第5話 百合道千刃弥《ユリミチ・チハヤ》の後戻りできない事情について

  *


 オレは目を覚ます。


 ――よく知っている天井。


 オレはオレの部屋にいる。ベッドで寝ていたというわけだ。


 朦とする意識の中、オレは起きるために掛け布団をまくる。


 掛け布団をまくると、オレの下腹部から赤い液体が流れているのを見つける――。


「――なに……これ」


 血である。


 オレの下腹部……より下の陰部から血が流れていたのだ――血は敷き布団を赤く汚している。


 だが、陰部に傷はない。


 オレにはわからなかった――血が流れている理由が。


 瞬きをすると血が消えた。


「…………気のせい……だったのか?」


 気のせいには思えないが、血はきれいさっぱりなくなっていた。


「血は幻だった……のかもしれない」と、オレは思った――。


「――そうか。また『忘れてしまった』のか」


  *


 オレ――百合道ゆりみち千刃弥ちはやにとって、昔の記憶は思い出せば思い出そうとするほど曖昧であった。


 昔のことはまったく思い出せない。


 いや、思い出せる記憶と思い出せない記憶があるのだ。


 他人、要するにオレ以外の人間……まあ、オレの場合、家族しかいないんだけど、両親に言われれば「そうだった」と思い出すときもある。


 オレは「そういう体」なのだ。


「そういうもの」だと理解している――理解しなければいけない。


 なぜならオレが経験してきた「今までの嫌な出来事」は「そういう体」のせいで起きてしまっていたのだから。


 ――オレはフラワーデバイス・オンライン《Flower Device Online》の世界にダイブしていた。


 フラワーデバイス・オンライン《Flower Device Online》の最終エリア――魔王城の中へ潜入している。


 現在、オレのレベルは九十。まだ魔王城の最深部に行くつもりはない。目的はレベル上げ。心器しんき――百合ゆりけんを装備し、魔物との戦いに挑もうとしている。


 覚悟を決めた。


 ――なぜ、この世界にいるのか。


 ――世界を変えるためだ。世界を変えなければ認められることなど一生ない。せめてVRバーチャルリアリティゲームの世界だけでも。「願いが叶う」RPGにオレはいる。


「このゲームをクリアしてやる!!」


 オレは「目の前」に意識を向ける。


 魔物の数は、おおよそ百体。


 心器しんき――百合ゆりけんを構える。


 そして、技を発動はつどうさせる。


 頭の中で敵の位置を空想イメージで把握した。そして、イメージ通りに魔物百体を斬った――瞬間的に。


百合斬ひゃくごうざん!!」


 魔物百体は血しぶきを上げた。ゲームの演出に現れる魔物百体の光の結晶はコナゴナに砕け散った。つまり、オレは魔物百体を瞬殺した。


  *


「高校やめるよ」


 台所でオレは母親に決心を言った。


「ワタシたちが働いて稼いだお金をドブに捨てるつもり?」


 母親は本音で返した。


「困らせるつもりはないよ。オレは将来のことをちゃんと考えている」


「ちゃんと考えていたら高校をやめるという選択肢はないよね?」


「決めたんだ。プロゲーマーになるって。オレはプロゲーマーになる。プロゲーマーになってお金持ちになる。お金持ちになって、かわいい女の子と結婚する。そのかわいい女の子との間にコドモをたくさん作れるように『最新医療技術』を調べて案を練る。それが今のオレに残された道だから」


「なにを言っているの? 本当にどうしてしまったの? 高校でなにかあったの?」


「なにもないわけないじゃないか。だってオレ、ひきこもりだぜ」


 オレは母親に高校で、あった……ようなことを言う。


百合ゆりちゃんは別の男と付き合っていたみたいだ。それも純粋な付き合いではなく不純な……もう彼女は処女じゃないんだ」


「あら、それは残念。次は別の人を見つけることね」


「そんな簡単に言わないでくれ。オレの百合ゆりちゃんに対する想い、わかっているだろ」


「母親に『わかるだろ』と言って解決するものでもないし」


 母親は過去を振り返る。


「ある意味、ワタシは父さんと付き合うまで『運がよかった』という自覚はあるわ。いろんなものがあふれた世の中だもの。ネットを見ていると、最近は『理性より本能』って感じだものね」


