ヨジジの世界 二丁目の角にはタバコ屋があった

山本 ヨウジ

第1話 ろうそくの炎

「おはよう……あなた。愛しているわ」


 女は、作り笑いを浮かべると、鳥肌が立たない様に少し腕を浮かして男の首に手を回した。愛なんて微塵みじんも感じていない。

女が欲しいのは、この男、三郎の莫大な財産だけだった。 その為に二十歳の年の差を押し切ってまで、四十歳になる、こんな男の後妻に納まったのだ。

 そんな日々も、後少しの辛抱だ。三郎の頭の上で揺らめいているロウソクの炎が消えるまでと、律子は思っている。


「律子……どうして私がプレゼントしたネックレスをしてくれないんだ?」


「ごめんなさい。ゴールドが肌に合わなくて、湿疹ができてしまったの」


 そう言うと、律子はみにくく腫れあがった首筋を三郎に見せた。


「ウッ! なんてひどいんだ……医者には診てもらったのかい?」


「アレルギーだそうよ。ひどくて……化粧も出来ないわ」


 律子が化粧をしていない青白い素顔で微笑むと、三郎の頭上で揺らいでいるロウソクの炎が、また少し小さくなった。

 律子にそれが見えるようになったのは一か月前だった。

 三郎が釣ってきた魚を食べて、アニサキス食中毒を起こしてしまった日。必死で看病してくれる三郎を、許す気もなく憎々しく思っていた。

 そんな時、ふと三郎を見上げると頭の上に、真っ白なロウソクが浮かび上がり、その先でオレンジ色の大きな炎が揺らめいていたのだ。


「あなた……それは……」


 律子はロウソクを指差してみたものの、我が目を疑っていた。


「それ? 何か後ろにあるのかい……」


 三郎は後ろを振り返った。自分の頭の上に炎を灯したロウソクが浮かんでいるなんて想像もしていない。


「そうよね……ごめんなさい。幻覚を見てしまったみたい」


「ごめんな。俺のせいで……」


(絶対に許さない! 早く死ねばいいのに)


 涙を浮かべ頭を下げる三郎を刺すようににらみつける律子。食中毒で頬がこけ、土褐色の顔は鬼のようだった。

 その瞬間、三郎のロウソクの炎が少しだけ小さくなった。


(あら! ビビったの? この人、心臓に持病があるから……それで?)


 律子は、ロウソクの炎が《命の炎》だと確信した。

 それから毎日、事あるごとに三郎の心をきむしるような仕打ちを繰り返した。


「律子……こんなゲテモノ食えないよ」


「あら! 昆虫って案外美味しいのよ。あなたの喜ぶ顔が見たかったのに」


「律子……この香りは?」


「腐臭は、脳を刺激して長生きできるそうよ。あなたに死んでほしくないもの」


「律子……たまには外を散歩しないかい」


「外は、あなたに乗移ろうと悪霊たちがうごめいているのよ。家の中に居て頂戴」


「律子……」


 その陰湿さは執拗しつようを極めるものだった。

 三郎のロウソクの炎は今にも消えてしまいそうな程に、小さく細く弱々しいものになっていった。


(あと少し……あと少しで消える。そうしたらこの人の命も……)


 ある寒い朝。不思議な心の高揚で目覚めた律子は足早に三郎の部屋に向かった。


「あなた……おはよう! 雪が降っているわよ。起きてみなさいよ」


 逸る気持ちを抑えながら、三郎に近づく律子。

 その目に映ったのは、ロウソクの炎が完全に消え、死んだように動かない三郎の寝姿だった。


「あなた……あなた!」


 更に何度か声をかけたが、三郎からの返事は無い。

 律子は、満面の笑みを浮かべ、三郎の顔に耳を近づけて吐息を確かめた。


「あなたの恨みは消えました。これで成仏できますよ」


 律子の耳元で三郎がささやいた。


「…………」


 律子の姿は二度三度、陽炎のように揺れると、ゆっくりと透け始めた。

 そして満面の笑顔を浮かべたまま――律子は消えていった。

 若い男に騙され、みつがされた挙句に、ぼろ雑巾のように捨てられた律子は幽霊となった。

 自ら命を絶っても、その恨みが消えなければ、魂は彷徨さまよい続けなければならなかった。


「三郎! ご苦労だったな」


 律子の除霊を請け負っていた霊媒師が部屋に入って来た。


「その頭に浮かんでいたロウソクの炎が、律子の恨みを映し出していたものだとは気付かなかったようだな」


 三郎に、恨みをぶつける事で除霊できると……霊媒師は考えたのだ。


「恨みで祟った魂は、成仏させるのが大変だからっていう理由は分かるけどよ……」


「年上の女性……律子に苛められたいと言ったのは三郎じゃないか?」


 熟女が大好きな三郎に、霊媒師は印を結びながら言った。


「せめて十歳くらいの差なら……」


「あはは。霊になっても性欲は衰えないな」


 四十歳の時、年上の愛人に刺されて逝った三郎の過去が見える霊媒師である。


「とんでもない奴に憑りついてしまった。まさか……霊媒師だったとは」


 不満そうに口をとがらす三郎だった。

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