fragments

foghorn

nobody

教員免許を取得するための実習で故郷に戻ったのは、数年ぶりだった。

何せ広い土地以外と農産物以外にはほとんど自慢できるようなものがない街なので、僕は暇さえ見つけては母の車を借りて、これまた何も特筆すべきところがない隣街まで、何の用事もないままいつも出かけていた。


ある日その隣街のガソリンスタンドへ入ろうとした時、僕は思わず声が出そうになるほど動揺してしまった。「オーライ、オーライ」と丁寧に僕を導くスタンドの店員が、僕にとってはどうしても忘れられない存在だったからだ。


人間はその死の瞬間に過去の思い出がフラッシュバックするというけれど、その彼の顔を見た時の僕には、高校2年生の夏のある日のできごとが、事細かな部分まで含めて、思い出された。


小さな無人駅。割られたガラスの形。掴んだ土の湿り気。恋人の叫び声。自分の血の味。ジャンプ漫画の擬音のような派手さは全然なかった、骨が折れる音。いつも見るより今日は90度傾いて、内浦湾へ暮れる夕陽。


「今度お前が俺をムカつかせたら、殺す」

「お前みたいな奴が、おだつな (調子に乗るな)」


いかにも高校生らしい彼の脅しの言葉も、同じく高校生だった僕にとっては、その心を数年凍らせるのに充分な鋭さを持つ凶器だった。


あの夏の日を思い出していたのが何秒だったのかは分からない。

彼は僕のことに全く気づいていない様子で、フロントガラスを丁寧に拭いてくれている。僕はどうしたらいいのか分からず、動かせるのはほとんど目だけだった。

そして、不意に彼と目が合ってしまった。

彼が拭き終えたガラスに負けないぐらいの、透き通った笑顔だった。

僕はその時、彼に対してどれほど曇りきった目を向けていただろう。


僕にとってのあの日は、彼にとってはおそらく、ガソリンスタンドへ出勤して愛想良く笑顔を振りまく今日と何ら変わらない、至って普通の一日だったのだろうと思った。


僕がもし突然エンジンをかけたら、いまは熱心にボンネットを拭いてくれている彼はぎょっとするだろうか。そして僕がそのままアクセルを踏んだら、彼は動揺し、死の危険を感じるだろうか。

そして彼の脳裏にもまた、過去の思い出がフラッシュバックするのだろうか。その思い出の中に、あの夏の日はあるのだろうか。


「ありがとうございました」

とだけ、やっと声にして、僕はのろのろと発車した。

二度と彼には会うまい、会いたくないし、会うべきではないもの。

次に僕が君と会ったら、僕は自分の衝動を抑えられる自信がないんだよ。

きっと、あの日の君が僕に対してそうだったのと同じに。


僕はミラー越しに、小さくなっていく彼を見た。僕は見てしまった。


高校生だった僕にはいちども見せてくれなかった彼の素敵な笑顔を。

帽子をとって、丁寧に頭まで下げてくれた彼の姿を。


「どこの誰でもない」僕に。

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