第2話

 朝礼前の気怠い時間を愛している人は何人いるだろうか。どこか眠くて、成長期の身体には朝食のバナナだけでは物足りなくて、頭の中はぼんやり靄かかっている。そんな中、足りないピースを埋めるかのように必死に友人とお喋りに熱を傾ける。新しくできた駅前のカフェテリアとか、隣高のイケメンとか。

 私もそんな大多数の例に漏れず、教室のスピーカーから物々しい鐘の音が鳴るまで数少ない友人と何でもない話をするのが好きだった。その話に興味があるなしではなく、この時間そのものが。

 そして、この大好きな時間は楽しい話題か、明日には忘れるようなどうでもいいものでしか埋めてはいけない。間違っても胸の奥を抉るような、そんな話をしてはいけないのだ。


 「小鳥遊、兄貴振ったんだって?」

 「…おはよう、悠木くん。」


 だから例え一番気の置ける友人だとしても、こればかりは寛容になれなかった。窓の向こうを自由に飛び回る小鳥を見ながら、私は無反応を貫く。貫きたい。


 「ねぇ聞いてる?」

 「…聞こえてるわよ。」


 開口一番に爆弾を落としてくれた彼は、自席に荷物を掛けるとくるりと後ろを向いた。

 窓側一番後ろが私、その一個前が悠木くん。いつもの席にいつものように座って、悠木くんは下敷きを私の顔に向かって扇ぎ始める。上がれ前髪!ってまるで小学生みたいな動作も許されるのは、ひとえに彼が見目麗しい容姿をしているからだろう。こんな世の中間違っている。

 それで、なんで振ったのさ。その大きな瞳でまじまじとこちらを見ながら彼は再度尋ねてきた。この遣り取りをあと何回繰り返せば気が済むんだろうか。私がいくら現実から逃避しようとも、一切この話題に反応しなくても、そんなことは全く関係ないようだった。このままこの調子で無視し続けても永遠に語りかけてくる様子が容易に思い浮かんで辟易する。けれど彼一人が無反応の私に語りかけている様を、話の内容を、他の人に聞かれるのだけは避けたかった。


 「…というか情報が早すぎやしない?」

 「いや、だってウチの兄貴だし。」


 同じ家に住んでるから当たり前だろ、てか口にしなくてもあいつ態度に出過ぎ、うっとおしい。そう言って今度は下敷きを自分に向けて扇ぎ始める。濃いめに染められた茶色い髪がそよそよと揺れて、こめかみを一筋汗が流れる。その横顔はモデル顔負けの爽やかさを湛えていて、きっと世の中の女子はこんな姿に騙されるのだろう。

 そもそも悠木兄弟の学校での影響力は転校初日から驚いたものだ。家柄もさる事ながら、スポーツ部には度々助っ人として呼ばれる程の長けた運動神経、定期試験では常にトップで貼り出される(どうやら全国模試ですら常に五番以内らしい)聡明な頭脳を持ち、極め付けは芸能人顔負けの容姿、とくれば普通の女の子は黙ってはいない。各学年にファンクラブがあって、噂では悠木兄弟と親しくなる前に代表を通さなきゃいけないとかなんとか。

 尤も私はそんな手順も何も知らなかった(知っていても関係ない)為、極々当たり前の手順で友人として仲良くなった。勿論、それを気にくわないと思っている生徒がいる事も知ってはいる。

 っていうかさ。目の前のイケメンが眉を寄せて口火を切った。


 「小鳥遊だってあいつのこと好きなんじゃないの?いつも俺の家ではち合わせる度に悶えてたじゃん。」

 「うぅ…。」

 「何かにつけては、悠木先輩のほうが。悠木先輩だったら。悠木先輩だから!ってお前も大概お熱だったろうに。俺の事だって、悠木先輩と一つ屋根の下で暮らしているなんてズルイ!とか訳分かんない事言ってたの、ついこの間じゃなかった?」

