清末の天啓 太平天国興亡記
コミナトケイ
落第生いかにして天王になりしか
中華帝国『
ある男が役人になるための
しかも3回目である。
アヘンの密輸によって民衆が汚染され、一部高官や外国人は巨万の富を得ている。
売宮とって、カネさえ払えば役人になれてしまうという、官僚腐敗の進行。
こうした中国の現状をなんとか変えたい!
――けれど、いつまでも役人試験を突破できない。
青年・
青年はひどく落胆して、町をあてもなく歩いていた。
途中ある小柄な老人から声をかけられる。
「真の中国の救世主は神、すなわち上帝だけである」
そう説いた老人は、悩める青年に一冊の本を手渡した。
その本は、キリスト教という、異国の宗教の手引書であった。
そういった経緯を、一族の知り合いであった
「宗教なんて、信じても一向によくならないよ。まったく、本当に神がいるなら会ってみたいよ」
と愚痴を漏らした。
……その夜、秀全は夢に上帝とキリストを見ることとなる。
あくる朝、秀全はその体験を事細かに親友の
みずからもそんな夢を見るまでは半信半疑だった。
だが、これで秀全は確信した。
自分に直接キリストが出向いたということは、自分が天帝に親しい特別な人間――キリストの弟なのではないか、と。
数年後。
キリスト教に理解を示すようになった馮雲山と共に、彼は異国の教義を広めようと精力的に信者を募ったが、うまくいかなかった。
少し自信をなくしていた秀全に代わり、馮雲山は遠くの地にまで出向いて信者獲得に燃えた。
その道中偶然出逢った地主の息子・
その中には、のちに影響力を大きく持つようになる、
とりわけ秀全や雲山を喜ばせたのは、神の声を聞くことができる、と称する
彼らふたりは洪秀全に神の言葉を伝えた。
「洪秀全よ、天父と天兄が権威を与える。おまえが弟たちを率いて、平和な世界、地上の天国――そう、太平天国とでも云おうか――そういった世界を創るのだ。悪の巣窟、清朝を倒してな」
だが、楊秀清は
「神の言葉をお伝えするのに二人もいらない」
と蕭朝貴を暗殺してしまうのであった。
悪の
そういった中、ただでさえそういう理由で国力が削がれている時に、『
その動きを承けて拝上帝会の統領・洪秀全は1850年に大きな集会を開いた。
秀全はその場で高らかに、
「清朝を滅ぼし、地上の楽園・太平天国を、自らを
という野望を宣誓する。
一方、楊秀清は『神のお告げ』を披露した。
「上帝の力を恐れた清朝が、近く大弾圧をかけてくるでしょう」
それというのも馮雲山が上帝会の情報を漏らしたからだ、とも忘れずに。
「なっ!? ち、違うよ洪。お前は信じてくれるだろう? いちばんはじめの時から支え合った親友じゃないか……なっ?」
狼狽しつつも自らの無実を必死に訴える馮雲山だったが、洪秀全は込み上げてくる怒りを抑えられず、
「馮よ……上帝が嘘をつくとでもいうのか?」
と低い声で責め立てる。楊は、
「洪天王。あのような悪に魂を売った男など信用するに値しません。上帝は即刻首を刎ねよと仰せです」
と奏上。秀全は、最後まで身の潔白を主張する馮雲山を、神のお告げに従い斬首した。馮は最期、
「秀全……それでは清の役人と大差ないぞ……」
と漏らして、往った。
幸運なことに、清軍の林将軍が病死したこともあり大弾圧は避けることができた。楊のお告げによるところでは
「馮を罰したので神がお赦しになられたのです」
とのことだった。
その二年後、信者を100万人余りまで
死闘の末、太平天国軍は清朝の大都市・
1853年のことである。
太平天国はそこに腰を落ち着けて、都市名もそれらしく
また楊秀清等を副官にあたる府王に任命し、自らの受け持つ地域(府)を治めさせた。
つづいて洪秀全は清の悪習と位置づける『
男女を平等に扱うとも定めた。
こうした諸改革のもと洪秀全が天王となり国を治めたのだが、唯一神の声を聞くことができた楊秀清が、軍部を思いのままに動かせるほど強大な権力を握り、天王と肩を並べるほどの一大勢力となった。
太平天国は地上の楽園などでは決してなかった。
極端なまでのストイックな精神で民を縛りつけた。
纏足が治らず足を痛めている女性でも平気で王宮建造などに徴収し、こき使った。天朝田畝制度などは実際に機能せず、清朝と変わらぬ搾取が行われた。
ただただ醜い現実であった。
それを証拠に、中華帝国にはつきものであった、指導者同士の争いもおこった。
天王位奪取に身を燃やしていたのが、あの天のお告げを聞くことができるという楊秀清である。
「お前は信仰心が薄い。だから一向に中華を統一できないのだ。お前には天王を退いてもらう。代わって、楊に全権を委任する」
……楊秀清は今迄『神のお告げ』を
そう、お告げなど最初からなかった。
蕭朝貴もそうであったかまではもはやわからないが、とにかく、楊秀清は自らが王位に就くために昔から機会を窺っていたのである。
