夏の楽園
秋田川緑
夏の楽園
灼熱の太陽が地を焼き、アスファルトが鉄板になってからおよそ半日。
夜になっても気温が下がらず、僕はほとほと疲れ果てた体を引きずって帰路に就いていた。
どうしようもなく、夏。
吸う空気も熱ければ、吐く息も熱い。
熱を吸って熱を吐いているとなると、地球温暖化も仕方のない事かと思えてくる。
なら、呼吸をしなければ地球も少しは涼しくなれるのでは? と思ったけれど、その作戦を実行すると僕のお葬式がしめやかに開催されることになるので却下することにした。
僕は呼吸をしなければ死んでしまう哀れな生き物なのだ。
――そう、僕は呼吸をすることを宿命付けられた生き物で、名はアキオ。
家には妻になったばかりの呼吸をしなければならない生き物が一人いて、二人暮らしだ。
少し前には僕が少年時代から一緒に暮らしていた犬も一匹いたので二人と一匹暮らしだったのだけれど、残念ながらその犬は先に旅立って逝った父と母の元へ行ってしまった。
僕と妻の出会いにも貢献した犬で、数ヶ月前に開催された結婚式では全世界の犬を代表して祝福のスピーチでもお願いしたいと考えていたのだけれど、それは叶わなかった。
今頃は母と一緒にゴロゴロしているのだと思う。
なんてことを考えていると、家に着いた。
ホッと安心しながら玄関を開けると、家の中が恐ろしいほどに冷えている。
「お帰りなさいませ。おうち、冷やしておきました」
「おっ、冷えてるねぇ」
出迎えてくれた妻に、ガンガンに効いている冷房。これは嬉しい。
……電気代が大変なことになってる気がするけれど。と、僕の複雑な心を感じ取った妻は、ウフフっと笑って言う。
「隠していましたが、実は私、雪女だったのです! 暑いと生きられないのです! だから、仕方がなかった……!」
「冬は『実はあの時助けていただいたサボテンです。寒いと死んでしまいますので』って暖房つけてなかった?」
実を言うと、すでに電気代で家計はピンチである。
「ダメでした?」
妻は指を唇に当てると、首を傾げて言う。
僕は絶望した。
僕の妻は世界が滅びるレベルで可愛いので、僕は強いことを言えないのだ。
「せ、設定温度を一度だけで良いから上げよう」
「フン! 設定温度を上げたければ、私を倒してから上げるんだな!」
更なる絶望が現れた。
頼むからドヤ顔で言うのを止めてくれ。君のドヤ顔はとても可愛いのだ。
「でも、お詫びに今日は尽くしてあげますよ。何か欲しいものはありますか?」
「欲しいもの?」
「ほ、
「違う、そうじゃない」
いい加減疲れてきた。
とは言え誤解の無いように伝えておきたいのだけれど、決して妻とのやり取りで疲れたわけではない。
今日はとても暑くて、忙しい日だったのだ。
と、その時、グーッとなる僕のお腹。
空腹だ。ご飯が食べたい。
僕は詩的な顔つきになって、冷静に言った。
「僕は食べ物を食べないと飢え死にする生き物なんだなあ。あきを」
「人間だもの!」
ハイタッチする妻と僕。
「でも、干し芋は流石に常備してないなあ。買っとくね。みかを」
「干し芋は良いよ……」
念のために説明したいと思うのだけれど、干し芋とはサツマイモを乾燥させたものである。僕の好物ではない。
「ではアキオ君、君は何を食べると言うのですか?」
「出来ればいつも通り、主食、副菜、主菜が揃った一汁三菜の夕食が良いよね。今夜の献立は何?」
「夕飯は用意してません」
僕は聞かなかったことにした。
「一汁三菜のお食事は素晴らしいと思うんだ。主食はパンよりもご飯、メインはお肉が好きかな。魚も良いけどね。濃い目のお味噌汁とかも夏は嬉しいし」
