第15話
三浦さんを逃して間も無く、予想はしていたが、響く倉庫の物音に三人の見張りはすぐに駆けつけ、あっという間に状況を把握されてしまった。一人が携帯で(おそらく白鳥さんに)連絡をつけると、もう一人が外へ走って三浦さんを探しに出る。残った一人は渋い顔で私の前に立つと、ふぅとため息をひとつ吐いた。
彼女はうまく逃げきれるだろうか。私はこの後どうなってしまうのだろう。あぁ、きっと碌な目には合わない。痛いのは嫌だなぁ、なんて思っていたのだ。
「痛くない?」
「え……?」
「頭、思いっきり殴っちゃったから」
目の前の、刈り上げの男性は気まずそうに問いかけてきた。そうだ、うろ覚えではあるが私の頭を後ろから殴ってきた人はこんな風貌をしていた気がする。
「麗子ちゃんにやり過ぎだって怒られちゃったわ。逃げた女の子に対しても、ここまでやらなくて良いのにって。俺ら、加減分かんねぇからさ」
「……はぁ」
そりゃあ逃げるよなぁ。あんなとこから逃げるなんてなぁ。なんて、話しかけているのかひとり言なのかもよく分からない調子で刈り上げさんは一人頷いた。何と返せば良いのかも分からないまま呆けていると、電話を終えたのであろう一人が小走りでこちらに寄ってくる。
「先輩、白鳥さん明日の昼に来るそうです。午前は授業あるからって。」
「おぉーう。ってことなんだわ、えぇと、美咲ちゃん?もーちょいこんなんでヨロシク」
「はぁ……」
あ、ちなみにもう一人の女の子は多分見つかんないわ。そう言い残して見張りの人たちは出て行った。ひらひらと最後に手を振って、そうしてまた重い扉は閉じられた、のだけれど。
正直言って拍子抜けだった。最初の暴力沙汰は一体なんだったのだろう。寧ろここまでくると殴られ損な気さえしてくるから不思議だ。頭はまだ痛かったし、剥き出しコンクリートの床は冷たいし、お夕ご飯だって食べてない。お腹が空いて背中とくっつきそうなレベルだ。白鳥さんに叩かれた頬は未だヒリヒリとはしていたが痛みは随分と退いていて、始めに思ったよりはマシなのかもしれない。不愉快には違いないが。
今は一体何時なのだろう。窓の外は相変わらず真っ暗で、雨の音ばかりが鳴り響く。気を失っていたことも相まって時間感覚は全くなかった。
色々深く考えるのも先のやりとりで何だか馬鹿らしくなってしまった。疲れも溜まっていた私はゆっくりと目を閉じる。じわりじわりと現実との境は曖昧になって、そうして意識を手放すのは実にあっという間のことだった。
「あなた、見た目とは裏腹に随分と図太い神経してるのね」
ぺしん、と軽く頭をはたかれて、一番に目に入ったのは呆れた顔をした別嬪さんだった。それは長い深いため息を吐くと、食べなさい、と紙袋を渡される。
「あれ?ブランケット……」
あまり寝起きは機敏に動ける方ではない。のんびりと覚醒する頭を懸命に動かし色々な違和感にようやく気付く。そもそも既に拘束すらされていない。場所は変わらず硬いコンクリートだが、縛り付けられていた筈の柱の前で私はグレーの毛布に包まって昼まで深く眠っていたらしい。
お礼、を言うのがこの状況で正しいのかどうかも分からないが、とりあえず頭を下げて紙袋を開ける。中からまだ暖かいコーヒーとデニッシュの香りが鼻をくすぐって、お腹が空いていたことを思い出す。
「お気に入りの喫茶店のものなの。混むのが嫌で誰にも教えてないけど」
ミントグリーンのタンブラーを傾けて白鳥さんは言った。その中も同じコーヒーなのだろう。少しだけ口を綻ばせて笑う、その姿は穏やかで、まるで写真のように美しい。
「あ、そのブランケットは私のじゃないわよ。あなたを殴った男が爆睡してる様を見かねて持ってきただけ。ってかこの状況でよく昼まで寝れるわね?さすがに皆で閉口したわ」
「まぁ、疲れも相まって」
元々どこでも寝れる性質ではある。枕が変わろうが、時差があろうが、横になれば眠くなるし眠い時は寝てしまう。それは自分の長所だと思っている、一応。
切羽詰まった昨夜とは変わり、今ここに流れる空気はとても穏やかだった。共に居るのが昨日頬に平手を出した人物ということも忘れてしまいそうな程だ。何を話すわけでもなく、おもむろに袋に入っていたデニッシュを手にとって一口齧る。
「美味しい……」
「でしょう?」
バターの香りが鼻から抜け、噛めば噛むほど小麦の甘さが口の中いっぱいに広がる。サクサクと表面の生地は焼き色がついているのに、中はふわりととろけるように柔らかかった。
まるで自身が作ったかのように、白鳥さんは自慢気に笑った。顔が整っている故に表情のひとつが冷たく見えることが多かったが、今こうして無垢に笑う姿は少女のように幼い。きっと、この顔が本来の彼女なのだろう。
