第4話 最後のハコ
もう沢山だ。もう沢山……。沢山の人があることないこと好き勝手に……。でも幸いだったのは、よく分からないけど大山ヒカルが支配する6人部屋から僕が脱出できたことだ。僕の態度が良かったからだろうか? よく分からない。そういえば、僕は新たな環境に来てからよく人と話す。何だか少しお喋りになったかもしれない。僕はお喋りが楽しかった。特に白い髭をたっぷり蓄えたおじいちゃんと話すのは楽しかった。そう、目の前にいるこのおじいちゃんだ。名前はたしか赤松という名前だった。赤松さんは良い人だった。
「阿川さん?」
ほら、僕の名前もさんをつけて呼ぶ。やっぱり赤松さんは良い人だ。
「阿川望さん?」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「今日は少しだけ辛いお話をするかもしれません」
「はぁ」
僕はポカンとした顔をしながら頷いた。赤松さんの声が僕の耳に届いた。低く、ゆっくり、安定したトーンの声が。僕は思った、この声はこの白い部屋に合っていると。とても合っている、と。
「今日は川端愛さんのお話をしましょう」
「はい」
「川端愛さんを愛していたのですね」
「はい」
「すごく?」
「そりゃ、もう」
「ご自分がストーカーである、という自覚はありましたか?」
「……はい。でも、アイが何をしているのか気になって仕方がなかったんです。いけないことをしているという自覚はありました。もしも、アイが生きていたら謝りたかったです」
「そうですか……。ところで、いつ頃から川端愛さんの盗聴を始めたのですか?」
「いつ頃でしょう? え~今も段々と時間感覚が無くなって来ているので思いだせませんが、大体事件が起きる一年前ぐらいからだと思います」
「なるほど」
「あ、あの……」
「なんですか阿川さん?」
「ノゾムは見つかったのでしょうか? 遠藤さんから何か聞いていませんか?」
「……そうですね。遠藤さんは何といいました?」
「見つかったけど、少し待ってほしいと……」
「そうですか」
「たしかノゾムの人数が多くて、捜査で行き詰っているとも言ってました。僕なら一発でノゾムを地獄に引きずり落とせるのに」
「ほぅ」
「アイの親友にマコトという女友達がいました。彼女ならアイに頻繁に会うのでノゾムの顔を見ている可能性があると思います。人数が多くて分からない、というのならマコトにそのノゾム候補の顔写真を見せればいいと思いませんか? それにアイのスマホには絶対にノゾムのスマホの番号が登録してある筈です。ノゾムがずる賢く、それすら消していたとしても、電話会社に通話記録が残っている筈です。ノゾム候補の中から必ずそれに該当する人物がいる筈です! そうすればノゾムを見つけ出すことが出来る筈です。あとは、そのノゾムのアリバイを徹底的に調べ上げればいい。絶対に奴は午後7時頃のアリバイがない筈ですから。もしも、あったとしても、それは何らかのトリックを使っている筈なんです」
「なるほど。よい意見ですね。あとで遠藤さんにも伝えておきます」
「ありがとうございます!」
「では、川端愛さんの話に戻りましょうか」
「……はい」
「ここで何度も話したかもしれませんが、松たか子似の方だったそうですね」
「そうです。僕は好みの顔じゃなかったのですけどね」
「どうして彼女のストーカーになったのですか?」
「それは……、上手く説明できません。気づいたら好きだったのです」
「顔が好みじゃないのにですか?」
「はい」
「質問を変えましょう。最初に彼女を見たのはいつでしたか?」
「え~。あれは……、いつだったかな……。大学のキャンパスで……。いや、花火大会の土手で歩いている姿を……。いや、違う。ごめんなさい。思いだせません」
「構いませんよ。ゆっくりで……」
……そんなことを言われてもなぁ、と僕は思った。僕は一度赤松さんの方を見た――が、赤松さんは目を瞑りアゴ髭を触り、待っていた。どうやら話を前に進める気は無さそうだ。自慢じゃないが僕は忘れっぽい。よく配布された紙が行方不明になるし、パッと言われた事を覚えておけない。僕はもう一度だけ赤松さんを見るが、様子は変わらなかった。僕は諦めて記憶の迷路を辿ることにした。すぐにアイの顔が浮かんだ。笑った顔だ。あの顔はいつ見たんだっけ? ちょっと思いだせないが、アイの顔が浮かんでは消えた。最初に見たのはいつだったのか……、どれが最初に見たアイの顔なのだろう? 全てが分からなかった。そうしているうちに、アイの顔とセットで男の声が聞えた気がした。アレは確か――。
