ツバサを。

あいそん

夕暮れ、都会のビル、屋上で。






「飛びたいのか?」

「そう」


 男の問い掛けに、少年はゆっくりと頷いた。


「だってもう、疲れちゃったんだ」

「……そうか」


 それだけ言って男は煙草を咥え、火を点けた。

 肺を刺すような煙を吸い込んで、少年は咳込む。

 空を見上げて深く長い溜息をつく男に、少年は不満気な目を向けた。


「おじさん」

「おっと、悪い。子供にはちょっと刺激が強かったか」


 口元を歪め、男は煙草の火を指で揉み消した。

 それを排水溝にねじ込んでから、少年に笑って見せる。


「坊主があと十年生まれるのが早けりゃ、こいつの良さが分かるんだけどな」

「タバコは身体に悪いんだよ」

「つまんねえこと言うなや。長生きしちまうぞ?」

「……しないよ、絶対」


 それきり、少年は口を閉ざした。

 男はポケットの中のジッポを弄ぶ。

 硬質な金属音が、ジッポの蓋が開閉する度に少年の耳朶を叩いた。


 空はもう夜に差し掛かっていた。

 ちらほらと浮かぶ淡い光が、手招きをするように瞬いた。


 少年は深呼吸をして、それから緊張を解すように伸びをした。

 男は相変わらず、空を見上げてライターを弄っている。


「……止めないんだね。おじさんは」

「あのな、どうして俺がこんなところにいると思う? お前と同じだよ。俺も疲れたんだ」

「そっか。そうだよね」


 少年は、屋上の入り口の扉が壊されていたことを思い出した。

 男はもう一度大きな溜息を吐いて、少年の方を見た。

 濁った少年の瞳と、擦り切れた男の瞳が交差する。


「……天国はあると思うか?」


 不意の言葉に、少年は言葉を詰まらせた。

 それでも、僅かな時間で首肯を返す。


「何故?」

「空に星があるから」


 少年は昔母親から聞いた、死者の魂の行先をぼんやりと思い返していた。

 男は愉快そうに笑うと、また煙草を取出して火を点けた。

 口に咥え、強く息を吹き出す。

 白く汚れた煙が、空へと立ち上っていった。

 今度は、少年も何も言わなかった。


「俺も、天国はあると思ってる」

「どうして?」

「天使がいるからさ」

「会ったこと、あるの?」

「あるさ」


 疑わしげな少年の瞳を、男は強い目で見返す。


「天使はいるんだ。こんなくそったれな世界で、必死こいて生きる奴らを運んでいく。俺みたいなどうしようもない奴は置いてかれる。だから、この世界はくそったれなんだ」

「……そうなの?」

「そうさ。こいつが全部教えてくれる」


 そう言って、男は懐から一本の煙草を取出して少年に掲げて見せた。

 どことなく吸い寄せられる様な、惹きつけられるような、そんな危険な魅力を感じる。

 他の物と比べて、少し緑がかっていた。


「おじさん、それ」

「こいつは鍵だ。天国の扉を開く為の鍵。前に使った時は、開けるまでは上手くいったんだが、入ろうとしたところで天使に追っ払われてな。それで今ものうのうと、って訳さ」

「……それ使ったら、僕も天国に行けるかな」

「無理だな。お前も俺と同じように、追っ払われるのがオチだ。天使が連れてくのは、真面目で善良な人間って昔から決まってる」

「誰が決めたの、それ」


 物欲しそうな少年の声に、男は黙って肩を竦め、それから緑の煙草を懐に戻した。

 星空は相も変わらず瞬き続けている。

 男は眩そうに目を細めた。

 少年も釣られて空を見上げ、目を細める。


「僕に翼があればな。そしたら飛んで、いけるのに」


 男は微笑んで、少年の頭を撫でた。

 父親が息子を慰めるように。

 或いは、聞き分けの悪い子供を宥めるように。


「翼なんてなくても、空は飛べるさ。行こうと思えば何処にだって行けるし、何だって出来る」

「そんなの、嘘っぱちだよ。おじさんだって、知ってるでしょう」

「……ああ、そうだな。違いない」


 男は自嘲気味の笑いを吐き出した。


 本当に何処にでも行けるなら、此処になんていなかった。

 本当に何だって出来るのなら、此処になんていなかった。


 男はまた冷笑を浮かべ、煙を吐いた。

 シケてやがる。

 吐き捨てるように呟いた。


「世間ではな、お前みたいな子供を、夢がない子だ、って言うんだぜ」

「知ってるよ」

「馬鹿な話だよなぁ。大人はみんな知ってるんだ、夢なんかどこにもないって。それを信じられなくて、必死に隠そうとして、子供に虚像を見せる。その癖、人が夢を見てるのは何故か許せなくて、ぶち壊そうとするんだ」


