第三章

 人びとに慈悲を乞いながら、ジュリアンは世界をへめぐった。

 街道を騎馬の旅人がゆけば、片手を差し出し、刈り取りをする農夫の前には跪き、そして、城門の前ではじっとうずくまり、人びとに慈悲を乞うた。その悲しみに満ちた相貌に、布施を拒むものは一人としていなかった。

 改悛の気持ちから、ジュリアンは自らの身におきたことを物語った。ところが、それを聞いた人びとは、だれもがおぞましさに十字を切り、彼のもとを離れていった。以前に来たことのある村を通りかかり、ジュリアンだとわかりでもすれば、村人はみなかたく扉を閉ざし、脅しの言葉とともに、石を投げつけてくる。最も慈悲深い人びとでさえ、窓辺に鉢を置くにとどめ、その姿が目に入らぬよう、雨よけの覆いをあわてて引き下ろすのだった。

 だれからも疎まれ、ジュリアンは人間を避けるようになった。木の根や、植物、地に落ちた果物、あるいは砂浜で見つけた貝類を食べて、飢えを凌いだ。

 ときに山道の曲がり角を越えると、眼下に街の眺めが広がることがあった。身を寄せ合うほどに櫛比する甍、石の尖塔、川に架けられた橋に城の鐘楼、そして交錯しながら延びる黒い道。孜々たる人の営みが、ジュリアンのもとに届いた。

 人びとに交わりたい欲求に負けて、つい街なかへ下りていったこともある。だが、人びとの獣じみた姿、往来の喧騒、無味乾燥なお喋り――そのすべてに、ジュリアンはすくみあがった。祭りの日には、大聖堂の鐘が鳴らされるや、まだ早朝にもかかわらず人びとが家の外へと繰りだし浮かれ騒ぐ。広場ではダンスを踊り、四つ辻ではなみなみと注がれたビールをあおる。領主の館前は、緞子で美々しく飾り付けられている。そして、夜ともなれば、窓から家のなかの様子が窺えた。老人が孫を膝にのせて卓についている。ジュリアンは悲しみに胸が潰れそうになり、野の暮らしへと舞い戻った。

 草を食む若駒や巣の中にいる鳥の雛、そして花にとまる虫が目に入ると、ジュリアンの心には愛情が溢れた。しかし、少しでもジュリアンが近づけば、馬はおびえて逃げ出し、鳥は身を隠し、虫はすぐに飛び去ってしまう。

 ジュリアンは孤独を求めた。だが、耳に届く風の音は、瀕死の人間の喘鳴を思い起こさせ、地をしっとりと濡らす朝露は、粘つく血糊を思い出させた。夕方になれば、雲は陽の光を浴びて、血の色に染まる。毎夜、ジュリアンは親殺しの光景をくりかえし夢に見た。

 ジュリアンは鉄釘で苦行衣をこしらえた。頂にある礼拝堂をめざして、膝立ちで丘をのぼっていく。だが、そこで見事な聖櫃を目にしても、その壮麗さはただ色あせて見え、改悛の苦行のさなかにおいても、ジュリアンは苦しみ続けた。

 ジュリアンは己に罰を与えたもうた神に抗おうとは思わなかったが、このような罪を犯した己自身に絶望していた。

 己が身こそが恐怖の対象であった。それゆえ、ジュリアンはわざと我が身を危険に晒した。火事になれば、身体の不自由な者を炎のなかから救い出し、深い穴に落ちた子供がいれば深みにおりて、助け出した。だが、その度いつもジュリアンは死を免れた。

 時がすぎても苦しみはやわらぐどころか、むしろ堪えがたいばかりに募っていく。ジュリアンはついに死を決意した。

 そんなある日のことである。ジュリアンは泉のうえに身をかがめて、どのくらいの深さがあるのかと考えていた。するとそのとき、目の前に白い鬚をはやし、やせ衰えて見るも無残な姿の老人が現れた。それを目にするなり、ジュリアンは涙をこらえきれなくなった。老人も涙を流している。ぼんやりと姿を眺めるうち、ジュリアンはふと似ただれかのことを思い出した。ジュリアンは叫びをあげた。老人はジュリアンの父であった。このときから、ジュリアンは死ぬことを諦めた。

 かくして、記憶の重みに押しつぶされそうになりながら、ジュリアンはさまざまな国を遍歴した。あるとき、ジュリアンは、大河の畔にやってきた。川の両岸には泥土が広がり、また流れが速いため、渡河するには多大な危険をともなう。どうやらずいぶん長いこと、渡河を試みるものはいないようだった。