「――アツシだ」
「アツシ?」
「友達です。新山アツシが、一学年下に可愛い子がいるということで、僕はアツシと一緒にその子を見に行きました。すると、松たか子みたいな顔で……。僕は好みじゃないとアツシに言ったような……。それがアイだったように思います」
「一学年下ですか」
「僕が大学2年生の時ですね」
「なるほど。阿川さん、あなたは今自分が大学何年生か覚えていますか?」
「え?」
あれ? そういえば僕って何年生だっけ? 債権各論は1年でやった。物権総論は2年だったよな? 確か《優》を貰った気がするぞ……。小泉先生は債権総論でお世話になったな。あれは3年だった。あれ? 刑事訴訟法は何年生の時にやったっけ? 僕が順繰り記憶を辿ってゆくと、その作業をストップするような口調で赤松さんが言った。
「4年生です」
あれ? そうだっけ?
「阿川望さん。あなたは関東中央大学の法学部に通う4年生です。ちなみにその一学年下には今回の被害者である川端愛さんがいます」
そうだ。僕は大学に通う4年生だった。
「あなたは4年生からあまり大学に来なくなった。出席簿を見ると、そうなってますね。そして、バイトもしてなかった。学生部就活課にも滅多に足を伸ばさなかったそうですね」
そうだ。僕は就活もバイトも勉強もしなかった。だが、それがこの話とどう関係あるのだろう?
「警察の方が言っていたのですが、初動捜査は2パターンに分けて行われたそうです。まず阿川さんを犯人と考える捜査。次に阿川さんが証言するノゾムという男性の行方を探す捜査……。だが、すぐにノゾムの捜査が打ち切られました。何故だか分かりますか? 阿川さん」
分かるわけがない。警察が無能だからだ。
「あなたの言ったアイさんの死亡時刻と司法解剖から算出した死亡推定時刻が一致しなかったからです」
僕は、一瞬何を言われたか分からなかった。赤松さんは続けた。
「さらに周辺住民への聞き込みによって、アイさんと犯人が争ったのは阿川さんの言った死亡時刻の7時間前の昼の12時頃だというのが分かりました。その時に激しい物音と叫び声が聞こえたそうです。ただ、結構喧嘩が多い家と周りからは思われていたらしいので、放っておかれたそうですがね。昼の12時というのは死亡推定時刻とも一致します。ちなみに川端さんのスマートフォンは見つかりませんでした。恐らく犯人が処分したのでしょう。そして、全く同じタイミングで阿川さんのスマートファンも消えた。これが犯人なりに知恵を絞った結果だったのかもしれませんし、犯人は気が動転していたのかもしれません。ご友人のマコトさんのスマートフォンには川端さんの番号が残っていました。警察は通信会社に情報開示請求を出し、川端さんの電話番号と頻繁に通話していた番号を調べたそうです。そして、その番号と契約していた人物が分かりました。阿川さん、それがあなたでした。皮肉にも警察は先ほどあなたが言った方法での捜査を実施していたわけです」
このジジイは何を言っているんだ? このジジイは何を! 僕は思わず声を出した。
「僕をハメようとしてるのか!? 僕はこの耳で聞いたんだ!! ハッキリと!! 時間だって覚えている!! ニュースがやっていた!! その声が五月蠅かったんだ!!」
「最初に、ポチョン、ポチョンと液体が滴る音が聞えたそうですね」
「そうだ! ちゃんと僕は聞いていた!!」
「なかったんですよ」
「は?」
「あの部屋には、液体の滴るものが……」
「違う!! そんなの嘘だ!! 僕は確かに聞いた!!」
「あの部屋は格安アパートで台所も風呂場さえもありませんでした。あるのはトイレだけだった。ただ、あの部屋の中で液体が滴っていた所が1ヶ所だけありました。たった1ヶ所だけ。彼女の首から流れ出た血液です。それが体の表面を伝い、衣服に染み、とめどなく指に伝わっていった。分かりますか? 指から床へ血が点滴のしずくのように落ちる音。それだけが、あの部屋にある液体が滴る音でした。あなたの話したとおりの場所に盗聴器があるなら、指から血が滴っていた場所は、盗聴器のそのすぐ傍にありました」
僕は自分の呼吸が荒くなって行ったのを感じた。違う絶対に間違っている。全員が僕をハメようとしてるんだ。このジジイだってそうやって送りこまれたんだ!
