第5話

<織原七重>


 見られてる。いつも見られてる。

 ナナエに何か描いてあるのかな。バカにしてるのかな。それともナナエが好きなのかな。だけどそれはみんな同じことだった。

 たくさんの目玉がナナエを見ている。ナナエが動くと目玉も動くよ。ナナエが手を振れば目玉も回るよ。集まった目玉に心はないんだ。それは怪物だ。ナナエには分かっていた。その怪物を見つめていると、ナナエ自身が見えてくる。怪物はナナエを映しているのだ。それは鏡の怪物だ。

 怪物が鏡だと分かったので、ナナエはそれに笑いかけた。目玉はそのつど集まって、ナナエにほほえみを返してきてくれた。やっぱりね。思った通りだ。ナナエは女の子だから怪物と仲良くなれるんだ。

 ナナエが目玉に近づくと、目玉はばらばらになる。怪物は見えなくなってしまう。目玉のふたつが女の子になった。女の子はリサと言った。リサと話しているあいだも、余った目玉はまた怪物になった。その大きな背中の上で、リサはナナエにささやいた。

「無視してごめんね。これからはわたしたちは親友だからね」


 親友?


 ナナエには友達がいなかった。だけどリサは親友になってくれた。親友というのは、友達の中でも一番に友達な人のことだ。ナナエにはできないものだとばかり思っていた。

 リサとナナエは小指でつながった。ナナエが笑うと、リサもやっぱり笑った。

 すべり台の上で話していた。いっぱい話したので、怒られるほど夜になってしまった。だけどぜんぜん暗くなかった。輝きに満ちていた。ナナエとリサの周りを、きらきら光る透明のつぶがはじけていた。シャンデリアが砕け散ったみたいに。うれしくて。



 でもそれは昔のはなし。

 うれしいは次々と入れ替わっていく。花は枯れ、実は落ちて腐り、それでも新しい命が芽吹く。誰も逃げられない。



 パパとママはよくケンカをしていた。

 言葉が形になれば相手をズタズタに斬り咲いてしまうくらい、二人は本気でケンカをしていた。いつもママが言葉で勝って、ときどきパパが力を解放してママを拳ひとつでぶっ潰した。

 ケンカはナナエが原因らしかった。ナナエは分からなくていいと言うので、ナナエは気にしなかった。今になってもそれは気にしていない。



 ママが家から出ていった。さようなら。

 ナナエは泣きたくなかった。ナナエは幸せでいたいのだ。悲しみなんて許したくなかった。幸せでいられるようにナナエがずっと笑っていたら、パパがナナエをぶつようになった。

 とても痛かった。だけどこんなのはドラマで見たことがある出来事だ。とっくに通り過ぎてきた世界だ。ナナエはドラマみたいに泣きたくなかった。ナナエは知っている。泣いたら幸せは逃げてしまうのだ。幸せは自分の内側からしか沸いてこないのだ。

 パパに酷いことをたくさんされながら、ナナエは自分の口を塞いだ。ごめんなさいとか、助けてとかを言わないようにするためだ。幸福なお姫様はそんなことは言わない。どんなことも嬉しくなくてはならない。ねえ、シャンデリア。



 物語の終わりが、ナナエは嫌いだった。

 絵本。アニメ。ドラマ。映画。小説。漫画。

 物語は終わる。いつも自分勝手に完結して、ナナエを突き放してしまう。悲劇がどれだけその人を苦しめても、穏やかな波のような死がさらっていってしまう。争いにどれだけ勢いがあっても、おそろしく大きな平穏にとって代わられてしまう。戦場を失ったランボーの悲しみが、ナナエには分かる。かけがえのないものから引き剥がされて泣きじゃくったあの男の悲しみが、ナナエには斬り裂かれるように分かるのだ。

 手のひらに収まってしまうほどちっぽけな答えだけをおみやげにして、そそくさと店をたたんでしまう物語たち。描かれなかったその先の未来を、突き抜けるような青空を最後に見せて忘れさせようしてくる物語たち。


 ――……思っていた。



 高校になって、突然それはやって来た。

 ナナエは自分が分かった。知った。理解した。それまで当たり前と思ってたことがそうではなかった。本当のことを知らないのはナナエだけではなかったけれど、見つけたのはナナエだけだった。

 そうだ。そうだったのだ。

 ナナエの中には、あったのだ。

 ずっとずっと隠れていた、暗く鈍く光っていた、とびっきりの、空から落ちてきたひとつぶの星の、交換も返品も利かない、永遠に続いて誰にも分からない、たったひとつのアレがあったのだ。

 ナナエの体は人間と同じもので出来ている。ナナエはふつうの人間の形をしている。


 そう、形だけは普通だったのにね。



 世界で一番すてきなものって、なあーんだ?