韋昌輝に連れられそのことを盗み聞きした秀全はその場で楊を斬首した。
だが、今度は韋昌輝が背いた。
韋昌輝は馮雲山を真の天王と位置づけ洪秀全を脅迫・監禁し、頂点に立ったのだ。
「馮雲山こそ真の教祖なのだ! 彼の教えを正しく知っているのは、もはや私だけ。私の命令こそ絶対なのである!」
だが、それに一石を投じたのが馮雲山の娘。彼女は、
「父親はあくまで洪天王の教えを広めたに過ぎません。天主こそが上帝にもっとも近い存在だと存じます」
その主張をやはり気に食わなく感じた韋は、彼女を見せしめのため大広場で処刑。
このように、韋昌輝は自らの意にそぐわない者を次々と処刑していった。
このような恐怖政治がまかり通っていて、何が天国なのか。
当然これに反発する者も現れる。かつて同じ時期に入信した、石達開である。
石達開は韋昌輝の居城を包囲し殺害した。
「……太平天国は、もはや天国ではない。悪の巣窟、地獄そのものだ。ここはもう終わりだ。潰えるのも時間の問題……私は天国の崩れ行くさまなど、見たくない。探そう……私の天国を」
絶望した彼は、そのように言い残して太平天国を後にしたという。
以後、彼の消息はわかっていない。
こういった王位をめぐる対立により混迷の渦に立たされれた太平天国は、一時は清と肩を並べる大帝国だったはずが、いつしか清の反撃に押され追い詰められていく。
中国を二分するもうひとつの帝国・清では9代皇帝・
戦争の処理ばかりの日々で皇帝は精神を病んでいったが、国としては手を
あくまで軍事衝突を避けたかった清朝は、懐柔策に出たのだった。
ところで、塞ぎがちであった洪秀全が久々に浮足立っていた。なんせ十数年かぶりに、親族の洪仁玕に逢うのだから。
古くからの知り合いはみな内輪揉めで亡くなっていたので、これ以上に嬉しいことはなかった。
積もる話でもして時を忘れたいと思っていたが、いざ逢ってみると、
「裏切られた」
という心境に襲われた洪秀全。
久々の旧友は、西洋のスーツというものに身を包んでいたのだ。
「実は僕、清朝とイギリスに降伏してもらいたくて逢いに来たんだ」
彼は太平天国の外にいたので、すっかり感化されていたようであった。
信教を同じくしているのにもかかわらず天国を滅ぼそうとしている悪の手先、イギリスに。それが秀全にとって全くもって気に食わなかった。
「……降伏だと!? ありえぬ!」
そんな秀全の心境を知ってか知らずか、洪仁玕は訴え続けた。
「太平天国は醜い人間の私利私欲によって衰退した。これが天国の沙汰だろうか? 早く気づくんだ、神の加護なんてない、あの日の君が見た夢も幻だっていうことを……」
秀全は洪仁玕を獣のように睨みつけ、護身用の短剣を手に取り叫んだ。
「……黙れ。貴様、さては悪魔だな!? 洪仁玕の姿を真似たところで騙されるものか!」
秀全に刃を突きつけられた洪仁玕であるが、彼はなお臆さずに、
「どうかしている! 今からでも遅くない、これ以上の争いは無益だ。投降を――」
秀全は手にしていた短剣で、彼を斬り捨てた。
やむなく清朝は本格的な総攻撃を決定。
瞬く間に清朝に領土を奪い返されてゆき、1863年、ついに天京付近を残すのみと相成った。
さらに不幸なことに翌年太平天国は建国以来の大飢饉に見舞われた。
清へ逃亡したり、それすらままならず餓死する者も多く出た。
食料がないので民衆は雑草、木の皮、挙げ句の果てには自らの頭髪まで食するようになった。
国全体がこのような現状だ、軍隊の力も以前の勢いなどなかった。
当然、敗北を重ねていった。
かつて共に戦った仲間もみないない。
新たな名将・
日増しに太平天国が弱まっていくのが、清の側からもわかったほどだ。
「天国は、人間なんかに滅ぼされない……上帝様のお導きがあるんだ。そうだ、天国が滅ぶなんて、あるわけがないんだ……ははっ、ははははは……は、ゴフッ!? ゴホッゴホッ……」
洪秀全は血を吐きながらうわ言を繰り返すばかりで、心身共に完全に病んでしまっていた。今の彼には天王の威光が全く感じられない。これを見かねたのが、孤軍奮闘する李秀成将軍だった。
「こうなっては……もうダメだな。さあ殿下、行きましょう。……心配なさらないでください。天国は、私が護り抜きます」
彼はまだ小さなこどもである秀全の息子に天王の位を継がせ、少ないながらも付き従ってくれる民衆を最後まで導いた。
彼の必死の抵抗もむなしく首都天京が陥落。
李秀成と幼い洪秀全のこどもも捕らえられて、殺された。
地上の天国と謳われた神の国は轟々と音を立てて、滅亡したのであった。
「……地上の天国は、決して崩れたりしない。そうでしょう、上帝様……」
崩壊する城の中でただ一人、寝たきりのまま、天王でなくなったことも知らず。
洪秀全もこの世を去るのだった。
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