 「もうやめてー…」


 本当に泣きそうになって必死に目の前のマシンガントーカーの口を押さえる。

 確かに私は先輩の事が好きだった。もちろん今も変わらずに。事実、昨日の昼に先輩を探しに行ったのも、三年生の秋というこの時期に生徒会長を退任するその人に告白をするためだったのだ。はやる気持ちを抑えて駆け足で向かった生徒会室前で、耳にした会話をまだ悠木くんには話していない。


 (あっちも同じ想いなんじゃないかなぁって。)


 もしかして先輩も自分と同じ想いを寄せてくれているんじゃないかと、実は少しだけ自惚れていた。初めて会った時や生徒会長としての姿はとても厳しく怖い人だと思っていたけれど。普段は話さないと言っていた少しだけ漏らした愚痴とか、滅多に見れないはにかんだ笑顔とか、そういう柔らかい面も度々目にかかると惹かれるのはあっという間だった。そして彼自身も他の人にその様な顔は見せないのだと聞けば、期待に胸寄せても多少は許して欲しいと思う。目が合うたびにドキドキして、脈打つ心臓は私の耳まで赤くして、もし先輩の隣に立つ事が出来るなら。そう思い馳せたのは一度や二度ではない。

 しかし結局、その想望も自分自身で打ち砕いてしまった。もしも浮足立って部屋の前に立った時、微かに溢れていたあの話を聞かなければ良かったのだろうか。それとも。


 「…ねぇ、悠木くんは私が“清楚で可憐な良家のお嬢様”だと思う?」

 「いいや、全く。」


 微塵にも思わない。ご丁寧に付け足してくれたことには触れないでおく。私も悠木くんの事を他の女の子達のように崇め讃えているわけではない。


 「でしょう?私もそう思うわ。でもね、つまりはそういう事なのよ。」


 何それ意味分かんない、と悠木くんは舌を出して私を拒絶した。私だってそう思う。でも仕様が無いのだ。

 昨日の放課後に先輩に言い投げたような、彼が将来の保身の為だけに私に声を掛けてくれたのだと、まさか本当に思っている訳ではない。そんな冷たい人であるならば、そもそも私だって惹かれてはいないのだ。寧ろ実際の彼は、花が枯れるだけで心を痛めるようなとても優しい人なのである。

 でも、だからこそ、私は生徒会室の前で話を聞いた時、息が詰まって居たたまれなくなってしまった。

 確かに私は家柄だけは良くて、見た目も他の同級生達よりは落ち着いて見えるらしい。はたから見ればお育ちの良く、お淑やかで繊細な箱入り娘なのかも知れない。けれど、その実はお嬢様だなんて程遠い。ただ他の人よりも面白味の欠けた、取るに足らない瑣末な人間だ。

 きっと先輩と付き合って、お互いを深く知り合っていって、理想を夢見てるあの人は私を見て幻滅するだろう。知っている人間と違うと、こんなにもつまらない人間だったのかと、もしかしたら騙したのかとまで言われるかも知れない。

 その様を想像するのは交際を始めるよりも容易くて、まるでそれが今起こっている現実かのように私を責め立てていた。


 (どうせ最終的に嫌われるくらいなら…。)


 今まで彼が付き合ってきた多くの女性のただ一人として記憶の片隅に埋もれてしまうくらいなら。思い出にすら残らず消えてしまうくらいなら、いっそ最悪の印象でもどうか拭えないくらい覚えに残して欲しかった。

 大好きなのだ、大好きだからこそ。


 「ホントお前、めんど臭いよ。」


 悠木くんがため息を吐いて正面に席を座り直す。少し見上げた短髪の後ろ頭にありがとうと返事をした。賢い彼はこの件について考えるのをやめたようだ。

 これで良い、良かったのだと、私は言い聞かせるように口の中で呟く。恨まれても良い。蔑まされたって良い。どうか彼の中で一人の人間として残っていてくれさえいれば。

 朝の鐘が鳴って皆が席に着く。いつもの席に座っているだけなのに、どうしてだろう、今日はやけに教室が窮屈に感じた。窓の外にいる鳥だけは、どうやら雲の向こうまで飛んで行けたようだった。






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