海とライチ

侘助ヒマリ

プロローグ

「ね、ここ寄ってみていい?」


 一時間に一本の路線バスを降りて、そこから歩いて20分という温泉宿に向かう途中、古びた石段の前で立ち止まった海未うみが数十段先に見える古刹を指さした。


「そこ、観光名所でも何でもないんじゃないか?」

 海未と付き合って初めての旅行。

 温泉宿でのあれこればかりを妄想してきた俺は、一刻も早く宿に着きたくていかにも興味がなさそうに答えた。


「ん。でも、なんだかこのお寺が私を呼んでるような気がするんだ。ちょっと寄るだけならいいでしょ?」

 ねだるように小首を傾げられ、その可愛らしさに抗えず、俺は海未の後ろから渋々と石段を上った。

 上りきったところにあったのは、住職もいなさそうな荒れた本堂と、背後にひっそりと広がる昔ながらの墓地。


「ほら、何にもないじゃないか」

 さっさと宿に向かおうと促す俺の言葉には耳を貸さず、海未は墓地の方へと向かっていく。


「なんだか、ここから呼ばれているような気がするの」

 海未が立ち止まったのは、長い年月を風雨に晒され、角という角がすっかり取れて苔に覆われている小さな墓標の前だった。


「田中家之墓? 海未んちとなんか関係あるの? 」

「ううん。こんなとこに親戚がいるなんて話は聞いたことないし、私の気のせいかなあ?」

 狐につままれたような様子の海未に少し呆れる。


「ほら。早く宿に行って温泉入ろうぜ」

「あっ、ヨシくん待ってよう」


 元来た石段へと向かう俺の頭の中は、海未のはだけた浴衣姿でいっぱいだった。


 そう──

 この時は、あの不思議な出会いがここから始まっていたなんて、俺はつゆとも知らなかったんだ──

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