山葵茶漬け

和史

山葵茶漬け

「はぁ……」

 アキヲはそらに向かって一つ白い息を吐いた。春とはいえ、深夜。まだ襟巻は欠かせなかった。妻の温もりを探すように、もう一度襟巻の位置を直した。


 電車賃を惜しんで3駅ほど夜道を歩く。今日の仕事のミス、改善策、板長の怒鳴り声、同僚の冷やかな眼、もう4年も経っているのに一向に裏方から次に上がれない焦燥感。


 故郷を離れる時の親父の言葉が追い打ちをかける。自分に欠けているものは何かと日々考えるが、考えるよりも現場では大抵目の前の事で精いっぱいで、一日が終われば思考停止した頭と体を家に持ち帰るのがやっとの毎日だった。





 アパートの鐵錆びた階段をノロノロと上がる。もう寝てしまっただろうかと、そっとドアを開けると、奥の台所からあかりがもれていた。


「おかえりなさい、今日は遅かったのね」

 聞きなれた穏やかな声がアキヲを迎えてくれた。妻は何か食べるかと尋ねるが、アキヲはあまり食欲がないと伝え、断った。


 店でまかないは出るので食うのは食うが、仕事が終わる時分にはまた腹が減っていて、アキヲは毎晩帰ってくると夜食をミカに頼んでいた。


 しかし今日のように精神的にも体力的にも疲れ果てているときは、自分がただの泥の塊のように思えて、このまま倒れて眠ってしまいたかった。

「でも何か食べた方がいいわ」

いつもならアキヲの言う通りにしてくれるミカが、今晩に限って引き下がらなかった。よっぽど顔色が悪かったのだろうと思ったアキヲは、ミカに心配させたくない一心からか、何か手早くて軽いものを、と頼んでいた。


 ミカは、ちょっと待ってて、と子供のような笑顔で台所へと消えていった。アキヲはゆっくりと机の前につくと、ふぅ、と深く息を吐き、目を閉じ脳ミソを開放する。

妻の笑顔を見たことで安心したのか、一気に体に重みがかかるのを感じた。


 台所からはそれとは逆に、軽やかにトントントントンと包丁で何かを刻む音とシャコッシャコッという薄っすらだが何かをすりおろす音が聞こえてきた。


 アキヲは目をつぶったまま、その音に集中する。心地よかった。体に感じた重みが徐々に消えていくのが分かった。今日感じた怒号も冷たさも暗い気持ちもなかったかのように、ただ優しい音だけがアキヲの心を満たした。





「あら、寝てしまったの?」

 ふふふ、とミカは笑顔でそう言うと、アキヲの前にコトリとお盆を置いた。

「いや、寝てたわけじゃなくて、ちょっと目を……」

 そう言い訳をしながら目を開けると、目の前にはホコホコの白飯しろめしの上に鰹節がふわりとかかり、その下に少量の千切りにした山葵わさび。そしてこんもりと盛られた色鮮やかなすりおろし山葵が顔をのぞかせた一杯の茶碗があった。爽やかな香りがする。


 裏腹に思い出したくないものも思い出す。

これってひょっとして本山葵かい? いったいどうやって……、

というアキヲの質問に、

「お醤油をちょっとたらしてから食べてね」

 と言うと、ミカはまた台所へと消えていった。


 仕方なくアキヲは茶碗を手に取った。

山葵は穏やかな緑色で、風味よく、口いっぱいに頬張っても辛みより甘みが広がった。醤油と削り鰹との相性もいい。

あぁ旨い、と一気に平らげてしまった。


 おかわりを言う前に、次はこれよ、とミカがすりおろした山葵の皿と、葉山葵の漬物を持ってきた。「お、これは」と葉山葵の漬物を口に入れると、何とも言えず白飯が欲しくなった。


 すかさず白飯が茶碗によそわれ、再度山葵と削り鰹が盛り付けられる。醤油をたらそうとすると、ミカは醤油瓶の前に手をかざし、代わりに出汁の入った茶瓶をアキヲに渡した。


「なるほど、2杯目は山葵茶漬けか。でもミカ、この山葵って本山葵だよな、いったい……」

 どうしてこんな高価なもの、ともう一度言いかけて、アキヲは口をつぐんだ。

「いいから、早く食べて」

 ミカが少し泣きそうな笑顔で茶碗に出汁を注ぐ。


 アキヲは少しの間、綺羅と光る出汁を見つめていたが、おもむろにそれにゆっくりと口をつけ、仄かに香る出汁を飲んだ。


 すぐに分かった。


 思い出の奥底にある味。


 出汁は主張しすぎず、しかし味はしっかりと存在し、山葵の邪魔をせず、よりいっそう「山葵茶漬け」としての山葵の存在を引き立てていた。アキヲは山葵と削り鰹を出汁で口へと流し込み、かみしめるように食べた。


「あのね、アキヲには黙っていたんだけど、あたしお義父とうさんにずっとお手紙出してて……。あなたがまだ料理人辞めずにいることや、こちらの近況とか……ずっと」

 アキヲは箸を止め、下を向いたまま黙って聞いている。


「そしたら、今年初めてね、お手紙がきてね、あたしたちの結婚、許すって、応援するって。この山葵と一緒にお手紙くれたの」



 勘当同然で飛び出した家。

アキヲが小さいころ、板前を辞めて山葵農家を継いだ父。

そんな父に、板前になると言うと、お前のような中途半端な奴は板前なぞつとまらないと反対されたこと。


 どうせ腕が悪いから板前を辞めたんだ、父さんの作る出汁なんかより自分の腕の方が何倍も上だと酷いことを言ったこと。


 本当は父さん以上の出汁なんて今の自分には作れないことは、『今』のアキヲには痛いほど身に染みて分かっていた。現に、目の前にある出汁は主役を邪魔せず、それでいて、あぁ旨い、と心から思わされる味だった。


「でね、辛いこと山のようにあるだろうけど、一度お前が決めたことだから、最後までやり抜けって。お前ならできるからって」

 ミカはそれだけ伝えると、そっと、机にたった一枚だが短い文で綴られた手紙を置いた。



 じっと聞いていたアキヲは残りの茶漬けを泣きながら掻き込むと、3杯目のおかわりの茶碗をミカに差し出した。

 ん。とだけ優しい返事すると、ミカはまた茶碗いっぱいに白飯をよそった。




 

 

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