 それはこの星の果ての、息が凍るほど寒い場所の、夜空にでっかくでっかくたゆたう、ゆらめく虹色のカーテンの連なりだ。

 とびきり大きくて死ぬほどきれい。何よりも。



 ナナエは決めた。

 ナナエはナナエが退屈することを、決して許しはしない。今までに味わわされた、窒息するくらいつまらない出来事たちについてのつぐないを、ナナエは人生に対して求める。現実に対して求める。人には見えないとタカをくくってお隠れあそばしている神さま、いるならあんたにもだ。

 ナナエはあの時、きっぱりと定めた。もう決まった。決定事項だ。神さまよりも絶対に、絶対だ。


 オーロラになる。


 とてつもなく素敵な大きさで空をゆれる、オーロラになれる生き方をする。オーロラの歌を信じて無言の宇宙を見上げる人がいたら、きっとこたえてあげよう。ねむってしまうくらいやわらかな歌を、そっとささやいてあげよう。その人たちにだけ聞こえるように。



 字を書くのはきらい。幼稚園のときからだ。おぼえるまで何回も怒られて、書かされて、罰を強いられてるみたいですごくイヤだった。

 歌うのは好き。声は字よりも速い。何も考えなくたって思った通りの形になる。

 歌っていれば幸せだった。歌はいつでも歌えるものだ。ナナエはいつも幸せだった。



 きっと最初から始まっていたのだと思う。



 ピアノは幼稚園から習った。

 初めて鍵盤に手を乗せたとき、それは起こった。

 ナナエの周りが急に静かになった。一瞬のことだったのか、永遠だったのか、分からない。ナナエの横に座っていた先生も後ろで見ていたママも、床に座っていたほかの子も、みんな凍りついて動かなくなった。たったひとりナナエだけが自由で、鍵盤にいつ指を落とすかを決めることができた。

 ナナエはたっぷりと待った。焦らなくてもいいことは分かってた。そして今だと思ったとき、ナナエは最初の音を鳴らした。


 ぽーん。


 動き出した時間の中で、その一音が響きわたる。続いて別の指を落とせば、少し高い音が出る。低い音も出る。左手で打った長い音に重ねて、右手の指を次々と落として音を連ねる。列なりは耳を通り抜けて、時間を意味で彩っていく。

 ふるえた。ナナエは痺れていた。そしてはっきりと分かった。見えた。世界の入り口が。ナナエはこれから、深い海の底にどんどん潜っていって二度と戻ることはないんだ。



 楽しいなんてものじゃなかった。

 指先のうごきひとつで喜びをいくらでも作れる。音符は文字よりも分かりやすかった。すぐ読めた。ナナエが新しいことを覚えるたびに先生が何か言ってたけど聞こえなかった。ナナエは夢中になった。いつまでもいつまでもピアノをしていたかった。ほかの子はママが来たらそっちに飛びついてたけど、ナナエはそんな気にはなれなかった。ママが来なければいいのにと思った。ピアノの方がよかった。

 だってすごいんだもの。



 パパとママには愛されていたと思う。

 愛。

 愛のことを考える。愛は、あたたかい。やさしい。安心できるし、結構うれしい。たまに窮屈だけど、とても居心地がよい。愛はナナエを包んでくれる。それは素晴らしいものだ。

 だけど、すごいと思ったことは一度もなかった。



 すごいことがいい。

 すごいことが一番いい。一番ほしい。だって、すごいことよりもすごいことなんてこの世にはない。すごいことに出会ったときにだけ、本当の本当を感じ取れていると思える。きっとナナエは、すごいことのために生まれてきたのだと思う。すごいことのためなら死んでもいい。