「そう、それが現実なんだよ。プラトニックな恋愛なんてものは不可能に近いんだ」


「でも、プラトニックがすべてじゃない。恋愛というものは、いろんな形があるのよ」


「だけど、オレは完全になりたい。完璧になりたい。だから、オレの恋愛はプラトニックであるべきなんだよ」


「議論しているヒマがあったら純潔な彼女の一人でも作ることね」


 いまいち噛み合わない会話をふたりが展開していると、とある人物が台所に現れる。


 オレの父親である。


 夕刻になる。


 今日は残業なしで帰宅したようだ。


「このっ、大バカ野郎が!!」


 父親の鉄拳を食らった。


 一瞬、気絶した……感じがした。痛みは感じない。でも、口から血が流れている。だが、血の流れは一瞬で収まった。


「するさ。大バカ者だから」


「殴るか? 息子を」


「殴るさ。バカ息子を」


「ワード」が似ている言葉をオレの父親は発する。


「どんなに気味が悪くても息子として育ててきた。だが、育たなかった。ひきこもりだ。高校からひきこもっているんじゃねえぞ!!」


「仕方ないだろ。『こんな体』で生まれてきたのは、あんたたちのせいでもあるんだから」


「よく言うよ。誰のおかげで今までひきこもっていられたか忘れたのか?」


「オレを『こんな体』にしやがって。あんたたちの『遺伝子』でオレの体はおかしくなってしまったんだ!!」


「おかしくなったのはオレたちのせいじゃない。おまえの『遺伝子』が決めたんだ。人のせいにするのもたいがいにしろ」


「おまえの人生だ。おまえで決めろ」


「――――」と母親は息を呑む。


「おまえ、なに考えてやがる。そんなことできるわけねえだろ! 世間一般的に考えろ。近所の人に『うちの子がひきこもっています。気にしないでください』って言えるか? オレだったら言えないね。そんなコドモを持っているなんて思われたくない。その事実を抹消したいくらいだ」と、いかにも世間体を気にするようにオレの父親は言った。


「世間体を気にするならコドモなんて作るんじゃねえ! 『千歳ちとせ姉ちゃん』はラッキーだったよ。ホントにラッキーだ。こんな家庭になっちまう前に死ねてさあ!!」と、オレが言った瞬間――。


 ――パンッ!!


 平手打ちされた。母親の目には涙が浮かんでいた。


「人の死を、口論に持ち出すな!!」


「汗水たらして稼いだお金を無駄遣いするなら、ワタシたちにだって考えがあります」


「もう、これ以上あんたに与えるものはない! あんたの力だけで生きていきなさい。それがワタシたちの結論」


「わかったか。母さんの言うとおりだ。この家を出ていけ」


 父親は息子を諭すように言った。


 ――瞬間、オレは、ひらめいた。


「だったら出ていくわ。『この世界』から」


 オレは走るように階段を上っていった。


「どこへ行く! チハヤ!!」


 父親は叫んだ。


「決まっているじゃないか。『あの世界』に行くんだ」


 オレは二階にあるオレの部屋に入った。部屋の鍵をロックした。


「もう、食事とか、いろいろな世話をする必要なんてないから! 二度と入ってくんじゃねえぞ!!」


 大声で言った。涙が流れる。


「バイバイ……さよなら……あばよ……クソみたいな世界」


 オレは、ベッドに寝っ転がり、眼鏡型のVRバーチャルリアリティデバイス――ニューロトランサーを装着する。


「トランス・オン」

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