※このヒーローは〇〇〇を我慢しています

庵治鋸 手取

第一章 「隣のお店のトイレをご利用下さいと言われる」

第1話

「ご機嫌よう、我々を忘却の彼方へと追いやり、穢れた安寧を貪る諸君。君達の安寧を、私は心の底から呪おう」


 6月13日。その声明は、全日本の放送をジャックして行われた。

 午前7時55分。朝食時を過ぎた全てのテレビは自由を失い、ある画面だけを映し出す。

 それは、真紅のガウンを纏った男の体だった。ゆったりとした衣服にも隠しきれていない男の体の剛健さは、明らかに一般人とは違う。

 この男の声明を、日本国民は様々な場所で目撃していた。自宅で、食堂で、ビルのモニターで、人々は野太い声を聞くことになる。

 テレビの故障か、放送局のミスか。そんなことを考えるよりも先に告げられた不穏な挨拶が、人々の行動を遅らせる。

 男はそんな日本人たちをモニター越しに見ているかのように、満足げに体をゆすってから続ける。


「唐突な挨拶、誠に遺憾なこととお察しする。だが、これは私達なりの君達への慈悲だということを先に断っておきたい。私達は今すぐにでも「事」を起こし、無防備な君達を失意と絶望のどん底に叩き落すことも可能だったのだ。それを実行に移すことなく、こうして事前に告知するのは、ひとえに卑怯だからだね。卑怯とは私達の、最も嫌うところだからだ」


 ちょうど、君達と同じになってしまうからね。

画面越しでも分かるこの男の恨みを感じ取り、人々は身構える。

 「事」とは何だ?

 戦争が、始まるのか?

 考えは人それぞれだったが、友好の希望を持っていた者は一人としていない。目の前に映る男は、確実に自分達の日常生活を壊す。その予感が、時間にうるさいビジネスマンの足すら止める。

 日本中の注目、困惑、敵意。それを一身に受ける男は、尊大に足を組み、そして――宣言した。


「そう。君達が今考えているように、これは宣戦布告だ」


 宣戦布告。

 強烈な言葉による衝撃を引き上げるように、男は続けた。


「今ここに、私達は宣戦布告をする。数百年越しの憎悪と憤怒と悔恨を以て、君達をことごとく絶望に叩き落すことを約束しよう。朝な夕な、間断なき恐怖に跪き、震えに震える暗澹たる毎日を確約しよう。その対象は、一部の要人などではない。君達自身こそが対象である」


 午後7時56分。

 日本は、悲鳴に包まれた。

 心のどこかでは望んでいた、退屈な日常をぶち壊す何か。それの唐突な訪れを喜ぶものは、一人としていない。

 自分達を、狙う。自分達が、狙われる。

パニックに陥る人々を見下ろす男は、水面のように落ち着いた口調で、更に続ける。


「混乱するだろう。だが一つだけ安心したまえ。私達は君達の命を奪うような真似はしない。傷つけるような真似も、極力避けよう。それは私達の目的とは何のかかわりも無いことだからだ」


 続いた言葉に、人々は冷や水をかけられたかのように我を取り戻す。

 命を奪わない? 傷つけることもしない?

 この男は、戦争を仕掛けようというわけではないのか?

 その答えを持つ男は、深く椅子に座り直した。

 いよいよもって、この声明もクライマックスを迎える。そのためにか男は数秒間の沈黙を保ってから、宣言する。

 これまでよりも一回り大きな声で――


「私達の目的は――――!!」


 この「目的」の宣言の終了と共に、放送は打ち切られた。

 混乱の中で「目的」を聞き取った人々は、ただ茫然としていた。

 男が言った「目的」のその中身が。余りにも不可解で。

 同時に、最も恐ろしいものであったためである。

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