 衝撃で破裂してしまうくらいの、すごいことを。



 高校でバンドをした。ナナエはベースを持って歌った。あれはナナエの人生では珍しく最悪だった。練習をしてても、ほかの奴らがすぐ帰ってしまうのだ。ナナエはがんばった。奴らを帰らせないようにした。部室に鍵をかけて、その鍵を窓から投げ捨ててやった。そしたらあいつらは本気で怒りだして、電話で人を呼んで鍵を開けて帰ってしまった。それからはもう何を言ってもだめ。みんなバンドをやめていった。なんなの。始める前には命をかけるようなことを言ってたくせに、鍵捨てたぐらいでおしまいかよ。

 そんなのなら要らない。仲間はいて欲しかったけど、なれる奴がいないのだからしょうがない。ナナエが一人でやるしかなかった。



 テレビが歌のオーディションをやっていた。これだと思った。ナナエはすぐ応募した。リサとかに手伝ってもらって履歴書を作って送った。ナナエなら受かるかもね、と言われた。どうやら受からないかも知れないと思ってたみたいだ。いつもじろじろ見てるくせに、ちゃんとナナエが見えてないのか?

 会場はぜんぜん豪華じゃなくてがっかりした。係の人に言われて並ばなくてはいけなくて、学校みたいだった。

 オーディションに来てたほかの子たちは審査基準がどうだとか細かいことを話していた。深呼吸をしたりしてる人もいた。とてもこれからテレビに出るような人には見えなかった。ぜんぜんすごくなかった。

 どうせナナエが受かる。なんでか知らないけど最初からそれは分かっていた。とくに不安もなかった。その結果が見えていて審査のために並んでいるときの、あの変な気分が分かるだろうか。ナナエは茶番につき合ってるのだ。それがちょっとおかしくて吹き出した。それでもナナエの番が近づくと、気持ちは昂った。あれは緊張だったのだろうか。たぶん違う。脳味噌の奥からマグマみたいに熱いかたまりが沸いてきて、外に出たがってナナエの体を内側から叩きまくる。暴れる。腕を押さえても震えが止まらない。どうにかなりそうだった。並んでる間にウーッウーッとうなった。

 ナナエの歌う番が来たとき、せり上がってきたそれを声にして思いっきり吐き出した。自分でも驚くくらいの大声が出た。体が勝手に動いて止まらなかった。まるでせき込んでいるときみたいに。からっぽのナナエの体に、何か得体の知れないものが乗り移って声を出しているような感じだった。どこまで行ってしまうかは分からなかった。でも止まりたくなかった。ブレーキは踏まなかった。

 体が汗でぐっしょり濡れた。出すべきものを出し尽くした。スカッとはした。でも頭がガンガンした。痛かった。割れてしまいそうに痛くて痛くて、気持ちいいのか悪いのか、自分でもよくわからなかった。だけど、すごかった。それは確かだ。これだけすごいのだから、頭が割れてしまっても別にいいやと思った。そもそもナナエがなんのために生まれてきたって、それは爆発するためだろう。ナナエは花火の花子ちゃんだ。この体が爆ぜて消し飛ぶなら本望だ。ただし丸く百キロは巻き添えにしちゃうけどね。



 そのあとも踊ったり、演技したり、面接したり、また歌ったりと審査は進んでいった。みんながナナエを見ていると感じた。また目玉の集まったあの怪物がナナエを見ていたのだ。怪物は前よりも凶暴になっていて、大きな手でナナエを掴んだ。強く握られた。痛かった。だけどナナエは怖くなかった。怪物にはすっかり慣れている。怪物の目玉をじっと見つめると、怪物はおとなしくなった。かわいいやつだと思った。

 審査では最後に三人が選ばれた。もちろんナナエも入っていた。そのときにはナナエもぼーっとなっていた。だからナナエ以外の二人のことはよく覚えてない。その子たちもすごくなかったし。二人とも、自分が選ばれてたことに驚いたふりをしていたと思う。



 たくさん告白された。

 オーディションに受かってからはよく男子から呼び出されるようになった。最初はただうれしかった。恋だよ恋。愛だよ愛。パパでもママでもない人が、ほかならぬナナエのことを好きだというのだ。スタンプをもらえたような気分になった。可愛くてありがとう、素敵でいてくれてありがとう、というスタンプだ。ふっひっひ。

