第30話「戦禍」

 最初に目に入ったのは看板の残骸だった。どこぞの飲み屋の店名が書かれたそれが散乱している。そして死体と瓦礫の山。

 ジル・ウォールは体を起こし、外套と潮の刃が吹き飛んでいることに気づいた。下ろしたての白いシャツは煤だらけになっている。彼は顔を顰めながら、辛うじて繋がっていたホルスターの観測銃を手に取る。


 大鴉街道の一角はひどいありさまだった。そこらで車や建物が炎上し、煙で視界が悪い。錆びた刃のサーベルが落ちていたので、拳銃を左手に持ち替え、それを拾った。


 幻信で周囲に呼びかけるが、応答はない。既に皆が逃げたか、事切れてしまったのだろう。自分もとっととここから離れるべきだ。

 瓦礫を乗り越えながらジルは自分が何をしていたのか、思い出す。幹線第三中隊はのんびりとしたピクニックって感じで街道を進んでいたはずだ。周囲には危険なトルメンタはなくこの攻撃はまさに晴天の霹靂だ。死体の数を見ると、半数以上が犠牲になったようだ。蘇生と街の復元で、またぞろ大層なフレイムが吹っ飛ぶのだろう。パット・モーの消失並みに大規模な被害が出ているのは間違いない。


 幻信に反応があった。そちらへ向かうと、初老の観測兵が胡坐をかいて煙草を吹かしている。


「生きとったか、ウォール。お前さんは後列だったな、運よく難を逃れたか」


「ホワイティング兵長、ご無事でしたか。いったい何があったんです?」


「分からん」煙を吹かして兵長は言った。「何らかの攻撃を受けたのだろうが、そいつの姿は見ていない。あるいはリンデルマン砲が暴発したのやも知れぬ。砲手が突如、中隊と心中したくなったか、制御機構がなんらかのファントムによって冒されたのか。ああ、煙草が切れちまったな。何にせよ移動するとしよう」


 兵長が立ち上がり、ジルも続いた。

 通りは存外、広範囲に渡って崩壊していたが、少し進むと脇のコンビニに明かりが点っているのに気づいた。外装のガラスが吹き飛び、店内も品物が散乱してひどい有様だが、中に入ってみるとレジに店員がいた。制服はジルたちと同じく煤けていたが。


「いらっしゃいませ、こんにちは」


 兵長は煙草を頼みながら話しかける。


「こんな有様なのに営業しとるのかね、ここは」


「そうっすね、何にも指示されてないんで。あ、ソフトですかボックスですか?」


「ボックスを頼む。まあ助かったよ。顔を洗いたいんでトイレを貸しとくれ」


「すいませんが、お客さま用のお手洗いはないんで、他所でお願いします」


「そうかい」


 表へ出ると、屋根が吹き飛んでオープンカーのようになっているタクシーが停まっていた。ジルとホワイティング兵長は乗り込んで、中隊本部まで頼む、と告げる。


「いったいこの破壊は、何があったんだね」兵長が尋ねると運転手はのんきな声で、


「いやあ、ずっとラジオが不調で。中心部のほうへ行きゃあ、何か分かるかもしれませんが」


「それにしても見事にぶっ壊れたものですね」ジルが頭上を見て言う。鉛色の空からぬるい風が吹いている。


「まあ、涼しくていいですよ、雨が降ったら困りますがね。しばらくはこれでいきますよ」


 中隊本部に程なくして到着すると、そこも半壊している。

 しかし、そこにいた観測兵の誰もが、何が起こったのか把握していなかった。


 その日のうちに、ウェスタンゼルス全域が大鴉街道と同じく崩壊していることが明らかになった。

 その原因は誰も把握していない。ただ、崩壊した建物が燃え、瓦礫が道を塞ぎ、犠牲者が横たわっている。

 しかたがないので人々は、壊れた街でいつもどおりの日常を過ごすことにした。


 誰も燃える火を消さず、崩れた建物を直さず、怪我人を治療せず、死体を片付けず、平穏に暮らす。


 二ヵ月後に観測兵軍がこのファントムを〈幽霊戦禍〉と名づけて〈除霊〉を執り行うまで街はそのままで、その後いくらかの市民が、元に戻ったウェスタンゼルスに非常な違和感を覚え「我々の生活を返せ」という抗議デモが何度か勃発。そこで軍は要望に応えてリンデルマン砲を放ち「元の生活」に戻してやることで対応した。

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