 ジュリアンは葦のなかに古い小舟が打ち捨てられているのを見つけた。舳先は葦の間から飛び出し、艫は泥に埋もれている。小舟には一組の櫂が残されており、この舟を用いて、残りの人生を人びとのために使おうとの考えが浮かんだ。

 ジュリアンはまず、河岸まで下りていけるように堤を築くことを考えた。大きな石を掘りおこしたせいで爪は割れ、それを腹に抱えて運ぶときには、泥のうえで何度も足を滑らせた。泥にはまり身動きがとれなくなったりと、いくどとなく危険な目にあった。次にジュリアンは舟の残骸を利用して小舟を補修し、粘土と木の幹を用いて小屋をつくった。

 こうして、渡河できることが方々に知れ渡ると、旅人がやってくるようになった。彼らは対岸から旗を大きく振って、ジュリアンを呼ぶ。ジュリアンは小舟に飛び乗り、彼らのもとへかけつけた。さまざまな荷物を満載することになるため、舟はいつもひどく重かった。おまけに荷駄用の家畜が、おびえてじっとしていないため、余計に舟は重く感じられた。ジュリアンは渡し賃などは一銭も受け取ろうとはしなかった。しかし、人びとのなかには、頭陀袋のなかから食糧の残りをくれるものもいれば、着古した衣類を不要との理由で、差し出すものもあった。ときには乱暴者に罵詈雑言をなげつけられることもあったが、ジュリアンは甘んじてそれを受け止めた。それに対して、またも悪罵が返ってきたりもしたが、ジュリアンは彼らを祝福した。

 小卓が一つ、腰掛けが一つ、枯れ葉を集めた寝床、三つの粘土の鉢。家財道具といえるものは、たったこれだけだった。壁に穿たれた二つの穴が窓の役を果たしている。小屋の裏側には、見渡すかぎり荒涼たる平野が広がり、ところどころに青白く見える池がある。表側には、緑がかった波を波打たせる大河がある。春になれば、ぬかるんだ土地は腐臭を発した。荒々しい風が吹き始めると、土埃が渦となって巻き上がり、小屋の中にまで入ってくる。水は濁り、ジュリアンがものを噛むたび、ざりざりとした音がした。夏には、蚊が雲霞の如く押し寄せ、昼も夜も悩まされ続ける。そして、霜が降りる季節がやってくれば、すべてが石のようにこわばり、肉を食べたいという欲求に苛まれた。

 幾月も、人間の顔を見ることなくすごすこともある。ジュリアンはそんなとき、目を閉じて若かりし頃の思い出を記憶に蘇らせようとした。城の中庭、石段の上のレトリバー、武器庫の従僕たち。そして、葡萄棚の下には金髪の少年が毛皮をまとった老人とヘニンをかぶった貴婦人のあいだにいる。すると、突然それは二体の死体へと変貌してしまう。ジュリアンは寝床にうつ伏せに倒れ、泣きながらくり返し叫んだ。

「かわいそうな父上、母上!」

 まどろみのさなかにも、この不吉な光景は絶えずジュリアンを襲った。


 ある晩、ジュリアンが眠っていると、だれかが自分の名を呼ぶのを聞いた。耳を澄ましてみるも、聞こえてくるのは川浪のうねりだけである。

 また同じ声が聞こえた気がした。

 ――ジュリアン!

 声は向こう岸から聞こえてくるようだった。川幅の広さを考えれば、不思議なこともあるものだ。

 ――ジュリアン!

 声はまたしてもジュリアンを呼んだ。

 その高い声は、教会の鐘の音のような響きを帯びて、ジュリアンの耳に届いた。

 角灯に火をつけ、ジュリアンは外へ出た。夜の深い闇のなかを、嵐が吹き荒れている。その闇のところどころに、白い波頭が跳ねるように見えた。

 しばしの逡巡ののち、ジュリアンは舫い綱を解いた。突然、波が静まり、凪いだ水面を小舟は滑るように進んでいく。対岸にたどり着くと、そこには一人の男がジュリアンを待っていた。

 男はぼろぼろの弊衣に身を包み、石膏の仮面のような蒼白い顔をしていた。そのなかで、双眸だけが石炭のごとく赫々と輝いている。灯りとともに近寄ってみると、その肌は見るもおぞましい膿瘍に蔽われていた。にもかかわらず、男の物腰にはまるで王者のような威厳があった。