 だから二人目、三人目と続けて告白を受けたとき、「これは集まる」と思った。ナナエはメモ帳と☆印のスタンプを買った。そして告白してきた奴らみんなに、名前を書いてもらった。で、横に☆をスタンプしてもらった。

 ☆はどんどん集まってメモ帳を埋めていった。流星帳だ。どのくらい集まったかなって、その数を数えるのがとても楽しかった。これはすごい発明だ。何回数えても飽きないのだ。たいがいのことはすぐつまらなくなるものなのに、こんなに繰り返しても飽きないというのは今までにはなかったことだ。

 ☆は今では三十二個も集まっている。中には女の子の名前もあった。

 流星帳はナナエの財宝だ。



 流星帳は最高だけど、告白してくる男子はどいつもこいつも☆一つのボンクラばかりだった。何がボンクラって、ナナエがテレビに映るのを見ていておきながら、それに当てられて告白しておきながら、ナナエがどれだけ大きいのか分かってないってとこだ。あそこにいるチンピラのケツ蹴っ飛ばして来いとか、ちょっと根性を求めただけで尻込みしやがる。もう少し面白くてもいいだろう。ナナエと付き合うのがどれだけのことか分かりもせずにナナエに付き合えと言ってくる。これはもうボンクラと言うしかない。

 学校にボンクラしかいなかったせいで、結局ナナエのセカンドバージンは何とか言うヤクザの親分に貰われることになった。



 ある日、ナナエのマネージャーの新屋が打ち合わせ室でタロットカードを三枚並べて見せた。ナナエがワクワクする話しか聞けないのを、この人はよく知っている。


 教皇。

 悪魔。

 愚者。


 新屋はナナエに説明した。日本でナナエのことを知っている人はまだまだ少ない。ナナエの歌をみんなに聴かせるには、もっとナナエを売り出して人気を稼がなければならない。ドラマやバラエティ番組や映画に出たりして。芸能界での人の流れを握ってるのは権力だから、権力のバックアップが必要になる。けど権力はただでは貸してもらえない。相手の望むものを差し出す必要がある。たとえばお金。でも権力を持ってる人は元からお金持ちだから、多少のお金では動いてはくれない。その代わりナナエの場合には、もっと効率のいい方法が用意されている。それはナナエがその人たちと仲良くなることだ。ナナエは魅力の塊そのものだから、仲良くなりたがっている男の人は多い。意味は分かるね?

 とうとうセックスを使う時が来たということだ。なんで回りくどく言うのかは知らないけど。

 新屋はカードをとんとんと叩いて、それぞれの意味を説明した。


 ――法皇は信者数五百万を誇る潜伏型宗教団体「正誤の福音」の教団幹部のおっさん。

 ――悪魔は裏日本第二層を掌握する暴力団のひとつ「創攻会」の会長をやっているおっさん。

 ――愚者は日本中の誰もが知る最強のお笑い芸人「駄目丸」の雨宮さんというおっさん。


 まずはこのうちの一人とセックスするなら誰にする? と言われた。持っている権力の範囲はそれぞれバラバラで、誰とセックスするかで今後の展望も変わるらしい。ナナエにはよく分からなかった。だけど選ぶのは簡単だった。ナナエは悪魔のカードを指で弾いた。これが一番爆発に近い。一番ナナエの目指す輝きに近い。こういうところではナナエは間違わない。



 虎の屏風のある部屋で、ナナエは親分に貫かれた。からだの芯をほじくられた。気持ちいいというより痛かった。痛くて痛くて爆笑した。親分は容赦がなかった。前から後ろからナナエを荒らした。涙が出たよ。でも泣きはしなかった。親分が「何がおかしい」と聞いてきた。ナナエは思ってることをそのまま答えた。びっくり体験だ。親分はナナエの目をのぞき込む。睨むように。ナナエを見抜こうとしているのだ。あ、すごい。あの目玉の怪物と同じ感じだ。この人はたった一人でも怪物のパワーが出せるのだ。ナナエの選択は正解だった。触るだけでも価値があるパワーと出会えたのだ。

 親分はナナエに注射を打った。一瞬だけからだが沸騰した。世界が泡になった。でもそれだけだった。すぐに世界は元に戻る。親分は言った。「なんだ、効かねえのか。すげえな」薬はナナエを侵すには薄かったらしい。そんなナナエは麻薬はよせっていうCMの撮影を来週やる。



