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七辻雨鷹
一.花本真雪
壁紙の白が明るくなるのを眺めていた。目はとうに覚めている。夜明けと共に目が覚める真雪の朝は早い。家の中は物音一つしないが、外からは新聞屋のエンジン音が聞こえていた。いつもならすぐに起き上がって着替えるところだが、そういう気分でもなかった。今日はいつもとは違う。
しばらくすると誰かが階段を降りる音が聞こえた。母だろうか。真雪はおもむろに布団を除けて立ち上がり、窓を開けた。まだ幾らか涼しい風が部屋に入ってくる。
白いブラウスに袖を通す。スマートフォンで気温を確認して、スカートをウエストの少し上で留める。今日も暑くなるらしい。襟に赤いリボンを結んで整える。髪を梳かして結い、桃色のビーズがついたピンで前髪を留めた。
部屋を出てリビングに降りると、母が台所に立っていた。
「おはよう。」
「おはよう。今日はいつもより遅いね。」
やかんに火を入れながら母が言う。弾けるような音がして、青い炎がゆらりと立ち上がった。
「うん、今日は授業が午前中だけだから予習が少ないの。」
それから、真雪は仏壇に向き直った。鈴を叩くと周囲の空気が張り詰めた。手を合わせてから写真立ての中の笑顔に微笑みかける。
白いブラウス、赤いリボン、ポニーテールに水色のヘアピン。桜の樹の下で笑っている。
「おはよう、お姉ちゃん。」
午後から始まった文化祭のクラス準備はもうほとんど終わりかけていた。
映画のタイトルが大きく書かれた色付き模造紙を壁に貼り終えて、真雪も一息ついた。忙しなく動いていたクラスメイトも先ほどよりは減ったように思う。そろそろみんな部活の方の準備に移るのだろう。時計の針は三時を指していた。講義室の一番後ろに座ってスクリーンを眺めて真雪は満足する。教室から椅子や机を運び出したり、脚立に上ったり、一通り仕事を終えて足元から疲れが広がってきた。
段々と意識が内面に向いてくる。今日やり終えたことを思い出したり、この後することを考えたりするうち、真雪は姉のことを思い出していた。
真雪の三つ上の姉、美冬が亡くなったのは三年前の文化祭の朝だった。美冬は学校の前の横断歩道で信号を無視したトラックにはねられた。即死だったという。週末の朝早く、運転手はとても疲れていた。
それから三年。悲しい思い出があるからという両親の反対を押し切って、真雪は姉と同じ高校に進学した。せめてもの親孝行は、校門の前の横断歩道を使わないことだ。
真雪は今まさに美冬が迎えることのできなかった高校三年生の文化祭を迎えようとしている。真雪は美冬を追い抜いてしまうのだ。今まで辿ってきた足跡はもうすぐ途切れる。美冬が亡くなった後、受験の半年前に志望校を変えてまで、真雪が姉と同じ高校を選んだのは、姉の足跡を辿るためだ。そして、その先の、姉が歩くことのなかった場所を歩くためだ。そして、大学も姉が志望していた大学に進むつもりだ。それほど、真雪にとって美冬の存在は大きい。
あと少しだ。
真雪は全身を包んでいく心地よい眠気に身を任せた。
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