 本当にくそったれだ。

 少年は男の懺悔とも取れる嘲笑を、じっと黙って聞いていた。

 背中の蚯蚓腫れがじくじく痛む。

 自分を夢のない子だと責める両親の気持ちが、ほんの少し分かったような気がした。


 しばらく、二人で空を眺めていた。

 やがて大きな黒い雲が空を覆いつくすまで、誰も何も喋らなかった。

 男はポケットからライターを取り出して、火を灯した。

 暗い世界に、ほんの僅かな光が浮かんだ。

 男はそれを置き、懐から煙草を取り出して、少年に尋ねた。


「……なあ、坊主。お前、天国に行きたいか?」

「……さっき、行けないって言ったじゃない」

「ああ、一人じゃ無理だ。だけど、俺と一緒なら入れるかもしれない。俺も、お前と一緒なら、出来るかもしれない。……どうする?」


 少年は悩んだ。

 漠然とした不安が、心を鷲掴みにしているような気がした。

 明るかった頃はあんなに魅力的だった空が、今はなんだかどんよりと薄気味悪いものに思えてならなかった。


 男は、黙っている少年をじっと見つめている。

 ずっと浮かんでいた作り笑いは鳴りを潜め、真剣な視線が少年を射抜く。

 緊張した空気が、二人の間に流れていた。


「……やっぱり、いいや」


 情けないようでしっかりとした返事が、少年から聞こえた。

 ふっ、と男の肩から力が抜ける。


「そうか、そうだよな。だから俺達は天使に嫌われるんだよな」

「おじさんは、どうする?」

「もう一度だけ試してみる。それでダメなら諦めるさ」


 そう言って、男は煙草に火を点けた。

 少年はタバコから煙が出るのを見て、鼻と口を手でふさいだ。

 手に入ってしまえば、飛ばずにはいられないと思ったから。


「坊主、お前はもう帰れ。親御さんが心配してるぞ」


 追い払うような手振りをする男に、少年は答えなかった。

 それを見て、男も追い払うのを止める。

 少年はなるべく息を潜めながら、食い入るように男を見つめていた。


 十分ほど経った頃、男は徐に歩き出した。

 どこか危うい足つきでビルの淵に辿りついた男は、そっと下界を見下ろした。

 あくせくと歩き回る人々を、無機質な電燈が照らしている。


 何のために歩いているんだろう。

 回らなくなった頭で、ぼんやりと男は考える。

 耳障りなノイズが、男の翼を開いていく。

 全能感と浮遊感、脳を焼切るような快楽が、男の全身に満ちた。


 ああ、行ける。

 今なら、何処にでも行けるし、何だって出来る。

 俺には今、翼があるのだから。


 男が空へ飛んで行こうとしたとき、ぽつりと少年が呟いた。


「おじさん」


 どこか懇願するような声が、男の耳朶を揺らした。

 男の頭に火花が散る。


『お父さん』


 光が、遠い昔の記憶を一瞬照らし出した。


 たったそれだけで、男の足は止まり、翼は閉じ、消えて無くなった。

 全能感も浮遊感も失せた男は、後ろに倒れ込む。

 ゴミ袋が投げ捨てられたような音が、遅れて男の耳に届いた。


「おじさん!」


 駆け寄る少年の声に、男は力なく微笑むことで答えた。


「ああ……また駄目だった……。もう少しだったのに。あいつに、会えると思ったのに。どうしようもねぇ……。本当に、くそったれな世界だ……」


 翼を生やした反動で緩んだ涙腺から、とめどなく雫が零れ落ちる。


「おじさん、ごめん……」

「馬鹿野郎、謝んじゃねぇ……。どうせ、こうなってた。翼なんかあったって、飛べない奴はずっと、歩き回るしかないんだ……」


 悔しそうに呟く男の表情は、しかし穏やかだった。

 男の顔を心配そうに覗く少年の頬を、そっと撫ぜる。


「なあ、坊主……。やっぱり、お前なら出来るよ……。あんなもんなくたって、行こうと思えば何処にだって行けるし、何だって出来る……」


 言葉を紡ぐ内に、男の身体を耐えがたい脱力感と猛烈な眠気が襲い始めた。

 瞼を閉じると、ぼんやりと開け放たれた扉が見えた。

 懐かしい声が、内側から聞こえる。

 男がずっと、求めて止まなかった、あの声が。


「はは……何だよ、畜生。鍵なんてなくたって、最初から扉、開いてたじゃねぇか……」

「……おじさん? ――おじさん!」


 身体を包み込む優しい闇に遮られて、少年の声もどんどん遠くなっていく。

 必死に叫ぶ少年の頭を、男は最後に一撫でした。


「坊主……翼なしで、飛んでこいよ……」


 男はそれきり、動かなくなった。






 *






 それから、長い年月が流れた。


 少年だった男は、またあのビルの屋上に来ていた。

 ずっと前に壊された鍵には、うっすらと埃が積もっている。


 右手に持った花束を、あの時男と話した場所に置き、少年だった男は空を見上げた。

 雲一つない青空が広がっている。


 吸い込まれるような大空だ。


 男は懐から取り出した白い煙草を口に咥えて火を点けた。

 ジッポを片手で弄びながら、じっと空を見据える。


 

「おじさん。……俺、飛べたよ」



 そう呟いて、男は息を吐き出した。




 白い煙が、どこまでも高く立ち上っていった。




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ツバサを。 あいそん @younger17

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