 死ぬほど気持ちいい目に遭った後、親分がご飯を食べるのにも付き合った。高級車に乗せられた。運転するのは親分だった。ナナエは助手席ではなく後ろの席に座らされた。隣にはかみさんしか乗せないんだ、もういねえけどなとか尋ねてもないことを言う。


 車は駅前で大男をピックアップする。ナナエの隣に乗り込んできた。


 やたらでかい男だった。ナナエと同じ高校生だ。制服を着てたから分かった。まるでミノタウロスが服を着てるみたいだ。滅茶苦茶凶暴そうだった。また怪物だよ。ナナエは怪物に縁があるのかな。ミノタウロスが言った。

「どこ行くんだよ」

「メシだ」

 親分が答えた。車は揺れないけど二人の声は重低音だった。お腹に響いて心地良かった。親分はナナエにミノタウロスを紹介する。

「俺の息子だ。名前は克美。跳ねっ返りのクソガキだが、仲良くしてやってくれ」

 克美。彼の坊主頭は虹色に染め上げられていた。

「へえ。克美の頭、きれいだね」

 触ろうとした。顔はキモいがその印象を塗りつぶすほど獰猛な肉体がおもしろいので、触ってやってもいいかなと思った。

 だけど振り払われた。克美はこちらを見ようともせず親分に言う。

「女作るたびにいちいち俺に会わせんなよ。寂しいのか?」

「そうだよ。老い先が見えてくるとな、クソガキが突っ張ってるだけでも嬉しくなるんだよ。まんま昔の俺じゃねえかってな。遺伝子だ、遺伝子」

「気持ちわりい」

 おいシカトかよ。

 克美はナナエを露骨に無視して父親と会話する。ムカつき行為だ。ナナエは思い出した。人から無視されるのなんて久々だ。もうここ何年も、ナナエはみんなから注目されるのが当たり前だったよ。

 親分が言った。

「ただの女じゃねえ」

「あん?」

 親分が克美の思い違いを正したけど、それ以上の説明はしなかった。しばらくして克美はようやくナナエを見る。

「あ。こいつ7eだ」

 やっと見えたか。

「親分、何食べに行くの?」

 ナナエは親分に話しかける。克美のことはシカト仕返してやることにした。困れ。

「寿司だ。言っとくが旨いなんてもんじゃねえからな。金だけあっても一生入れねえとこだ。楽しみにしとけ」

「ふーん」


 腕に激痛が走った。


 ナナエの肺が勝手に膨らむ。息が吸い込まれる。痛い。死ぬほど痛い。ナナエの腕が克美に捕まれていた。凄い力だ。変な声が出た。

「ほごあっ!?」

「無敵だと思ってんのか?」

 ぎりぎりと腕が軋む。握りつぶされちゃいそうだ。

「ちょっと人気あるからって、どこ行っても無敵だと思ってんのか? 死なないと思ってんのか? おい7eさんよお」

 克美がナナエを責める。ナナエはどきどきする。ふっひっひ。嬉しくなる。楽しくなる。ナナエは別にMい訳じゃない。痛いのが楽しいんじゃない。克美のおかげで今日は退屈しなさそうだ。それが嬉しいのだ。強い強い刺激がある時だけ、ナナエは退屈しなくなる。痛みがナナエの苦しみを和らげる。

「あはははは、怒った! 克美怒った! クソうける! 克美のマジギレクソうける!」

 痛い痛い痛い。ナナエは克美をバカにする。思いっきり笑ってやる。楽しい楽しい。強そうな化物のプライドを傷つけるのも、こっぴどく痛めつけられるのも、どちらも楽しかった。痛い痛い痛い痛い痛い。

「オレがキレると楽しいか? じゃあもっと楽しくしてやろうか」

 胸を揉まれる――と言うよりも、つねられる、と言う方が近かった。でかい手で大きく捕まれてるのに、つねられたみたいに鋭く痛い。いま、ナナエの胸は相当可愛そうなことになっている。痛い、痛い、痛い、痛い。笑ける。

