五.小宮咲季

 講義室を出て階段を下りる。普段は白く色味のない校舎の階段や廊下も色とりどりの装飾がなされている。生徒たちは皆、高揚と期待の混じった予感を共有していた。そわそわした空気が校舎全体に充満している。

 小宮咲季。ほとんど会ったことはなかったが、美冬が話すのをよく聞いた。美冬と同じ写真部に所属していて、休日もよく一緒に出かけていた。親友と言っていいほど親しくしていたはずだ。葬儀のときに泣いていたのを見たが、何も話しかけることができなかったのを覚えている。声を掛けるべきだったのかどうかも、今はもうわからない。その後、何度か顔を合わせる機会があったが、咲季は高校卒業とともに地方大学に進学したため、以来ほとんど会っていない。しかし、咲季は美冬の命日前後、文化祭の日には仏壇に線香をあげに来た。

 2Cの教室は既に引き戸が取り払われ、机や椅子のほとんどと教卓と教壇が運び出されていた。物の少ない教室は妙に広く感じられた。カーテンがないせいか、開け放たれた窓からはいつもより風が入って来る。

「遅い。ほら、こっちの準備はひと段落したから暗室の鍵取ってきて。」

 咲季は黒板にカメラの絵を描きながら言った。咲季はにこりともせず、真雪は緊張を覚える。中身は美冬ではないとはいえ、今は美冬としての役割を果たさなくてはならない。ごめん、すぐ取ってくる、と言って「美冬」は教員室を目指し、再び階段を駆け下りた。この後もまだやることが山ほどあるとも知らずに。


 咲季に言われた写真部での仕事を全て終えた後、「美冬」は更に文化祭運営委員会の手伝いにも呼ばれてしまい、昇降口に降りた時には七時半を回っていた。生徒の大半は帰宅していたが、幾つかの教室はまだ明かりが点いていて、暗い廊下に光の影を落としていた。下がらない気温に熱帯夜の予感を感じる。

 靴を履いて外に出ようとすると、咲季がガラス戸に寄りかかっていた。

「遅い。」

「ごめん、待たせて。」

組んでいた腕を解くと、咲季は振り向きもせずに歩き出した。「美冬」は慌てて咲季を追いかける。こうして並ぶと咲季は「美冬」より少し背が低い。

「好きで待ってたんだからいいけどさ。あと、準備があるから明日は先行くよ。」

咲季と美冬が一緒に通学していたとは知らなかった。咲季と美冬は普段はそれほど仲が良いように見えないのによく一緒に行動していた。それは咲季のドライな性格のせいだったのだと真雪は気づく。真雪が思っていた以上に二人は親しかったのかもしれない。もしかしたら、咲季ならば何か知っているかもしれないと真雪は思った。「美冬」は深呼吸をしたあと、咲季に尋ねた。

「ねえ。アプリで使ってるパスコードを忘れちゃったんだけど、心当たりない?」

真雪はできるだけ自然な調子で聞いてみたつもりだが、質問自体がどう考えても不自然だ。咲季が怪訝そうな表情を見せると真雪は酷く喉が乾くような心地がしたが、咲季は少しの間を置いて、

「どうして私が知ってるの?  どうせ美冬のことだからケースにメモでも入れてるんじゃないの。」

と答えた。「美冬」は、あ、確かに、ありがとー、と返して適当に誤魔化す。その様子を見て、咲季は呆れたような表情を見せたが、真雪はぐっしょりと水に濡れたときのような落ち着かない気持ちのままだった。

 咲季とは時折会話をしながら歩き、渋谷で別れた。咲季はこれが美冬と言葉を交わす最後の機会になることを知らない。そして、その「美冬」は美冬ではない。そう思うと別れるときに鼻の奥がつんと痛くなった。

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