「あなたは彼女の部屋の合鍵を作ったそうですね。盗聴器で拾う音で彼女は鍵をあまりかけない人だと知ったそうですが、最初、盗聴器を仕掛ける時はどうやったのですか? 一か八かで彼女の家のドアノブを回したのですか? それともあなたは最初からあの部屋に入る事ができたからですか?」
コイツは僕をハメようとしてるんだ!!
「それでも遠藤弁護士はあなたの言ったノゾムを探した。これほど面白い事はありません。何故なら被害者と同じ大学に通う4年生のノゾムに該当するのがあなただけだったからです」
違う! 遠藤さんはノゾムの人数が多くて捜査が混乱してると言っていた! 嘘だ! 嘘だ!! 皆嘘をついている!! 僕は聞いたんだ!! 僕は確かに!! おぞましいノゾムの声を!! 皆どうして僕を信じない!! どうして!!
ここで赤松の凛とした声が部屋に響いた。
「阿川さん。川端愛さんと西川健二さんを殺したのはあなたなんです」
「違う! 違う!! 絶対に違う!! 僕は聞いた!! 幻聴なんかじゃない!! 本当に聞いたんだ!! 本当に――」
その時、僅かに感じた“ある違和感”を思いだした。誰でも無い。僕が感じた違和感。僅かな……ホンのわずかな違和感。警察にも検察にも弁護士にも話していない違和感。
あの音……。液体の滴る音……。
――ポチョン。ポチョン。
あの液体が温い気がする……と、どうして僕は知っていた?
いや、それだけじゃない。
最初、何も聞えなかったのに、どうして次にイヤホンに集中した瞬間、突然生活音たっぷりの音が聞こえたんだ?
どうして僕は……彼女のことを胸が痛い程愛していたんだ? 好みでも無い女なのに……どうして? どうして? どうして? どうして? なぜこんなに愛している? なぜ? 僕は。
僕自身が自分の中にたまった疑問に気づいた瞬間、僕は崩壊した。僕が崩れ落ちていった。僕はくずれおちて。僕は、僕の中の――中が――溶けだし――ソトォヘ――全部。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
僕が叫んだ抜けがらを、どこかからもう1人の僕が眺めている気がした。とても冷静に、冷めた目で眺めている気がした。いや、笑っているかもしれない、滑稽だと。そのもう1人の僕がそっと僕に耳打ちする。
『どうしてお前がアイを愛してるか分かっただろ? あの女にお前は最初興味がなかったんだ……。でも、あの女からお前に――』
そうだ。アイから僕に――、
――告白した。
――付き合って、それから愛した。
――だから、顔が気にならなかった。
もう1人の僕がそっと拍手をした気がした。恐らく正解に辿りついたのだろう、僕はそんな気がした。
そもそも、僕は、いつから僕だったのだろう? ずっと僕だった気もするし、そうじゃない気もする。僕は僕でノゾムは望だった。いつからだろう? 本当にいつから……。
ノゾムだ。
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