第75話琵琶引并序

元和十年 予左遷九江郡司馬

明年秋 送客湓浦口ぼんほくち 聞舟中夜彈琵琶者

聽其音 錚錚そうそう然有京都聲 問其人 本長安倡女

嘗學琵琶於穆・曹二善才 年長色衰 委身爲賈人婦

遂命酒 使快彈數曲 

曲罷憫默 自敍少小時歡樂事 

今漂淪憔悴 轉徙於江湖閒 

予出官二年 恬然自安 感斯人言 

是夕始覺有遷謫意

因爲長句 歌以贈之凡六百一十六言 命曰琵琶行


元和十年に、私は九江群の司馬に左遷された。

翌年の秋に、客人を湓浦口ぼんほくちに見送りをした折に、舟の中から琵琶の音が聞こえてきた。

その音に耳を傾けていると、まさに錚錚そうそうとした長安風のものである。

そこで、その弾いている本人に尋ねてみた。

すると、確かに、もとは長安の妓女だったとのこと。

かつて琵琶を穆・曹二善才に学んだけれど、寄る年波には勝てず、容色も衰え、商人の妻として、その身を委ねたと語った。

そういう話であるので、私は酒宴を開くこととして、そのかつての妓女が心ゆくまで琵琶を弾かせた、

かつての妓女は、弾き終わるとしばし、悲しそうに沈黙した。

その後、語りだしたのは、若い時は本当に楽しかったけれど、今はあてのない漂泊の身、容色もやつれ果てた、江州の付近をうろついているだけということ。

この私は、都を追放され、はや二年、精神的には穏やかで満足をしている。

しかし、この妓女の流されているだけの人生に、自分の心が動いた。

今夕になってはじめて、左遷の本当の悲哀が沸き起こった。

そういうことであるので、ここに七言歌行を作り、彼女に贈る、

合計六百十六字、名付けて「琵琶行」と言う。


※九江郡:江州の古名

湓浦口ぼんほくち:湓水が長江に流れ込む河口

錚錚そうそう然:琵琶の澄みきった音色の表現

※穆・曹二善才:琵琶の名人

※漂淪:あちこちをさまよう漂白の身

※轉徙:あちこちを転々とする


○『琵琶行』と『源氏物語』の須磨、明石の巻

 光源氏は父桐壷帝が歿し自分の地位が危うくなっている折も折、政敵右

大臣の娘 朧月夜との密会が発覚し窮地に陥り、源氏はやむなく須磨への謫居を決意、生まれて始めて都を離れた。

紫式部は、その様子を白楽天の江州赴任になぞらえ、彼の詩を随所にちりば

めながら、その落魄の状況を描く。 

さて、光源氏は明石に移り、明石の入道のひとり娘で「琵琶なむ、まことの音を弾きしずむる人」という琵琶の名手に出逢う。

その琵琶の音は、海面に照り輝く月の光と、寄せては返す波の音に増幅されて光源氏の心を揺さぶる。

まさに『琵琶行』そのものの場面を物語中に反映させていく。

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