 男がのりこむと、小舟は重みに耐えかねるように深く沈みこんだ。だが、ひとゆれで元に立ち戻ったので、ジュリアンは舟を漕ぎ出した。

 櫂を一かきするたびに、逆波が舳先を持ち上げる。墨のように真っ黒の水が、小舟の両脇を狂ったように流れていく。水はうねりながら谷のようにくぼんだり、山のように盛り上がったりをくり返した。風に煽られた小舟は、そのたびに波のうえに乗り上げたり、そこから急速に旋回しながら落ち込んだりした。

 ジュリアンは身体を傾け、両腕をのばした。足を踏ん張り、さらに力をいれようと、上体を捩るようにしてのけぞった。降りしきる霙に両手はかじかみ、背筋を雨水が伝う。嵐の激しさに息がつまり、つい動きが止まる。すると、またたくまに小舟は流れに呑まれそうになる。しかし、これは人知を超えたなにか、背くべからざる命のように思われて、ジュリアンは櫂を取りなおした。櫂栓の軋む音だけが耳に響き、いつしか嵐の音は聞こえなくなっていた。

 舳先では小さな灯りが燃えている。ときどき鳥が寄ってきては、灯りを隠した。だが、艫に微動だにせず柱のように突っ立ったままの男の双眸がジュリアンには見えていた。

 それはいつまでも、いつまでも続いた。

 小屋にようやくたどり着き、ジュリアンが戸を閉めると、男は腰掛けのうえにくずおれた。身を覆っていた屍衣を思わせる布は腰のあたりまでずり落ち、肩や胸や痩せた両腕が鱗状の膿疱に一面覆われているのが見てとれた。額には深い皺が刻み込まれ、鼻のあるべき場所には髑髏のようにうろが穿たれている。青白い唇から発せられる吐息は、吐き気を催すような臭気をはらみ、霧のように澱んでいた。

 ――腹がへった。

 ジュリアンは、そこにある食べ物すべてを男に与えた。古い脂身の塊と黒パンの耳を。

 男が貪りつくすと、彼の触れた小卓や鉢、ナイフの柄にはその身体にあるのと同じような黒いしみができた。

 ――喉が渇いた。

 ジュリアンは壺を取りにいった。壺を手にすると、そこからは馥郁たる香りがあふれ、ジュリアンの肺と鼻腔を満たした。思いがけぬことに、それは葡萄酒であった。男は手を伸ばすと、一息に壺の中身を空にした。

 ――寒い。

 ジュリアンは小屋の中央にある羊歯の山に蠟燭から火を移した。

 男は、火のそばであたたまった。うずくまり、その全身は瘧にかかったように震えている。両目は輝きを失い、肌を膿が流れている。男は衰弱していた。いまにも絶え入りそうな声で、男は云った。

 ――お前の寝床を貸してくれ。

 ジュリアンは男を支え、その身を寝床に横たえると、舟の粗布をその上に覆いかぶせた。

 男は呻きつづけている。口の端では歯が剝き出しになり、忙しない喘鳴に胸元は上下し、息をするたび背骨につくほど腹がくぼんだ。

 男は目を閉じた。

 ――骨まで凍っているみたいだ。そばに来ておくれ。

 ジュリアンは粗布を引き上げると、男と並んで枯れ葉の上に横たわった。

 男はジュリアンのほうを振り返った。

 ――服を脱いで、お前の身体で温めておくれ。

 ジュリアンは服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になると、その肌に身を寄せた。太腿には蛇のように冷たく、やすりのようにざらついた感触がある。

 ジュリアンは男を励まそうとした。男はとぎれとぎれの言葉を紡いだ。

 ――ああ、死んでしまいそうだ。もっとそばに! 手ではなく、お前の全身で温めておくれ。

 ジュリアンは男のうえに覆いかぶさった。口と口、胸と胸を合わせて。

 男はジュリアンの身を抱きしめた。不意に、その双眸は星のごとき光を帯び、髪は太陽の光のように伸び広がり、鼻から漏れる息は薔薇の芳香をまとった。炉床からはこうの烟がたちのぼり、波音がたえなる調べを奏でた。

 あまりの歓喜と恍惚が怒濤のごとく押し寄せ、ジュリアンの魂はいまにも溺れんばかりになっていた。ジュリアンの身を包む男の身体はぐんぐん大きくなっていく。ついに頭は小屋の天井に、両足は壁に触れるまでになった。屋根がふきとび、蒼穹が目の前に広がった。ジュリアンは救い主キリストと向かい合わせになり、彼にともなわれて天へと昇った。


 私の故郷にある教会のステンドグラスに描かれた聖ジュリアンの物語とは、およそかくのごとくである。



〈了〉

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