雨が降る、

名▓し

プロローグ

 春のかすみがかかった空気のもとで、白いスカートがゆったりとれる。

 心地よい風にって歩く感覚かんかくに、どことない郷愁を覚えながら、ゆっくりと坂道をりていく。

 


 久々に降り立った地面の感触は、両脚から頭のてっぺんまで行きとどく。杖なしで歩くのは、実に一年ぶりですこし不安だったけど、すぐになくなった。リハビリの成果がちゃんと出てくれている。

 

 足裏でしっかりとアスファルトを踏みしめ、かつかつと靴を鳴らすのは気持ちが良い。



 清風に乗ってきた薄紅がうつらうつらと頭上にはりつく。遠巻きに見える軒並みには満開の桜が広がっていて、木陰では羽を休める二匹の小鳥が仲睦まじく雛たちに餌を与えている。


「……春だなぁ」


 心なしかそんな言葉を発するほどに今日の私は心がはずんでいた。まるで恋人との初デートのように足取りは軽く、瞳は期待と不安で満ちている。背伸びした感覚で閑静な道を歩き、入り組んだ細い道を地図を頼りに進む。



 この日のために新調したワンピースは朝日を透けさせ、その純白さは、さながら花嫁のウエディングドレスを彷彿とさせるほどの言葉なき貞操帯として、私の身体にまとわり付いている。色素の薄いレースが陽炎かげろうを打ち断ち、大きめのブレードハットが太陽を遮る。両手で日避けのパラソルでも持っていたら、箱入りのお嬢さまのように見えるかも知れない。



 国道2号線沿いに立ち並ぶビルを左に曲がり、大通りに抜ければ、ふわっとした気持ちの良い風が全身を包み込んだ。一呼吸する度に、肌を満たす爽快感が電撃のように駆け巡る。



 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い上げ、ふう、と息を吐けば心がすっきりと満ち足りたような気持ちにさえなる。右手に持った花束が風とともに揺れ、軽快なステップを踏む。それを大事そうに頬に寄せれば、甘く爽やかな香りが胸をきゅっと締め付けた。



 信号が切り替わる。人々が横断歩道を渡り始め、それに続く。



 やがて向こう側のビルが近づいてきたといったところで、ふと、足を止めた。


「――あ、そういえば」


 思い出したように鞄の中に手を突っ込み、なにかを探し始める。こんなところですることでもないが、ここでなければならない理由がある。しばらく漁っていると、なかから一冊の古びた本が姿を現した。


「あったあった……」


 手で埃を払いのけ、包むように優しく手に取る。表紙は破けてページは黄ばみ、もはや文庫本ともメモ帳ともとれないそれを穏やかなに照らして、なかのページを開いた時。




 強い風が吹いた。




 群青の花びらが吹雪のごとく飛ばされ、しんしんと宙を舞う。艶やかな長い髪が朝日に晒され、繊維の一つ一つが光沢を帯びた。

 振り返った一刹那、もうその時には、花びらも帽子も、風も。視界に入らなくなっていた。


 風とともに飛ばされた帽子が紺碧の花弁に包まれた白い蕾のように踊り散る。

 その方向――道路を挟んだ向こう側に、淡い白光が照りついた。花色の宝珠の一つがそれに触れ、華奢なシルエットを写し出す。


「あ……」


 無意識に声が漏れた。気を抜けば、きっと涙が出るだろう。それを寸前で押し止め、澄み切った目で前を見る。



 立ち尽くしたように、私より少し年下の少年が無気力に空を眺めている。若干15を過ぎたその子はぼろぼろの診察衣を着ていて、一目では男女の区別がつかないほど可憐で儚い。色素の薄い瞳に映るどこか哀愁を漂わせた表情は、言いようのない庇護感を与える。



 まるで誰かを待つように、諦めた世界を反射していた。

 道端でたったひとり永遠の時を過ごすその影は寂しそうで、叶うことならいますぐにでも抱き締めてあげたい。


「こんにちは」


 私の声に男の子が振り向く。長くまっすぐに伸びた髪が光を反射して、いとおしく感じる。


「―――」


 少年は口を開いたが、その声が聞こえることはない。けれども私はゆっくりと頷いて、うつろな瞼に微笑みかける。


「うん、そうだよ。だから一緒に帰ろう」


 雫の溜まった瞳を限界まで細め、手を差し伸べる。



 春の心地よい風が花びらを舞い上げる。少年の掌が私の手に乗り、それをゆっくりと握りしめる。ほのかな体温が身体の芯を通して心を溶かす。少年は朗らかな笑みを浮かべ、そして、花びらとともに消えていった。



 かつてその瞳で、私を愛したように。

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