六.薔薇の花束
渋谷で乗客の大半が降り、真雪は空いた席に座った。ポケットからスマートフォンを取り出す。手帳型ケースのカード入れには図書カードが入っている。それを取り出すと、一緒に付箋紙が出てきた。青い字で「3331」と書かれている。真雪は迷わず、パスコード付きのメモを開いた。付箋紙を見ながら数字を入力する。
「3331」
ロックが解除され、目次が現れる。「学校のパソコン」「Dropbox」「メルカリ」……どうやらパスワードのメモらしい。「Twitter」という項目で真雪は指を止めた。姉がTwitterを使っていたとは知らなかった。姉がTwitterのことを話題にすることはなかった。それにこのスマートフォンにはTwitterのアプリが入っていない。
真雪はインターネットからTwitterを開き、ログイン画面を出した。コピー&ペーストでユーザー名とパスワードを写す。パスワードは「132no2kki」――「秘密の日記」。ログインボタンを押すと、タイムラインが現れた。フォローしている人数はそれほど多くないらしい。プロフィールページに飛ぶと、アカウント名は「みふゆ@ひとりごと」と書かれていた。アカウントは非公開になっている。フォローしているアカウントは十五人、全て確認したが、アーティストのアカウントと、そのファンのアカウントが少しあるだけで、学校関係の知り合いはいないようだ。プロフィールには一言、「毎日を大切に生きる!」と書いてある。
真雪は下にスクロールして数日前のツイートから読み始めた。
九月七日 20:10
明日はもう月曜日か。文化祭前でただでさえ休みがないからやだなー。
九月八日 18:31
今日も疲れた。甘いものでも食べて帰る。
九月九日 11:30
今日も早弁だ。でも購買のプリンをゲットしたー!
九月九日 19:59
微熱。ちょっと頑張りすぎたみたいだ。文化祭の準備をせずに帰ってきた。ベッドで音楽聞いてる時が一番落ち着くなあ。妹も勉強してるし、大人しく寝よう。
九月十日 21:47
一日休んだ分、皆が代わりに仕事をやってくれていた。自分がいなきゃという気持ちだけで動いてきたけど、たまには思い出さなきゃだめだな。みんながいる。色んな人に支えられている。
九月十日 21:49
ありがとうって言うべき人に言えているかなあ。普段はとても言えない。周りの人みんなに伝えるのは難しいかもしれない。でも、家族と咲季には言いたい。いつかきっと。
真雪は画面を閉じて座席に寄りかかり、目を閉じた。そうしていないと涙が零れそうだった。瞼の裏の暗闇に安堵する。
「ありがとう」を伝えること。おそらくそれが美冬のやり残したことだ。
美冬は素直になるのが苦手だった。喧嘩をしても、謝るのは大体いつも真雪の方だった。けれど、その分いつも沢山考えて、沢山迷って、沢山葛藤してから行動していた。なかなか寝付けずに何度も寝返りを打つ夜が沢山あったことも真雪はよく知っている。美冬は「いつかきっと」と思いながら感謝の伝え方を考えていたのだ。しかし、その「いつか」は来なかった。
どうすれば美冬らしく感謝を伝えられるだろうか。
最寄り駅を降りると真雪は駅ビルに向かった。時間は八時半、まだ間に合うはずだ。
花屋の店先の一角に薔薇の花が咲いていた。単色だけでなく、赤と黄色、ピンクと白が混じったのもある。上品な甘い香りがほんのりと漂っている。その堂々とした姿に心惹かれて、真雪はしばらく薔薇を見ていた。
「綺麗でしょう。贈り物にも素敵ですよ。」
振り返ると緑のエプロンを着た店員が立っていた。茶色の巻き髪が揺れて笑顔が零れている。少し考えてから真雪は言った。
「薔薇の花束で感謝を伝えることはできませんか。」
出来上がった花束はダークピンクの薔薇が八本、堂々と咲き誇っていた。
玄関の戸を開け、ただいま、と言うと、おかえり、遅かったね、と両親の声が返ってくる。荷物を二階の真冬の部屋に置いてリビングに降りる。胸元に抱えた花束は優しく包み込むような良い香りがした。食卓に花束を置くと、父も母も「真雪」も驚いてこちらを見た。
「どうしたの、それ?」
食器を洗う手を止めて母が聞いた。「美冬」は精一杯の笑顔で答える。
「いや、たまには感謝してもいいかなって。それだけ。」
急にどうしたの、と 困ったように笑って母は「美冬」を抱きしめた。柔らかなぬくもりが心の澱を溶かす。「美冬」は何も言わず、母の背中をさすった。父は棚を順番に開けて花瓶を探している。「真雪」は嬉しそうに花束を眺めている。
美冬は幸せだった。
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