 突然車体が揺れた。

「ほ!?」

 ナナエも克美も体が滑って前の座席にボスンとぶち当たる。しかし克美は胸を離さない。痛い痛い。いい加減にしろよ。

 車は停止していた。フロントがひしゃげてる。道路を少し出て、電柱に激突していた。

「克美、その辺にしとけよ」

 親分が車をバックさせながら言う。わざとぶつけたのかこの人。ふっふ。

「言っただろ。ただの女じゃねえんだよ。年に十億稼げるか? てめえにそのくらいの働きが出来るか? てめえにその女ほどの価値はねえ。壊したらてめえが賠償すんだが、出来ねえよな。落とし前、つけられねえよな。粋がる場面が違うんじゃねえか?」

 克美は黙って親分の話を聞いていた。ナナエを睨みながら。しばらくして手を離した。鬼みたいな顔してたのが、すっと無表情になる。

「悪い。いい女だからうっかりおっぱい揉んじまった」

 なんだそれ。

「親父、この女食ったのか?」

「食ったらどうなんだ。悪いのか」

「食ったのかって聞いてんだよ」

 ごちゃごちゃ言い合ってる。しかも失礼な感じで。ナナエは割り込んだ。

「逆だよ。ナナエは誰にも食われない。ナナエが親分を食ったんだよ。ぱっくんちょって」

「ははははは! そうか、俺を食ったか!」

 親分は笑った。克美は仏頂面だった。



 リサがどんどんつまらなくなっていく。

 たまに面白いことをしてナナエを喜ばしてくれるけど、いつも同じ方向にしか予想を越えてくれない。むしろナナエの予想の方が面白かった。広がっていく予想にリサは追いつけない。まあ別にいいんだけど。リサがつまらなくなるのはリサの勝手だ。

 リサはナナエのことを一番に好いてくれるし、きっと一生親友同士だ。でもそのことには何の意味もない。



 流星帳の伸びも頭打ちになってきて、ナナエはまた餌を探し回らなくてはいけなくなった。とてつもない何か。魂の渇きを満たすもの。

 とてつもないものは気まぐれだ。それは思いもしない時にひょっこりナナエの前に現れる。だけど待ってても向こうからは来てはくれない。それならそれでいい。ナナエは、自分から動くことにした。



 親分の口聞きでナナエはドラマに出れることになった。

 監督との打ち合わせはいつものように終わった。ナナエはニコニコしてるだけだ。話は聞かなくていい。大事なところは後でマネージャーの新屋が教えてくれる。



 帰りの車で、ナナエは新屋に話を切り出してみた。

「リサがアイドルになりたいって言ってるからならせてあげてくれない?」

 新屋は運転しながら聞き返してくる。

「リサ? 誰ですかリサさんって」

「ナナエの友達。親友なの」と電話で写真を見せてやる。

「……」

 新屋は黙った。せっかくナナエが説明したのに、何も言わなくなる。

「ねえ」

「すみません。話が唐突だったもので」

「そこはどうでもいいでしょ。リサのことよろしくね。今度連れてくるから」

「いや、いきなりそんなことを言われても」

 ふざけたことを言うので、ナナエは運転席を後ろから蹴りつけた。

「それどういう意味? だめって意味? そんな答えナナエ聞きたくないんだけど。分からない訳ないよね?」

「ナナエさん。聞いてください」

「やだ。あんたがナナエの言うことを聞くの。嫌ならいいよ? ナナエの言うこと、ずっと聞かなくていいから」

 軽く脅すと、マネージャーはあっさり頷いた。

「分かりました」

 こいつは怒らない。ナナエがどれだけ理不尽をやってもだ。変なやつだと思うけど、そこがいい。どこまでやったら限界を越えるのか、ついつい試してみたくなる。この前は灰皿で前歯を二本折ってやったのに、こいつは口から血を垂れ流しながらぺこりと謝った。その時からこいつの前歯はなくなり、ナナエはこいつがちょっと気に入った。おもちゃは壊れても動くものがいい。

「けどわたしに決定権はありません。社長に会わせてみましょう。社長が気に入るかはその子次第ですけどね」

 分かりました、と言った割には後からごちゃごちゃ言う。知らない。ナナエは聞いていない。結果がどうなるかなんてナナエの知ったことではない。面白いことが起こればそれでいい。面白くなければ、またこいつを殴ればいい。

 人生は楽しくなくてはならない。

 楽しくなければ楽しくするし、楽しくできなくても楽しくある。ナナエは楽園に住んでいる。

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