濡れた人間

 濡れた人間が入ってきた。僕はそちらを一瞥して、少し嫌な気分になった。なんだか、店の空気がさっと湿ったような気がして。

 濡れた人間は、奇妙な足音を立てながら、僕の後ろを通り過ぎた。左腕が、一瞬だけ粟立った。僕は腕をさすって、濡れた人間の方を見た。

 濡れた人間が、ぎいと音を立てて椅子を引き、その席に腰掛けた。濡れた人間は、近付いてきた店員に、コーヒーを注文する。濡れた人間の声が案外、蜂蜜みたいな甘い声だったので、僕はゆっくりと一回、瞬いた。

 ここから見える席に座っている女の人が、濡れた人間の方をちらちらと窺っていた。濡れた人間は、ぼんやりと、植物を眺めている。女の人は、ケーキにフォークを差し込みながら、濡れた人間にまた、ちらりと目をやった。なにか呟いた。彼女がなんて言ったのか、僕は一秒後に理解する。聞かなければ良かった、と顔を俯けた。

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