「あの、私のこと、嫌いなんですよね?」
だからこそ、よく分からなかった。
いつからかは知らない。けれど確かに昨夜、この人は私に面と向かって『大嫌い』だと告げていた。こんな風に施しを受けるような、友人として会話するような雰囲気ではなかったはずだ。
その記憶は殴られたショックによる間違いではなかったようだ。そうよ、と一言だけ放り投げたように返事を貰う。
「じゃあ、なんでこんな」
「……私だって分かんないわよ」
長い睫毛をぱしばしと鳴らして、気怠げに瞬きをしながら彼女は言った。
「最初はただ、痛い目見せたかっただけだったわ。私がどんなに辛い思いしたか、分からせたくて、同じくらい苦しめば良いと思って。あなたが直接悪いんじゃないのは分かってる。でも、私にとってはあなたのせいだった。だから、あなたのクラスメイトに“お願い”をしていたの」
「……」
「でもそれもうまくいかなくて。結局そのうちの一人に全部暴露するって言われたのが昨日。それだけは阻止したかったから、やんちゃな知り合いに頼んだらあなたがのこのこやって来たのよ」
でもこれでもうお終い。そう再びタンブラーを口元に運ぶ彼女の顔は発し溢れた言葉とは違い、割り切ったようには見えなかった。きっとまだ心の中ではわたかまりが残っているのだろう。目を伏せ胸中を悟られまいとする仕草ですらも、どこか含みがあるようだった。
「それで、どうするんですか」
「……どうなるのかしらね」
その煮え切らない言葉の意味を問う前に、重々しい扉が開く音が響く。この音も随分と耳慣れてきた。振り向いて目に入った面々は予想外の二人で、驚きにすぐには声を出すこともできなかった。
「美咲!」
走ってきた真矢にとびつかれて、窒息するかと思うくらいに抱き締められる。心配かけてごめんと一言告げたいのだが、力が強すぎて難しそうだ。というか早めに離してもらわないとまた意識を失うかもしれない。背中を叩いて制止を要求するが、肩口に顔を押しつけてくるだけでこちらの意図は伝わらなかった。まるで大型犬だ。背が高いから余計にそれっぽい。
一方で、ゆっくりと白鳥さんの前に立ったのは悠木先輩だった。一言も発さず、ただ冷たい目を向けるその姿は私が今まで見たことのない様だった。こわい、とまでは思わなくても、近づき難い。
それでも臆することなく白鳥さんは、緩慢な動作で立ち上がって先輩を見上げる。
「それで、どうするの?」
全部、知っているのでしょう?そう投げやりに吐き捨てて、彼女は小首を傾げた。ようやく手を緩めた真矢が、こわごわとその様子を見つめている。
「あいつらは?」
「工業高校のご友人のこと?あの人たちには帰ってもらったわ。全部私のお願いを聞いてもらっていただけだし、この場に必要ないでしょ」
「……そうか」
悠木先輩は歩幅をとって拳を握る。大きく息を吸って構える姿は、威圧感そのものが立っているようだった。
「言いたいこと、やってやりたいことは山ほどあるんだが。とりあえず、覚悟は出来てるんだな」
「ええ」
「……待って!」
真矢に抱き締められたまま、声が届くよう精一杯叫ぶ。決して遠い距離ではなく、けれど必死に伝えなければ届かないような気がした。
「待って、下さい。先輩、どうか私に一任してもらえませんか」
「しかし、」
「そりゃあ、この綺麗なお顔を正面から殴りたいと思わなかったわけでは無いですが……。それでは、やっぱり後味が悪いので」
見上げて真矢が持っていた布製の袋を受け取る。中から出したのは女子高生にはあまり馴染みのない道具で、あの状況で手に入れてくれた三浦さんに感謝する。
当たり前にその場にいた全員がぎょっとした顔をして、取り出したバリカンを見つめた。私だって拳を振りたいのはやまやまだ。でも女性に手をあげるのは気が引けるし、どうか更生の余地を残してあげたいから。
「白鳥さん、さっき言ってた喫茶店。今度教えて下さいね?」
それを誰にどうやって使うのか、場の雰囲気には合わないものの、皆すぐに理解をしたらしい。ヒッと可愛らしい悲鳴をあげて、白鳥さんは後ずさる。殴られるよりマシだとは思うのだが、その怯える様に性悪くも胸のすく思いをして笑みがこぼれた。
察した真矢が彼女を羽交い締めにしたのを確認してバリカンの電源を入れる。ブウゥゥンと間抜けな音が響いて、後には声にならない叫びがこだまするばかりだ。
雨は上がり、外がとうに晴れていると気付いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
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