「夕飯は用意してません」
大事なことなので二度言ったらしい。
「ふふふ、ご飯は炊いてありますよ!」
ドヤ顔の妻が言う。
「おかずは? なんで、そんな残酷なことを!」
「キッチンがオール電化だから電気代が大変かと思って……」
気遣いは嬉しいけど、違う。そうじゃない。
「あ、あんまりだ! 何か無いのか? ご飯は炊いてあるんだろ? すぐに用意できる画期的なメニューは何か無いのか?」
「良くぞ聞いてくれました」
不敵に笑う妻。
若干嫌な予感がしたが、妻は自信満々だ。
「用意しましょう。疲れているあなたのために! アキオ君はテーブルで待っていてください! ササッ、旦那様! どうぞこちらへ! ササッ!」
素早さの擬音を口にしているのか、ササッと言われ、言われるがままササッとテーブルに着く。
「絶対に覗かないでください」
恩返しの設定が生きていたらしい。
でも、僕が座っているテーブルはキッチンが丸見えのリビングにあるので、僕は妻が何を作るか見張ろうと思う。
しかし、見張り始めたその瞬間、妻は鼻歌を歌いながらザルを持って踊りだしたので、僕の心は
……ザル?
開かれる水道の蛇口。荒ぶる妻。
「川でおばあさんが洗濯していると! 目の前を、
あ、ご飯は炊いてあったんだったけ。
となると麺類じゃないし、手に持ったのはでっかい
丼か……最高だぜ!
と、思ったら、冷凍庫を開ける妻。
「クックック。クケーッケッケッケ!」
妻がおかしい。若干、いつも通りな気がしないでもないけれど。
と、そうしている内に妻は鍋から何かを注ぎ、そして……
「か、完成じゃー! 見たまえ! これがすぐ用意できる夕食だ!」
「もう出来ただと? そしてこの、食べやすそうな丼はもしかして……!」
「そう、お茶漬けだ!」
テーブルに運ばれた丼には、この世の清涼なる物達が詰め込まれていた。
まず、ご飯があり、その上に刻まれて乗っているのは茹でた鳥ササミ肉だろう。
清純さをかもし出しているそのシンプルな肉の上に、紅一点の梅干しが激しく自己主張している。
全体的に散らされている白ゴマは、見るだけでクリスピーと弾けるようなイタズラな魅力を周囲に溶け込ませ、海苔、青ネギ、生姜などが細かく刻まれた薬味が、この『茶わん世界』の彩りを豊かにしていた。
お米は水で洗ってあるのだろう。
それでザルかと思うと同時に、汁の中でサラサラと揺れ動くその
僕はすぐさまお茶漬けをかっ込もうと、お茶わんに手をかける。
だが、そこで気づいた。
茶わんのところどころに、透明で綺麗な物体が浮かんでいる。
何よりも
「これは、氷?」
「そう、冷やし茶漬けです。出汁も前もって冷やしてありましたので冷たいですぞ? ササッ、お食べなされ!」
望むところである。
こうして、美しき夏の楽園は腹を減らした一匹のアキオによって蹂躙されることになった。
鶏肉の大地は崩され、梅干は出汁の海に沈められた後、器用に切り取られて僕の口の中に持ち去られる。
「食べたら、お風呂に入ってね」
「うむ。うむ」
出汁。サラサラの米。旨し。
僕は今、楽園を破壊する野蛮人である。
それでも、僕は感謝の心を忘れられなかった。
暑い日。夕飯を用意していないと言って、ちゃっかり出来立ての冷やし茶漬けを出せる準備をしていた妻に言うべき事がある。
僕は彼女の名前を呼んだ。
「ミカ、ありがとう。大好きだよ」
妻は幸せそうに顔を赤くしてうつむくと、しばらく黙ったままだった。
夏の楽園 秋田川緑 @Midoriakitagawa
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