、好きなこと見つけたからね。それしてる時はやらなきゃいけないこととか、頑固な自分が軽くなる気がする」
「ねえ、それって何?」
「教えない。自分で探してよ、さっきあんたを見つけたみたいに」
「教えろよ、そこは」
「走って靴づれになっても見つけてあげたんだから、ちょっとはその生意気な態度なんとかしなさいよ」
「あ、本当に靴づれしてる」
ばんどいーどをくれた。いい少年じゃないか。連絡先を交換し合おうと言われて、だいぶ焦ったけど。
それからそれから
朝起きて砂糖なしミルクコーヒーを飲んで、会社に行って、休憩時間に小説を書いて、帰宅してサロンパスを貼って小説を書いて。
「お、早速」
『この主人公に共感できない。1文が長い。〇〇のとこのセリフ説明になっててくどい…』
「ひゃーいっぱいある、直さなきゃ!あ、その前に返事、」
『ありがとう!直す、直したらまた上げとくから。あんたの小説面白かった、あの空に飛んでくところなんて、すごいよかった!』
『抽象的だな。誤字とかなかった?』
『〇〇のセリフの前の地の文…』
それからあの少年と小説の感想や評価の言い合いをする日課が追加された。
きっと若い彼はこれからどんどん変わっていくんだろう。それでいい、それがいい。
変わらない私は、変われないわけではなくて変わりたくなかった。このままでいい。私もなにも変わらない方がいいなんて思ってたけど、そんな風に思ってた私が少し変わった。
『じゃ、体に気をつけて』
やっぱりいい子だなあ。
『ありがとうね』
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